1 竜のいけにえ
潅木しか生えぬ岩砂漠の台地の谷間に、外界から忘れ去られた村があった。周囲の台地は不毛の地であったが、谷には川が流れ、木々や草が茂り、花が咲き乱れていた。村もまた川の恵みによって豊かであった。
村がもし隊商路の道筋にあったなら、宿場町として、あるいは商業都市として栄えたに違いない。
だが、村の三方は岸壁に囲まれ、降りるのも登るのも至難の技。しかも、谷間の緑は周囲の台地からは視界の外だ。
村の南側だけは開けているとはいえ、行き止まりになっている取柄のない村をわざわざ訪れる者は、めったにいなかった。
そのような村を、あるとき、珍しくも商人の一行が訪れた。訪れたくて訪れたわけではない。旅のとちゅう、盗賊団の襲撃を受け、なんとか難を逃れたものの、そのまま道に迷ってしまったのである。
一行は美しい若者がひとりと美しい娘が五人だった。若者の髪は烏の羽根のごときつややかな黒。娘たちのふたりは若者と同じく黒髪で、ひとりは西方の民と思われる金の髪、ひとりは褐色の髪で、いまひとりは炎のごとき赤い髪の娘だった。
若者は、名をリゲムといい、奴隷商人の息子で、父のかわりに奴隷を売りに行くとちゅう。娘たちはいずれも奴隷の身であった。
一行は他の商人たちと隊商を組んでいたのだが、盗賊たちに追われて隊商は散り散りとなり、他の者たちの行方はわからない。おそらく、盗賊たちに殺されたか、捕われたかしたものと思われた。
リゲムたちも逃げるだけでせいいっぱいで、身につけていた水筒以外は、水も食糧も持ち出す余裕はなかった。その水も最後の一滴まで飲みつくし、飢えと渇きと疲労で歩く気力も尽きかけていたとき、奇跡的にその村を見つけたのである。
だが、村はどこかようすが変だった。
辺鄙な場所にある村では、ふつう、旅人が訪れるようなことでもあれば、すぐに気づいて、もの珍しさから歓待するか、でなければ警戒する。なのに、この村の村人たちは、路上のそこかしこに集まって立ち話をしているばかりで、リゲムたちが村に足を踏み入れても、ふり向こうともしない。なにやら深刻な事態が起こっているようだった。
まずいときに来たのかもしれない− と、リゲムは思ったが、遠慮している場合ではない。緑のある谷間だから、飲み水ぐらいは探せば見つかるかもしれないが、食料と、それから馬か駱駝を手に入れたい。
そこで、もっとも手近な村人の一団のほうに足を向けると、間近まで近づいてから、ようやく村人たちはよそ者に気づいたようすでふり返った。
絶望と悲しみに満ち、リゲムたちに無関心と見えた彼らの目に、救いの主を見いだしたかのような驚きと喜びの色が広がっていく。
当惑しながらも、リゲムは、とりあえず多くの国で半ば公用語として使われている言葉で交渉しようと、口を開きかけた。
だが、リゲムがろくに言葉を発しないうちに、村人たちは一行を取り囲み、切迫したようすで口々にまくしたてる。リゲムのよく知らない言葉だが、かろうじて「竜」「いけにえ」「困っています」「お礼はします」といったいくつかの言葉は、とぎれとぎれに聞き取れた。
「何と言っている?」
リゲムは、赤毛の奴隷娘のほうをふり向いてたずねた。
シャジルという名の娘で、奴隷娘たちのなかで彼女ひとりだけは売り物ではない。どのような育ち方をしたのか、驚くほど多くの国の言葉に通じているので、通訳として連れてきた娘である。
だが、シャジルという名のその娘は、若主人の問いには答えず、かわりにこう言った。
「関わりあいにはならないほうがよろしいですわ。引き返しましょう」
リゲムは厳しい顔つきになった。
奴隷は主人の命令には絶対に従わねばならず、奴隷商人は、売り物の奴隷をそのように躾けなければならない。
そうしなければ価値が下がる。
シャジルは売り物ではないが、だからといって特別扱いは許されない。
