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時の流れに忘れ去られたかのように、山々に包まれてひっそりと横たわる湖。めったに人の訪れぬ湖だが、今は、黒いワンピースの女がひとり湖畔にたたずみ、陽に照り映える水面を見つめている。
女は美しかった。腰までとどく漆黒の髪も、彫刻のように整った白い顔も、美しいという形容詞さえ超越した、どこか人間離れした神秘的な美しさだ。女は、若くも見え、若くはないようにも見えた。しみひとつない肌は、つややかで若々しく、まるで十代の娘のようだったが、世の中のすべてを見通したかのような静かな威厳と、おちついた物腰は、千年のときを生きた人ならぬ存在のように見えた。
女はふいに顔を上げ、背後の山腹をふり返った。山の中腹には、木々に見え隠れしながら、年ふりた社がたたずみ、社から山の麓へと曲がりくねった長い石段がつづいている。その石段のとちゅうに立って、じっとこちらを見下ろす人影を、彼女は認めた。
それは、ジーンズに青いシャツブラウスの少女だった。年のころは十七、八ぐらいだろうか。なかなかの美少女で、どこかしら湖畔の女と面差しが似ている。
少女は、食い入るように湖畔の女を見つめると、石段を駆け降りた。湖畔にたたずむ女は、少女が近づいてくるのをじっと待っている。少女はためらった。何といって声をかければいいのか、わからなかった。
少女のためらいを察してか、女が先に口を開いた。
「阿戸明日香さんですね」
無言でうなずくと、明日香と呼ばれた少女は、意を決したように口を開いた。
「阿都宇賀比売(アトウカヒメ)さま?」
それは、山上にある神社の祭神の名だった。口に出した明日香自身も、まさかと思っている。だが、もしこの女がただの行きずりの旅行者だとしたら、明日香の名前を知っているはずがない。
「阿都宇賀比売さまですね? あそこの神社に祭られている……」
女がふいに軽やかな笑い声をたてたので、明日香は耳まで赤くなった。
「ごめんなさいね、笑ったりして。阿都宇賀比売というのはわたしのことだけれど、わたしは神ではありません。この湖のほとりに住んでいたころも、神と呼ばれたこともなければ、阿都宇賀比売という名で呼ばれたことさえありませんでした。わたしはただの漁師の妻で、たんにアトとかアトメと呼ばれていたのですよ」
「ではアトメさま、あなたは何者なのです? なぜ、千年以上も昔の人が、今、こうしてここにいることができるのです? なぜ、わたしの夢に現われたりするのです? わたしとあなたは、どういうかかわりがあるというのですか?」
明日香のやつぎばやの質問に、アトメと名乗った女は微笑んだ。
「せっかちな人だこと。では、順番に答えましょう。わたしは飛ぶ鳥の一族の者。わたしたちの祖先は、大昔、天空よりこの地上に舞い降りたという伝説があります。だから、わたしたちは、天空からいつか迎えがくるという伝説を信じて、長いときを交代で眠って過ごしています。それで、千数百年も前に漁師の妻だったわたしが、こうしてあなたとしゃべっていられるわけです。あなたの夢の中で呼びかけたのは、あなたがわたしの娘の子孫だからですよ」
明日香は愕然とアトメを見つめた。
子供のころから明日香は、奇妙な夢を見ることが多かった。虚空の中を旅する夢。どこか見たこともない故郷を懐かしんでいる夢。迎えを待つ人々の夢。ここ数ヵ月よく見るのは、人間の男の妻となった天女の夢だった。服装からすると、飛鳥時代かそれ以前。男は漁師らしい。
最初に見たのは、地上に降り、人間の男との間に三人の女の子を産んだ天女が、天上の世界を気も狂わんばかりに恋しがっている夢だった。その後も、故郷を思って涙ぐむ天女を男がなだめている夢や、男の留守に仲間の天女が迎えにきて、娘たちが母親を必死に引きとめている夢などを何度も見た。かと思えば、ごくふつうの仲のよい夫婦のように、男と天女が語りあっている夢を見たこともある。
夢はどれも断片的で、前後関係はよくわからない。ただいちど、天女が男を恋しがって泣いている夢を見たことがあり、どうやらふたりは悲しい別れをしたらしい。
あまり何度も同じ設定の夢を見るために、明日香は、全国の羽衣伝説について調べてみた。そうして知ったのが、この山頂の神社と阿都宇賀比売の伝説だった。神社の石碑に記された和歌が、夢の中で天女が天空の故郷を懐かしんで詠んだ歌と、まったく同じものだと知ったときには、どれほど驚いたことだろう。
夢の中の天女は阿都宇賀比売だ。そう確信して、明日香はこの神社を訪れたのである。しかし、まさか、夢の中の天女その人が現われて自分の先祖だと名乗ろうとは、思ってもいなかった。
半信半疑の明日香に、アトメは言葉をつづけた。
「驚くのも無理はないけれど、あなたも、自分がどこか人と違っていることには気づいていたでしょう?」
「人と違っているって……。そりゃあ、子供のころからよく変な夢ばかり見ていたけれど……。でも、まさかそんな……」
「わたしの娘たちは地上の人間の血を引いているし、その子孫たちは、代々地上の人間と婚姻を重ねて、完全に地上の人間になりきりました。けれども、そのなかからごくまれに、先祖返りをして、一族の血を色濃く引く子供が生まれることがあります。あなたはそんなひとりなのです。飛ぶ鳥の一族の者は、同じ一族の者たちに呼びかけずにはいられないのですから」
「わたしが呼びかけたって言うんですか? そんな覚えはありません」
「眠っているあいだの無意識の呼びかけですからね。わたしがこうしてあなたの呼びかけに応えたのは、飛ぶ鳥の一族というのが何者なのか、あなたに語らなければならないからです。あなたはいずれ、飛ぶ鳥の一族として生きるか、地上の人間として生きるか、どちらかを選ばなければならないのですから」
そう言って悲しそうに微笑むと、アトメは、陽にきらめく水面に視線をさまよわせながら、地上で暮らした千数百年昔のできごとを語りはじめた。