2004年6月26日UP 本日更新分はここ |
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ゴクリ−−。かつての同族たちにそう呼ばれて村を追われてから、彼はしだいに自分の過去を忘れた。かつてはスメアゴルという名だったことも、家族や友や同族がいたことも忘れたし、かつての自分の姿も、パンやシチューを食べていたことも忘れた。
自分の名はゴクリで、好物はナマの魚。同族はおらず、家族でも友でも恋人でもあるのはただ「いとしいしと」のみ。
もう長いこと、彼はそう思いこんでいた。
その彼に、スメアゴルだったころの記憶を呼び覚ましたのは、フロドという名の「ホビットのだんな」だった。
フロドは彼を「スメアゴル」と呼んだ。その呼び声には、憐愍とも共感とも愛情ともつかぬ響きが混じった。その響きは、「スメアゴル」という呼び名とあいまって、スメアゴルの記憶を少しずつ呼び覚ましていった。
「スメアゴル」
最初に思い出したのは、その呼びかけだった。ホビットのだんなの声ではない。もっとトーンが高く、心配そうで、怒っているのに愛にあふれていた。
「ああ、スメアゴル。心配したわ。暗くなる前に帰りなさいっていって言ったでしょう?」
それから、息苦しくなるほど抱擁されたことも思い出した。
それに、もっとトーンの低い、ホビットたちの声よりもさらに低い「スメアゴル」という呼び声も。
「スメアゴル。かあさんにもうこんなに心配かけるんじゃないぞ」
叱りつけながらも、その声にもやはり愛があった。
ゴクリが「いとしいしと」を大切に思うのと同じぐらい、スメアゴルは大切にされたことがあったのだ。ゴクリが「いとしいしと」を大切に思うのとはどこかが違う愛情で。
それから……。
サムとかいうホビットが自分に食べさせようとしたのと同じような湯気のたつシチュー。それをたしかに、スメアゴルはおいしいと感じながら食べたことがあった。
それらの記憶は彼を戸惑わせたが、心地よくもあった。
彼の半分はその記憶を喜んだ。ホビットのだんなの声は、かつて自分を「スメアゴル」と呼んだ人々の声とまったく同じではないにしても、少し似た響きを含ませて「スメアゴル」と呼んでくれる。
いいだんなだと、スメアゴルは思った。
やさしいだんなだ。このだんなの望みをかなえてやりたい。滅びの山に行きたいというなら、道案内もしてやろう。そんなところに何をしに行くのか見当もつかないが。
そんな気持ちに、彼の半分が抗議した。
このホビットは、「いとしいしと」を奪ったではないか。ホビットを殺して、 「いとしいしと」を取り戻さなくてはならない。
彼にとって、スメアゴルの記憶がどれほど暖かくて心地よくても、それに身をゆだね、「いとしいしと」を奪ったホビットに肩入れしてしまうことには激しい抵抗があった。
スメアゴルに戻るのは、ゴクリとして生きてきたこれまでの自分の生を否定するのに等しい。それに何よりも、「いとしいしと」への強い執着が、スメアゴルに戻るのを許さなかった。
「いいだんなだ。殺すなんてとんでもないよ」
「いいや、殺すんだ。ホビットたちを殺して、『いとしいしと』を取り戻すんだ」
彼の心の中でスメアゴルとゴクリが争い、ホビットたちが寝静まったあと、彼はそれを口に出して、自分と自分とで口論した。まるで一つの体のなかに、スメアゴルとゴクリの二つの魂が宿っているかのごとく。
スメアゴルの記憶が少しずつ蘇ってくると、彼はデアゴルのことも思い出した。
スメアゴルとデアゴルはいとこどうしで、幼なじみでもあった。スメアゴルの両親が病気のために相次いで亡くなると、デアゴルの両親はスメアゴルのことを自分の息子のように気にかけてくれた。
もう独り立ちできる年齢に達していたスメアゴルだが、それでも家族を亡くした身にとって、近親者の支えはありがたかった。とくにデアゴルとの友情は、悲しみのために内にこもりがちだったスメアゴルの目をふたたび外界に向けさせ、喜びや楽しみを思い出させてくれた。
そんなある日、スメアゴルとデアゴルは魚釣りに出かけ、ボートから転落したデアゴルが川の底で金色の指輪を見つけた。
岸にはいあがったデアゴルは、その指輪を見て、ひとめで魅了された。彼を心配して駆け寄ってきたスメアゴルもまた、デアゴルの手のなかの指輪に惹きつけられた。
その日はたまたまスメアゴルの誕生日の前日だった。
「誕生祝いの贈り物に何か欲しいものがあるか?」
デアゴルにそうたずねられたとき、スメアゴルは何も思いつかず、答えていなかった。スメアゴルはそれを思い出し、デアゴルに言った。
「それをくれ。誕生日の贈り物に」
スメアゴルが伸ばした手を、デアゴルはふりはらった。
ふたりはにらみあった。長いつきあいだから、これまでにもケンカをしたことぐらいはあったが、お互いにこれほどの敵意をもって向き合ったことはない。仲のよい友人どうしの一時的な諍いではなく、ほんものの敵意と憎悪とともにふたりはにらみあい、どちらからともなくなぐりかかって、力づくで指輪を奪おうとした。
スメアゴルは夢中でデアゴルの首を絞めた。
やがてデアゴルはぐったりして動かなくなり、スメアゴルは指輪を手に入れた。ついさきほどまで友と呼んでいた者が冷たい骸となったことも、彼の命を奪ったのが自分であることも、指輪に魅せられたスメアゴルの念頭には浮かばなかった。
デアゴルのことを思い出して、いまやゴクリとなったスメアゴルは愕然とした。
デアゴルを殺したあとの村人たちに罪人として追われた記憶は、恨みの気持ちとともにおぼろげながら残っていたが、その原因となったデアゴル殺害は、すっかり忘れてしまっていた。
デアゴルを殺したのはゴクリではなく、スメアゴルだった。「いとしいしと」に魅せられてはいたが、たしかにスメアゴルだった。「いいスメアゴル」なんて、どこにもいなかったのだ。
それを思い出したゴクリは、フロドとサムに苛立った。
デアゴルはスメアゴルを殺そうとし、スメアゴルはデアゴルを殺した。「いとしいしと」を見れば、だれだってそうなるのだ。
それまで「友」と呼んでいた者であれ、だれであれ、相手を殺してでも、「いとしいしと」を手に入れずにはいられない。
なのに、どうしてホビットたちは殺しあわないのだ? どうして「いとしいしと」を奪いあわないのだ? あのサムとかいう乱暴なほうのホビットは、「いとしいしと」が欲しくはないのだろうか?
