プロローグ
デイル・エル・バハリ。いにしえの名をゾセル・ゾルス−−
古代エジプトの女王ハトシェプストの築いた神殿の前に、ナディア・リーは立っていた。強い意志を秘めた理知的な黒い瞳と引き締まった口許が、悠久の過去に造られた建築物を前にふっとなごみ、夢見るような表情になる。
多忙な毎日のあいまを縫って得たつかのまの休暇。矢も楯もたまらず、エジプトを訪れたくなった。 なぜ、あんな夢を見たのだろうと、ナディアはいぶかった。
女王ハトシェプストの夢。きっと連日の激務と重すぎる責任のために疲れているのだろう。それとも、体の中に流れる何分の一かのエジプト人の血のせいか。
「ハサン」
ナディアは背後にひっそりとたたずむ秘書に声を掛けた。
「はい、マダム」
ボディガードも兼ねた有能な秘書は、周囲の静寂を破るのを畏れているかのように、足音を立てずにナディアの傍らに歩みよった。
「あきれているでしょうね。突然こんな私用の旅行につきあわせて」
「いいえ」とだけ言って、秘書は口を閉ざした。会話を求められていないことはわかっていた。
「夢を見たのよ。ハトシェプスト女王の夢」
唐突な言い方にも、ハサンはけげんそうな表情をしなかった。笑い出しもせず、ただ無言でうなずいた。
ナディアはひとりごとのように言葉をつづける。
「夢に見た場所を訪ねてみたら、何もかもうまく行きそうな気がしたの」
そう。あの空想的でそのくせ妙にリアルな夢を見るまえ、ナディアはいいかげん神経がまいりかけていた。あまりにも重い責任と困難きわまる役目。他人に押しつけることができたら、どんなに気が楽だろう。だが、夢から目覚めた後、ふしぎなことに重圧感がふっと遠のいていた。
ハトシェプスト−古代エジプトの優れた政治家で、平和をこよなく愛した女性。数々の業績を残しながら、後継者に憎まれたのか、碑文からその名を抹消された女王。
夢の中の女王について知っていることといえばそのくらいだが、むしょうに
彼女の縁の地を訪れたくてたまらなくなった。
しばしの休暇を古代に思いをはせて過ごし、長年の疲れを癒したら、また仕事に取り組めるだろう。どんなに難しい仕事にでも。そんな気になった。
もちろん、夢の中のハトシェプストはナディアの空想の産物だろう。実在した女王も、彼女を取り巻く人々も、夢で見たのとは似ても似つかぬ人間像をしているにちがいない。
だが、夢の印象が強すぎたのだろうか。古代に思いをはせようとすると、頭に浮かぶのは夢の中の女王。まるで一夜のうちに一生を過ごしたかのように、ナデイアの脳裏に夢の記憶が生々しくよみがえった。
1
王宮のテラスで、ひとりの少女が月を眺めている。年のころは十三、四歳ぐらいであろうか。王宮じゅうが戦勝の宴でにぎわうなか、彼女ひとりは月のごとく美しい顔をくもらせ、悲しげに吐息をついている。エジプト新王国第十八王朝の王トトメス一世の嫡出の王女にして、ふたりの兄亡き今は第一王位継承権者たるハトシェプストであった。
「なにをそんなに沈んでいるのだ、ハトシェプストよ」
父王の声に、ハトシェプストはふり返った。
「戦のことを怒っているのか」
このように機嫌をとるようなファラオの声を聞いたら、彼を神の子と崇めるエジプトの民はさぞ驚くことだろう。
南方のヌビアに、北方のユーフラテス河流域にと遠征を重ね、民に畏れられるトトメス王も、娘には甘い父親だった。
「怒るなんて……。ただ、戦は恐ろしく、悲しいだけです」
娘の言葉に、父王は困ったように髭をしごいた。
遠い国々に遠征して戦に勝利をおさめれば、遠方の珍しい高価な品々が戦利品として手に入る。エジプトの富は、そのような戦の戦利品によって築かれたのだ。ことにトトメス王は、いままでのどのファラオよりも遠方まで遠征し、戦をすれば必ず勝利をおさめて、エジプトに多大な富をもちらしている。なのに、勇猛とうたわれるトトメス王の娘が戦ぎらいとは。
が、世間知らずの小娘の感傷と笑い飛ばせぬ面もまたあった。王女の戦ぎらいは、神の賜物に伴なうものであったゆえ。
ハトシェプストには、幼少のころより、夢によって未来や遠方のできごとをかいま見る力があった。いままで幾度となく、母なる河ハピ(後世のナイル)の氾濫、作物の豊作や不作を正しく予見し、太陽神の娘と呼ばれて、民に愛され敬われてきた。彼女の予知夢は神々の見せたまうもの−神々がエジプトの民に与える神託とも信じられている。
