今はもう忘れ去られた民について
かつて、神々が地上を頻繁に歩んでいた時代、オリエントのどこかに住まう民族がいた。何という名の民であったか、記録は残されていない。彼らは、自分たちをも他の民をも等しく「人」と呼んでいた。おそらく、彼らは、自分たちを他の民族と区別して考えるということがなく、ゆえに自らを指す民族名を持たなかったのだろう。
長いときが過ぎるあいだに、彼らはいつしか歴史のはざまに消え、忘れ去られていった。ごくまれに、かの民族のことを覚えている人々は、彼らを《今はもう忘れ去られた民》という呼び名で語っている。ゆえに、彼らを仮にこの名で呼ぶことにしよう。
《今はもう忘れ去られた民》のことを、歴史の本や教科書などで読まれた方は、おそらくいないだろう。
彼らは、歴史の上に何の足跡も残さなかった。いかなる民と戦をすることもなく、いかなる民の運命をも左右することはなく、歴史時代の幕が開くまえに、散り散りになって消え去っていったからである。
そのかわり、彼らは独特の神話を残した。《今はもう忘れ去られた民》自体が、その名の通り忘れ去られても、彼らの神話は、さまざまな民族の語り部たちの口を介して、後世に伝えられたのである。その中から、星の神々と風の神々に関するおもな話をここに紹介する。
第1話 創世神話
原初の昔、宇宙は巨大な卵だった。あるとき、卵がかえり、砕け散った殻の破片が宇宙にちらばった。そんな破片の一つから、太陽の神が生まれた。
ずいぶん長いあいだ、太陽の神はただひとり虚空の中に浮かんでいた。太陽の神は孤独だった。そこで、かつて宇宙卵の殻であった破片を集めて、仲間の神々を創った。水星の女神、金星の女神、大地の女神、火星の女神、知星の女神、木星の神、土星の神、天星の神、海星の神であった。 仲間の神々がそばにいるようになって、しばしのあいだ、太陽の神は満足した。だが、すぐに物足りなくなった。
「わたしには仲間がいるが、妻がおらぬ。もし、わが傍らに妻がおれば、わたしの孤独は完全に癒されるにちがいない」
そこで太陽の神は、もっともそば近くにいた水星の女神に求婚した。
「やさしくたおやかな水星の女神よ。どうかわたしの妻になっておくれ」
だが、星の神々のなかでもっとも小柄で気弱な水星の女神は、力強い太陽の神を畏れ、妻となるのをためらって、賢い知星の女神に相談した。
「知星の女神よ、困ったことになりました。太陽の神がわたしを妻にと望むのです。けれど、わたしはあの方が恐ろしい。どう言って断わればいいものでしょうか」
「水星の女神よ、こう言いなさい。われらも太陽の神も同じ卵の殻より生まれしもの。太陽の神はいわば兄。兄と妹は結婚できぬと」
知星の女神に教えられたとおりの言いわけをして、水星の女神は太陽の神の求婚を断わった。
がっかりした太陽の神は、今度は金星の女神に求婚した。
「麗しくあでやかな金星の女神よ。どうかわたしの妻になっておくれ」
女神たちのなかでもっとも美しく浮気な金星の女神は、ただひとりの神を夫と定めることに気が進まなかった。かといって、正直にそう断わるのも恐ろしく、知星の女神に相談して、水星の女神とまったく同じ言いわけをした。
「太陽の神よ。あなたとわたしは同じ卵の殻から生まれました。あなたはわたしのお兄さま。兄と妹は結婚できませぬ」
それからも太陽の神は、大地の女神、火星の女神、知星の女神と、次々に求婚した。だが、いずれの女神も、兄と妹であることを理由に求婚を拒絶した。大地の女神は自立心の強きがゆえ、火星の女神は猛々しき気性のゆえ、知星の女神は賢明なるがゆえに、ひとりの男神の妻となることを望まなかったのである。
太陽の神の落胆ぶりを見て、知星の女神は気の毒に思い、助言した。
「わが兄たる太陽の神よ。虚無から女神をお創りなさいませ。それならあなたの妹ではありませぬ。虚無から生まれた女神は熱と光に焦がれ、あなたを愛することでしょう」
そこで太陽の神は、虚無から女神を創った。大気の女神であった。
知星の女神の予言どおり、大気の女神は太陽の神に惹かれ、焦がれた。だが、虚無から生まれた女神にとって、太陽の神はあまりにまぶしく熱すぎた。太陽の神に近づこうとすると、まばゆさに目がくらみ、体が燃えつきそうだった。
太陽の神に惹かれながらも同時に畏れ、大気の女神は愛しい夫の神を避けた。それを見て、木星の神や海星の神は、大気の女神が太陽の神を嫌っていると思い、求愛した。
「太陽の神が恐ろしいなら、わたしの妻にならないか」
「わたしなら、太陽の神ほど熱くはなく、まぶしくもないぞ」
木星の神と海星の神のようにはっきり口には出さずとも、土星の神、天星の神も、一抹の期待のこもった目で、消え入りそうにはかなげな大気の女神の姿を追った。
男の神々、ことに豪放な木星の神の求愛は、日ごとに露骨になり、大気の女神は恐れおののいた。かといって、太陽の神のもとに逃げこむことはできなかった。それができるぐらいなら、最初から太陽の神を避けはしない。
困りはてた大気の女神をかばったのは、大地の女神であった。
「大気の女神よ。わたしのそばにいらっしゃいな。いかに木星の神といえども、わたしの友に手出しはできませぬ」
何者にも動かしがたい強さと自立心を持つ大地の女神と、しとやかな大気の女神。ふたりの女神は気が合い、どんな姉妹も友もかなわぬほど親しくなった。そうして大地と大気は、その後つねにそばを離れず、ともにあるようになったのだった。