そんなはずはないと、ゴクリは思った。ゴクリのなかのスメアゴルも同じ考えだった。
あのホビットは「いとしいしと」が欲しいはずだ。それなのにフロドとかいうホビットのだんなから「いとしいしと」を奪おうとしないのは、奪い取るチャンスをうかがっているだけだ。ゴクリがチャンスをうかがっているのと同じように。
そうではないかもしれないという考えは、ゴクリの頭には浮かばなかった。なぜなら、そうではないかもしれないという考えは、ゴクリには堪えがたいものだったからだ。
もしも「いとしいしと」を目にした者が、だれでも欲しがって手に入れようとするのでないのだとしたら、どうしてデアゴルはスメアゴルから「いとしいしと」を奪おうとしたのだ? どうしてスメアゴルはデアゴルから「いとしいしと」を奪ったのだ? どうしてスメアゴルはデアゴルを殺したのだ? どうしてデアゴルは死ななければならなかったのだ?
指輪を奪って友と殺しあいをしたことへの嘆きや友を亡くした悲しみ、亡き友への悼みと哀れみの感情は、指輪に冒されて病んだゴクリの心にそれと意識されることはなかった。だが、それらは確かに、過去を思い出したいま、ゴクリの心の奥底に存在した。
当人も気づいていない嘆きと悲しみは、指輪を前にしても殺しあいをしないホビットたちへの苛立ちと憎悪に変貌した。
ホビットたちが「いとしいしと」を奪いあい、殺しあうところを見たいと、ゴクリは望んだ。
そうでなければ、デアゴルがかわいそうだ。殺しあいをしたデアコルとスメアゴルがかわいそうだ。
そんな思いは、ゴクリ自身に意識されることはなかったが、ゴクリのなかに確かにあった。それで、彼には、デアゴルとスメアゴルが殺しあいをしたのに、ホビットたちがそうせずに仲よく助け合っているのは、がまんならないほど理不尽に感じられたのだ。
ホビットたちがなかなか「いとしいしと」の奪いあいをはじめないのなら、自分が後押ししてやるまでだ。
そこで、ゴクリはフロドにささやいた。
「あのホビットは『いとしいしと』を盗もうとした。ほんとだよ」
ゴクリにとって、それはうそではなかった。「いとしいしと」を目にして、奪いたいと思わない者はないはずなのだから。
フロドの動揺を見て、ゴクリは内心でほっとした。
そうだ。「いとしいしと」を前にすれば、だれでも奪いあいをするものなのだ。それがふつうなのだ。それを確認すると、落ち着かなかった思いが少し静まった。
ゴクリの確信をさらに深めるように、サムが言った。
「しばらくそれをお持ちしますだ、フロドさま」
そうだ、こいつはやっぱり「いとしいしと」を狙っていたんだ……と、ゴクリは確信した。
ゴクリの予想に反して、ホビットたちは殺しあいをしなかった。「いとしいしと」を奪いあうために、なぐりあいもしなかった。それでも彼らはケンカ別れしたので、ゴクリは満足した。
サムは指輪を奪おうとしたのではなく、フロドの苦しみを見ていられなくて、心配のあまり重荷を分かち合おうと提案したのだとは、ゴクリには思いもつかない。
「ごめんよ、サム。おまえがボロミアみたいになってしまったら、ぼくには堪えられない。おまえを連れてはいけないんだ。無事にみんなに合流してくれ」
フロドがサムを追いはらったあと、そんなひとりごとを口にしているのを聞いたが、ゴクリには意味がよくわからなかった。
だが、彼にとってはどうでもいいことだ。ホビットたちもスメアゴルやデアゴルと同じだとわかったのだから、それでじゅうぶんだ。
ゴクリは嬉々として、フロドを巨大蜘蛛シェロブのもとへと導いたのだった……。
スメアゴルが殺した友人の名が、もし記憶違いだったらごめんなさい。 |