「おまえの意見は聞いていない。彼らが何と言っているのかと聞いているのだ」
シャジルはため息をつき、しかたなさそうに答えた。
「村の向こうにある湖に竜が棲んでいて、村長の娘がいけにえに決まったそうです」
「それから?」
「身代わりを提供して欲しいと言っています」
他の娘たちは悲鳴を上げ、リゲムもまた、血なまぐさい申し出にひるんだ。が、食糧と水と乗り物はどうしても必要だ。
「断ると、食糧と馬を売ってはくれないだろうな」
半ば独り言のようなつぶやきに、シャジルは怒りの目を若主人に向けた。
「そのような申し出を受けるおつもりですか? あなたは奴隷の命を何だと思っているの? わたしたちだって、あなたと同じ人間なのよ」
「口の聞き方に気をつけろ」と、リゲムは鋭い声で言った。これ以上、シャジルが口答えするようなら、他の奴隷娘たちの手前、彼女を鞭打たなければならないが、リゲムは、奴隷を鞭打つのはあまり好きではなかった。
「応じると答えろ。そして、交換条件として、食糧と水と馬か駱駝を要求しろ」
娘たちは悲鳴を上げ、シャジルはつかのま主人をにらみつけたのち、村人たちに向き直った。村長と思われる男とシャジルとの会話で、リゲムに理解できたのは、シャジルが口にした「食糧」「水」というふたつの単語と、
村長らしき男が口にした「黒髪」「麗しい」という言葉だけだった。
しばらく話し込んだのち、シャジルは若主人のほうをふり向いた。
「取り引きに応じるそうです。いけにえは、黒髪の見目麗しい者がよいそうです」
「うそよ! うそです!」
黒髪の娘ふたりが絶望の声を上げ、シャジルは、リゲムの黒い瞳をまっすぐ見つめて、挑戦的な口調で言った。
「断るなら、今のうちです。応じれば、きっと後悔なさいますよ」
パンと音を立てて、リゲムの平手がシャジルの頬を打った。
「竜が赤毛の娘を所望でなくて残念だ」
リゲムの言葉に、黒髪の娘たちが飛びついた。
「ほんとうは、赤毛の娘が望まれているのかもしれませんわ」
「そうですわ。この女は、ほかにだれも彼らの言葉がわかる者がいないのをいいことに、自分が助かるため、こんなでたらめを言っているのにちがいありません」
「あいにくだが」と、リゲムは、黒髪の娘たちのほうをふり向き、冷たく言った。
「彼らの言葉は、ぼくにもまったくわからないというわけじゃない。かんたんな単語ぐらいなら、とぎれとぎれにだが聞き取れる。彼らはたしかに、『黒髪』と言っていた」
ふたりは嘆きの声を上げ、涙を流しながら、リゲムに命乞いをした。
リゲムは、彼女たちを救うために毅然と主人に楯突いたシャジルに比べ、そのシャジルを自分たちの身代わりにしようとするふたりの言動を、浅ましく感じていたのだが、さすがにこうして涙ながらに命乞いするさまを見ると、かわいそうになった。
だが、だからといって、村人たちとの取り引きに応じなければ、自分たちが困る。羊飼いは、どんなに大切に育てた羊だって、食べるときには殺す。奴隷商人にとっての奴隷だって同じことだという意識が、リゲムにはあった。
奴隷商人にとっての奴隷は、大切な商品ではあるが、商品以上の存在ではない。
そもそもリゲムの郷里の社会では、自由民と奴隷とを問わず、女そのものが家長の所有する財産とみなされる。 財産だから大切にはされるし、その財産に夢中になる男だってべつだん珍しくもない。ことに、女を手中にできない貧しい男たちにとっては、女たちはこのうえなく貴重な宝玉のようなものだ。
だが、それでも財産はあくまで財産であって、それ以上の存在ではない。まして奴隷となればなおさらだし、リゲムとその父親は多くの奴隷たちを所有しており、差し出すのはそのひとりにすぎない。
