1 家長の決定
はてしなく広がる海原にも似た草原を、ずんぐりした四足獣が駆けて行く。その背の上で手綱を取るのはひとりの少女。騎乗用とはいえ、ドドンはもともと岩場に棲む動物を馴らしたもので、夏草の生い茂る草原には慣れておらず、いらいらするほど距離が進まない。
人に見とがめられることを恐れて街道をはずれたことを、リーガは悔んだ。
(早くしないと船が出てしまう)
二日前、《リャーンの祭》のために西之大島の寄宿学校から帰省したときには、まさかこんな事態になるとは思ってもいなかった。《祭》は憂欝だったが、何とか切り抜けられると思っていたのだ。昨夜の夕食の時までは……。
「リーガ、おまえ、今度こそは、わざとどのグループにも入らないなんてことをするんじゃないよ。おまえときたら、今までに五回も《祭》に出ているっていうのに、ちっとも片づかないんだから。今度の《祭》にはイムトだって出るんだからね。弟が決まって、年上の、それも女のおまえが残っていたりしたら、母親のわたしが笑いものになるんだよ」
絶えまのない母のイーガの言葉を聞き流して、リーガは黙々と食事を口に運んでいる。
リャーンの祭−−それは、《リャーンの女神》を奉る惑星トカニア最大の祝祭であると同時に、宗教的婚姻行事でもあった。二つの月がともに満月となる夜、《リャーンの丘》にある女神像の前に、トカニアじゅうの未婚の男女が集まる。そのうち、家長の息子である嫡子を核として、十二の部族からひとりずつ、六人の男と六人の女でひとつのグループを形成する。これが一組の新婚夫婦となるのである。
「返事くらいしたらどうなの? おまえのためを思って言ってやってるんだよ」
ヒステリックな母の言葉を父のリムトが遮った。家長のリムトは、このトンカ家の絶対権力者だった。家族のうち、リムトに口答えしたことがあるのは、リーガぐらいのものだろう。
家長の機嫌を損ねたと思ってびくりとしたイーガに、リムトが言う。
「案ずることはない。リーガも今度はまちがいなく嫁げることになったからな」
「どういう意味?」いやな予感がして、リーガが尋ねた。
「トワン家の家長と話はついている。おまえを第一母に迎えてくれるそうだ」
「そんなこと、勝手に決めたの?」
「ほう、ほかに目当ての男でもいるのか?」
「そんなことじゃない」
どう説明したものかと、リーガは迷った。何度も繰り返してきた議論だ。今さら自分の気持ちがリムトにわかってもらえるとは思えない。
「わたし、まだ一年、学校があるのよ」
「一年も待っていたら、ますます婚期が遅れてしまう。学校には退学届を出しておいた」
(まさか……)
茫然とリーガは父の顔を見つめた。たんなる脅かしではないらしいと悟ると、激しい怒りが込み上げてきて、リーガは言葉もなく身を震わせた。
甘かったと、リーガは思う。いくら横暴な父でも、学校を卒業するまでは、口ではうるさく言っても本気で結婚を強制することはあるまいと、たかをくくっていたのだ。いつかトカニアを脱出する心積もりでいながら、その前に、他の惑星で自活できるだけの知識を身につけるべく、脱出計画の実行を先へと伸ばしていたのはまちがいだった。卒業間際に逃げ出そうなどと考えずに、さっさと逃げ出していればよかったのだ。
リーガは、父や母と妥協して《リャーンの祭》に出たことが今までに五回あるが、いつも結婚せずにすんでいた。新婚夫婦は必ず六人の男と六人の女でなくてはならない、ひとりでも多くても少なくてもいけないし、各部族からひとりずつでなければならない、という厳密な《祭》の掟のおかげで、どのグループにも入らずにすむようにうまく立ち回ることができたのである。父も母も、そんなリーガを快くは思わないにしても、まだ学生だからと大目に見ていたのだった。
(まだだいじょうぶと思っていたのに……。甘かった)
今回の《祭》も、うまく切り抜けられるつもりをしていたのだが、どうやら、イムトの参加が決まって、父も母も気が変わったようだった。リムトの言葉に、イーガは、これで肩の荷が降りるとでも思ったのか、ほっと安心したような表情になり、もともとリーガと仲の良くないイムトは、姉の苦境をおもしろがっているのか、にやにや笑っている。
「ひどいわ。リーガがかわいそうよ」
第五母の娘ニニが叫んだ。リーガより八つも年下だが、大人数の家族のなかで、この少女がいちばんリーガと気が合った。母のニナが第五母という低い地位のうえに子がひとりしかなく、弱い立場で苦労しているのを見ているためか、ニニは、母以外のおとなたち、とりわけ家長のリムトに対して反感を持っていた。もっとも、こんなふうに面と向かってリムトに反発することはめったにない。