その予言者として、ハトシェプストは口癖のように告げるのである。
「戦はいつか人の手を離れ、恐ろしい神戦(かみいくさ)となり、人を滅ぼすことになりましょう」と。
神の言葉として従うべきなのかと、ときには王も考える。
だが、戦をせずにどうして富を得るのか。それに、本人が予言と信じているのも、予知か遠見で戦を見て、少女らしいやさしさゆえに戦の残酷さを受けつけぬだけではないのか。それに、もし仮にそれがまことの予知夢であったとしても、エジプトの繁栄が戦に支えられている以上、神が戦を禁じるとは思えぬ。神託の意味は、ほかにあるのではないのか。
「何度も言うことだが、ハトシェプスト、その神戦とやらは、我らの戦とは関係ないのではないか?神々は、戦をするなと言っておられるのではなく、別の警告をなさっておられるのではないか? たとえば、恐ろしい兵器を使う敵が攻めてくるというようなことかもしれぬぞ」
「いいえ。神々が望んでおられるのは、戦をせぬことです」
ハトシェプストは、やさしい顔立ちには不似合いなほど強い光を宿す瞳で父を見上げた。
「でも、おとうさま、いま考えていたのは、戦のことではありません」
「ほう?」
「夢を見ました」
娘がこういう言い方をするとき、それがただの夢ではないことを、父王はよく知っている。
「今度はなにを予見したんだね? よくないことか?」
「わたくしがトトメスの妻になる夢ですわ」
父王と同じ名を持つ異母弟トトメスは、三つ年下の病弱な少年である。
「なんだ、そんなことか」
ファラオは苦笑した。
「てっきり、飢饉か負け戦の夢でも見たのかと案じたぞ」
あの夢よりは飢饉か負け戦の方がまだましだと、ハトシェプストは思った。
異母弟との結婚だけならどうということはない。弟に異性としての魅力は何も感じないが、近親結婚は、血統を重んじるエジプト王家の伝統。まして、自分と弟の結婚は、父王や国民みんなが望むだけの理由がある。
トトメスは、父王にとっては唯一の王子だが、妾妃の腹ゆえ、嫡出の王女をさしおいて王位を継がせては、王妃アフメスをはじめ皆が納得せぬ。トトメスの母は王妃の異母妹で、べつだん身分の低い女性ではないのだが、エジプトの伝統では、次のファラオとなるべきは、あくまで第一王位継承権者たるハトシェプストの夫なのだ。
だが、王子がいるのに、遠縁の親族を世継の王女の夫として次のファラオに指名しても、やはり納得せぬ者は多かろう。それに、ファラオ自身、息子がいるのに、他の者に王位を譲りたくはない。
だれもが納得するかたちで次代のファラオを決める唯一の方法は、ハトシェプストとトトメスが結婚することであり、これには前例もある。
トトメス王自身が、本来は王位継承権者ではなかった。先代の王アメンホテプにも嫡出の王子はなく、世継ぎの問題に悩んだ先王は、庶子のトトメスを嫡出の王女アフメスと結婚させ、次のファラオに指名したのである。まったく同じ状況で、現王が先王と同じ方法で王位継承問題を解決するものと、だれもが考えているのは当然ともいえた。
それはハトシェプストとてよくわかっており、受け入れるつもりでもいた。王女の義務としても、自らの誇りと地位を維持する手段としても。
だが、夢の中で、ハトシェプストとトトメスは、たんに夫婦になっていただけではなかった。どう見ても、今と比べてせいぜいひとつかふたつしか年を取ってはおらぬのに、異母弟はファラオとなり、その横には、王妃となったハトシェプストが並んで座っていたのである。
それは、とりもなおさず、父王が近いうちに死ぬことを意味している。
むろん、予言者といえども、予知夢ではないふつうの夢を見ることもあるのだが、ふつうの夢と予知夢や遠見の夢との区別は直感的にはっきりわかる。あれはまぎれもなく、近い未来の情景だ。
不吉な予知夢に身震いし、黙りこくった娘を見て、ファラオは、トトメスとの結婚を渋っているのだと思い、困惑して眉をしかめた。
「おまえはとうに承知しているものと思っていたぞ」