リゲムは、けっして残忍な性質の若者ではなかったのだが、ものごころついたときから、奴隷商人の後継ぎ息子としての環境で育ってきたので、奴隷娘たちを自分と同等の人間と考える発想を持ち合わせてはいなかった。
とはいっても、さすがに娘たちにいくばくかの哀れみは覚えたので、リゲムはシャジルに訊ねた。
「そのいけにえというのは、どういうふうに行なわれるのだ。……つまり、ひどく苦しむのか?」
「薬で酔わせるそうですから、苦しむことはないでしょう。けれども、苦しむか苦しまないかと、死ぬのが怖いか怖くないかは、まったく別の問題です」
「よけいなことはいわなくてもいい」
リゲムはぴしゃりと言うと、黒髪の娘たちをふり返った。
「心配するな。苦痛はないそうだ。主人のために命を投げ出した奴隷は、次に生まれ変わるときには自由民に生まれ変わると、よく言われるではないか。おまえたちにとっては、自由民に生まれ変われるチャンスだぞ。どちらがぼくのために命を投げ出す?」
娘たちのひとりが、がたがた震えながら口を開いた。
「わたしよりも、この人のほうが美人ですわ」と、娘は心にもないことを言った。
「わたしの命が若さまのお役に立つというのは光栄ですけれども、いけにえには美しい人のほうがよいのでしょう? だったら、残念ですけど、わたしは遠慮させていただいたほうがいいかと思うのですけれど」
「いいえ! この人のほうが……」
もうひとりの娘が、反論しかけて口をつぐみ、つかのま思案してから、口を開いた。
「ええ、自分で言うのもなんですけど、わたしのほうがこの人より美しいですわ。けれども、この村の人たちは、どちらを差し出せというふうに、指名しているわけではないのでしょう? 若さまが選べばいいことなのでしょう? それなら、高く売れそうなほうを残しておいたほうが、お得だと思いませんか?」
「なるほど。それはもっともだ」
リゲムが納得してうなずいたので、もうひとりがあわてて言った。
「若さま。女の美徳は謙虚さとしとやかさにありますわ。こんな自分の美貌を鼻にかけたような女が、殿方に好かれるとお思いですか。わたしのほうが高く売れますわ」
「だれが謙虚でしとやかですって? ほんとうに謙虚でしとやかな女は、そんなことを言わないわ。あなたは、自分で言ったように、あんまり美人じゃなくて、地味で目立たないだけよ」
娘たちの言い争いを、リゲムは、浅ましく思いながら、冷ややかに眺めていた。ふたりともずっと従順そうに見えていたのに、これが本性なのかと思うと興醒めだ。そう思うのが、他人の命を手中に握り、自分の命の心配をせずにすんでいる者の傲慢さだということに、彼は気づいていなかった。
リゲムは、商人の目で娘たちを値踏みし、自分で自分のことを美人だと言い切った娘のほうを残すことにした。
たしかに、比べてみれば、その娘のほうが美人で、華やかな雰囲気をたたえていたからだ。
きつい性格だが、それはたいした欠点ではない。シャジルの気の強さと違って、この娘は、要領がよく、男に気に入られるすべを心得ている。こういう女を好む男はいくらでもいる。金持ちのハーレムに、高い値段で売れるだろう。
そこでリゲムは、少なくとも見かけはおとなしそうに見える娘のほうに目を向けた。
「自由民に生まれ変われるチャンスは、おまえに与えることにしよう」
指名された娘は、みるみる青ざめ、恐怖のあまり失神した。
涙ながらの命乞いを受けずにすんで、リゲムはほっとした。それに、気を失っていれば、恐怖におののかなくてもすむから、この娘にとってもいいことだ。
それまで言い争っていた声が途切れたことと、娘が気絶したことで、村人たちは、口論に片がついたものと思ったらしく、シャジルに何か耳打ちした。
「彼女を寝かせる場所を提供してくれるそうです。それから、食事をごちそうしてくれると言っています」
シャジルが通訳し、リゲムはむろん、村人たちの申し出に応じた。