幼いニニにまで反抗されたことで、リムトの渋面はますます不機嫌そうになった。
「まったく、どいつもこいつも、この家の娘はどうしてこんなにかわいげがないんだ」
「これ、ニニ、リムトとうさまに謝りなさい。すみません、リムト、この子はまだ子供なんです」
かわいそうなほどおろおろと家長の機嫌を取ろうとする第五母を無視して、リムトはリーガに向き直った。
「リーガ、おまえは、第一母の娘というだけでなく、家長であるこのわしの娘なのだぞ。器量もそう悪いほうじゃない。もっと女らしく素直になりさえすれば、申し分のない第一母になれるんだがな」
たしかに、もしも第一母になりたいのであれば、リーガの立場は有利だった。結婚後の地位が母の地位によって決まるトカニア社会では、第一母になれるのは、たいてい第一母か第二母の娘である。リーガは、第一母の娘というだけではなく、嫡子を産むまで第一母は家長としか交われないという掟のために、家長の娘だということがはっきりしており、トンカ家の娘たちのなかで格段に地位が高い。第一母を迎える側にしても、リーガのような家長の娘を迎えれば、第一母の実家ととくに緊密な絆を結ぶことができて、メリットが大きいのである。
だが、リーガは、第一母になどなりたくはなかった。第一母になって、嫡子を産む道具として、新しく家長となった男と寝る。そう考えると、リーガは嫌悪感に身震いする。だいたい家長というのは、嫡子として生まれ、いくらでも無理を押し通せる立場で育った男がなるものなのだ。父や弟から類推しても、そんな育ち方をした人間がまともだとは思えない。そんな、自分だけ優遇されるのが当たり前と考えるような男に跡継ぎを与え、第一母の役割りをはたした後は、おそらくそれほど好きではない夫たちと体を重ね、できるだけ多くの子を産んで、それだけで一生を終える。そう想像するとリーガは暗澹とした気分になるのだが、なぜか多くの娘たちは、そんな人生を当然のものとして受け入れ、望みさえしている。
今も、ニニ以外のトンカ家の娘たちは、リムトの怒声にびくびく下を向きながら、羨望とも非難ともつかない視線を、リーガに向かってちらちらと走らせている。
この義姉妹たちは、リーガと同じく、部族社会と星間連合との交流が開けた後で生まれ、異星の文化の洗礼を受けて育った世代でありながら、けっしてリーガの考えを理解しようとはしなかった。ある娘は第一母の地位を渇望し、リーガを妬んでいるし、別の娘は、どうせ結婚しなければならないものなら、低い地位で肩身の狭い思いをするよりも第一母か第二母になりたいものだと、口癖のように言っている。結婚に甘い夢を持つ娘も、義務だと割り切っている娘も、リーガの考えを贅沢だと思っている点は共通していた。
(なぜ、みんな、《リャーンの祭》なんて平気で受け入れられるんだろう? なぜ、トカニアから逃げ出したいと思わないんだろう? 家長と嫡子以外は、この社会に不満を持っていそうなものなのに……)
「第一母なんて、ようするに嫡子を産むための道具じゃないの。女の子しか産まれないからってみんなに責め立てられて、追い詰められて死んじゃった人だって何人もいるんですからね。まだしも第二母の方がましなくらいじゃない」
リーガの言葉に、イーガが当惑げに口を開いた。
「おまえ、男の子が生まれないかもしれないってのが不安なのかい? そんなこと、結婚する前に心配したってしょうがないだろうに」
「心配してるんじゃない。なんでそういう発想しかできないのよ。わたしは怒ってるの。こういう社会に腹が立つのよ」
「腹が立つったって、これが世の中ってもんだからしょうがないだろう? まったくおまえって娘は、どうしてこうなんだろうねえ。恵まれた境遇で、親がこんなに心配してやっているっていうのに。ふつうの娘なら泣いてありがたがるもんだよ」
イーガの恩着せがましい言いかたに、リーガはよけい腹が立ってきた。
「結婚の約束を取り消して、トカニアの外に出してくれれば、いくらでも泣いてありがたがってあげるわよ。こんなひどい仕打ちをしておいて、よくもそんな恩着せがましいことが言えたもんだわ」
激した感情のために涙が頬を伝うのが自分でもわかった。それが悔しくて、リーガのうちでさらに激しい怒りが渦巻いた。
ふいに立ち上がって、食事を中断したまま部屋を出て行くリーガの耳に、イーガのヒステリックな叫びが届いた。
「お待ち、リーガ! おまえのためを思って、こうして言ってやってるんじゃないの」