王女の義務について説くべきだと、ファラオは思った。じっさい、相手がほかの娘−−たとえば、ハトシェプストの同腹の妹シタメンなら、そうしていたろう。
が、ハトシェプストを前にすると、口をついて出るのは自分でも驚くほど気弱な言葉だった。
「おまえの兄ワジメスかアメンメスが生きておれば……。でなければ、おまえが王子であればよかったのに」
父王の言葉に逆らうことなど思いもよらぬ他の娘たちと違って、ハトシェプストには、けっして自分の意志を曲げぬ頑固なところがあり、そのうえ、何者でも−父王でさえ彼女の意志をないがしろにすべきでないと思わせるような、ゆるぎない威厳があった。
これこそ王者の資質−と、ファラオは思う。この娘が王子であれば、次のファラオとなるのに異議をはさむ者はなかろう。戦を過敏に嫌うことだけは困りものだが、それを補ってあまりある長所を備えている。トトメスよりはるかに優れたファラオになれよう。
トトメス王はひとり息子をこよなく愛していたが、この優れた娘に比べれば、息子が王者として劣ることに気づかぬほど愚かではなかった。
かといって、女のハトシェプストをファラオにするわけにはいかぬ。べつに、女はファラオになれぬと定められているわけではないが、太陽神の息子にしてホルス神の化身とされるファラオが女というのは、いかにも不自然であり、いまだかつて、女がファラオになったという前例はない。
父王のもの思いを打ち破るように、ハトシェプストがぽつりと言った。
「トトメスはまだ子供です」
「おまえと三つしか違わぬ」
「わたくしもまだ子供です。まだ早すぎる。もう少し先なら……。せめてあと数年……」
父王に向けてではなく、この会話に耳を傾けているにちがいない神々に向けてのつぶやきだった。
だが、ハトシェプストにはわかってもいた。悪い予知には回避できるものもあるが、人の天命ばかりはどうにもならぬ。神の化身とされるファラオでさえ、死を免れることはできぬ、と。
ハトシェプストはおもてを上げ、父王をふり向いた。
「今のは愚痴です。忘れてください。いつまでも子供のままでいたかった愚かな娘の感傷と思って。わたくし、トトメスを夫として迎えます」
娘の態度が急変したのに、ファラオは驚き、念を押した。
「いいのか、ほんとうに?」
「はい」
人の力で変えるすべのない未来なら、立ち向かわねばならぬと、ハトシェプストは思った。父王の死が避けられぬことなら、自分がこの国を引き受けねばならぬ、と。
異母弟との結婚を受け入れるのは、父を安心させるため、内乱を防ぐためだけではない。
もしも仮に、亡くなった同腹の兄のどちらかが生きていて、王位継承の問題などなく、兄の妃になるも自由、別の男に嫁ぐも自由という立場であったとしても、ハトシェプストは、兄の妃となる道を選んだろう。
ハトシェプストは、政治権力の場から遠ざかり、ただの平凡な女としての幸福を求めるような娘ではなかった。予知夢を見る力によって、これまで幾度となく父王にさまざまな助言をしてきた王女にとっては、政治の場から離れた自分の姿など思いもよらぬこと。彼女にとっては、統治し、国の運命を左右するのが、自分のもっとも自然な姿なのである。
それに、ときおり見る神戦の夢のことがある。ハトシェプストは神戦と呼んでいるが、それを起こすのは人間。遠い未来には、人の戦が、人の手を離れた恐ろしいものになるらしい。
あの予知夢は、戦をするなという神々の警告なのだと、ハトシェプストは信じている。
ならば、予知夢を見た自分こそが、その警告に応えねばならぬ。人間の長い歴史のなかで、たったひとりの王妃にやれることなど微々たるものだろうが、それでも、何もせぬよりはましだ。
戦をせずに国を富ませる方法を考え、実行に移すことができたなら、少なくとも何十年かは、エジプトとその周辺諸国に平和が訪れよう。後世のファラオたちがその平和政策を継いでくれたなら、もっと長く平和がつづくだろう。
人々が平和のうちに栄えることを学んだなら、戦などせぬのではないか。平和に繁栄できるのにわざわざ戦をするほど、人は愚かではあるまい。それなら、あの夢の神戦とて、防げるのではないか。
このときにはまだはっきりと意識してはいなかったが、ハトシェプストが真に欲していたのは、王妃の座などではなく、統治者としての権力であった。