指輪を見せたとき

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 仲間と別れなければならない。
 フロドは、指輪をにぎりしめてそう決心した。
 旅のとちゅうで仲間と別れなければならないだろうということは、裂け谷を出発したときから予感があった。ロスロリエンでガラドリエルと話して、その予感はさらに高まっていた。
 とうに別れるべきだったのかもしれない。ボロミアが指輪に影響されていることは、うすうす感じていたのだから。
 ボロミアにとっては無理もないことだ。彼の祖国は危機にさらされており、モルドールと対抗する力を欲している。そして、ボロミアは、指輪の所有者になったこともなければ、この旅に出るまで魔法のたぐいと関わったこともないので、これの恐ろしさが実感としてわかっていないのだ。
 それでも、ここまでボロミアは、たしかに指輪の影響に抵抗していた。騎士の矜持を強くもち、誇り高い人でもあったから、抵抗しつづけてくれると思っていた。それなのに、指輪に負けてしまったのだ。
 ほかの仲間たちは、たぶん、ボロミアほど指輪に対してもろくはないだろう。だが、絶対に指輪の影響を受けないと言い切れるだろうか。
 仲間と別れなければならない。
 そう思ったとたん、フロドはアラゴルンとばったり出会ってしまった。
「どうした、フロド? 何があったんだ?」
「ボロミアが指輪に負けてしまった。指輪を奪おうとしたんだ」
 アラゴルンが「ああ」と呻いて、顔をくもらせた。
「これ以上、みんなといっしょに行けない。ぼくはひとりで行く」
「だめだ、フロド。それは危険すぎる」
「ほかの人も指輪の影響を受けないとはかぎらない。モルゴールと戦う力が欲しいのは、みんな同じなのだから」
 アラゴルンが納得しそうにないので、フロドは思わず、言う気もなかった言葉を口にした。
「あなただって例外じゃない。あなたも力が欲しいのだろう?」
 そう言ったとたん、フロドは衝動的に指輪を取り出し、試すようにアラゴルンの前に差し出した。
「あなたもこの指輪が欲しいのではないのか?」
 ばかなことをしていると、フロドは内心で思った。指輪に影響されてばかなことをしたことは何度かあったが、今回は違う。ボロミアの変貌にショックを受けていたので、アラゴルンは彼のようにならないと確認したいのだ。
 ホビットたちとガンダルフを別にすれば、フロドは旅の仲間たちのなかでアラゴルンをもっとも信頼していた。もちろん、レゴラスもギムリも信頼しているけれども、アラゴルンは別格だった。
 だから、アラゴルンが指輪に負けるとは思わない。彼もボロミアのようになると思っていたら、指輪を見せたりはしない。
 だが、絶対に負けないと信じきることもできない。ボロミアだって、一抹の不安を抱きながらも、それなりに信頼していたのだ。なのに、おかしくなってしまったではないか。だから確かめたいのだ。アラゴルンが指輪に負けないということを。
 アラゴルンは指輪を凝視した。彼にとってさえ、指輪が危険なものであるのは明らかだ。
 内心の葛藤を秘めた表情のまま、アラゴルンが無言でゆっくり前に足を踏み出したので、フロドはびくりとした。つかのま、悪態をつきながら襲いかかってきたボロミアの姿が浮かぶ。アラゴルンまであんなふうになりはしないか。
 だが、アラゴルンは指輪の恐ろしさをよく知っている。なにしろ、指輪のために破滅したイシルドゥアの子孫で、その先祖の罪を背負わされて生きてきたのだ。指輪についての彼の認識は、ふつうの人間より、ガンダルフやエルフたちのそれにずっと近い。
 そう思ったとたん、フロドは別の理由で恐くなった。指輪を差し出したときのガンダルフとガラドリエルの反応を思い出したのだ。
 どちらもとても恐かった。ガンダルフのことはよく知っていたはずなのに、まるで見知らぬ人のようだった。ロスロリエンの奥方もはじめの印象とは別人のようだった。奥方にすっかり傾倒しているメリーやピピンやギムリが聞いたら怒りそうだが、フロドが彼女に抱いた感想は、「ガンダルフの同類」だ。
 つかのま、フロドの脳裏に、アラゴルンが両手を上げて天をふり仰ぎ、芝居がかった口調で「わたしなら指輪を善きことに使うだろう!」と絶叫する姿が浮かんだ。
 それはそれで恐い。見たくもない。
 びくびくしているフロドのすぐ前で、アラゴルンは膝をつくと、指輪を差し出したフロドの手の指に触れ、指輪をにぎりこませた。
「わたしはきみの味方だ。つねにきみを守ることを誓う。その指輪を始末するのがきみの使命なら、それを助けるのがわたしの使命なのだ」
 フロドは二重にホッとして、肩の力を抜いた。
 邪な目で見れば、これはこれであやしく見えたかもしれないが、フロドは純朴で健全な青少年だったので、もちろんそんなことは考えない。アラゴルンはとてもまともな人だと思って安心したのだ。べつに、ガンダルフやガラドリエルがまともでないというわけではないが。
 アラゴルンは滅びの山までつきあってくれるつもりでいる。彼がいれば、ずいぶん心強いだろう。
 だが、それはだめだと、フロドは思った。
 ほんとうに信頼できる大切な友人だからこそ、巻き添えにしたくない。もちろん、ほかの仲間たちも。それに、ボロミアがおかしくなったいま、アラゴルンはゴンドールにとってなくてはならない人だ。彼はミナス・ティリスにいかなくてはならないと思う。
 どうすればいいのだろう? 指輪を使ってアラゴルンから逃げるようなことだけはしたくないのに。
 困っていると、遠くで叫び声や剣を打ち合う音が聞こえた。仲間たちがオークの襲撃を受けているのだ。
「ここに隠れているんだ! 戻ってくるまで、動くんじゃないぞ!」
 そう叫ぶと、アラゴルンは駆け出した。
 フロドは、もちろん待つつもりはなかった。メリーとピピンの叫び声が聞こえたのは気になったが、アラゴルンがきっと助けてくれる。彼だけでなく、レゴラスとギムリもいるのだし、指輪が遠くにいってしまえば、ボロミアだって正気に戻るかもしれない。
 それで、フロドは、ボートをつないである川岸に向かって駆けおりたのだった。


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