1〜3巻をこれから読むという方が検索サイトでこのページにいらした場合を想定して、
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翌朝、事情を聞くと、ラーブは、レイヴが自分の護衛からはずれることに同意した。
「もちろん、人質を助けだすことが先決だ。オレインたちは、レイヴがいなければ、こちらを信用してくれないかもしれない」
「こちらのことは心配しないで。ラーブのことは、わたしも気をつけているから」
サーニアがレイヴに言うのを聞いて、ヴォルンドがむっとした顔で口をはさんだ。
「われわれだけでは不足だとでもいうのか?」
「いいえ。もしもラーブに迫る危険が剣なら、わたしよりもあなたがたのほうがずっと力になるでしょう。わたしが言っているのは、万が一、魔力を使う者がシグトゥーナに潜入していた場合のことです。エイリーク卿やレイヴが心配しているのも、それなのでしょう?」
「ひとつはそれだな」と、エイリークが言った。
「もうひとつは、ここを通らないルートでシグトゥーナを押さえられてしまうことだ」
シグトゥーナに通じる街道は、四つの方角に伸びている。ブーリスやヘーミングの領地からも、ホフ村やヴェンド村からも、ふつうに最短距離をやってくればこの地点を通ることになるが、大きく回り道をすれば、他の方角からくることもできる。たとえば、ディム川沿いのどこかに出て、シグトゥーナのすぐ南にある川沿いの港町ボルグまで水運を利用すれば、南からシグトゥーナに入ることも可能だ。
そういったルートをとれば、とちゅうで彼らの手に落ちていない騎士の領地を通り抜けるときに戦いになるだろうが、じゅうぶんに大軍なら、あえてそのルートをとる可能性もある。だから、なおさら、エイリークはシグトゥーナに入る必要があるのだ。
「念のために、キト、あなたの指輪をレイヴに渡してくれる?」
サーニアに言われて、キトは不満そうな顔をした。サーニアはため息をついた。
「それがいやなら、あなたがレイヴといっしょに残ってくれる?」
キトはしぶしぶ自分の指から指輪をはずし、レイヴに渡した。レイヴは注意深くそれを観察する。
「これは? オレインがくれた石と似ているが。ラーブの聖玉とかにも」
「同じ種類の石よ。もとは魔力を増幅する石だったものだけど、かなり特殊化しているわ。遠話の力だけを増幅するものなの。オレインがあなたに渡した石も、同じように、遠話用に特殊化させたものだと思うわ」
「というと、こいつも対になっていて、一方が遠話の力を持っていなくても、遠話ができるようになるのか? オレインの石はそういう働きがあるらしいが」
「ええ。対の一方はわたしが持っているわ。遠話は、どこにいるかわかっている人になら、相手が遠話の力を持っていなくても呼びかけることができるけど、どこにいるかわからない人と話すのは、遠話のできる者どうしでないとかなりむずかしいの。でも、対になった遠話用の石をもつ者どうしなら、一方が遠話の能力をもってなくて、どこにいるかわからなくても話ができる。あなたのほうからの呼びかけを聞くこともできるしね」
「そのときには、オレインの石と同じように使えばいいのか? 石に触れて伝えたいことを念じろと言われたが」
じつのところ、レイヴは、自分のほうからオレインに呼びかけたことはない。オレインに呼びかけるために石が用いられたのはいちどだけ。昨年、石をあずかったラーブが、よくわからないまま助けを求めたときだけだ。
レイヴの問いに、サーニアはうなずいた。
「それと、その石の働きはもうひとつあってね。ふつうの遠話は、能力をもつ者どうしでも、どこにいるかわからない見ず知らずの人と話すことはまずできない。人混みのなかでいちども会ったことのない人を捜すようなものだもの。でも、対の石をもつ者どうしなら話せるの。一方が遠話の能力を持っていない場合でさえ、強い気持ちがあれば意志は通じるわ」
「ああ、そうか」
レイヴは、ラーブが石を使ってオレインに呼びかけたと聞いたときのことを思い出した。ラーブは遠話の能力をもたず、オレインにいちども会ったことがなかったが、彼女に呼びかけることができたのだった。
「じゃあ、あんたとオレインとの連絡にも使えるんだな」
「ええ。神官と対抗するためには、オレインとわたしが連絡をとる必要が、このさき出てくるかもしれないから」
レイヴはうなずくと、指輪をはめた。
同じころ、グズルーン王妃は、兄が呼び寄せたという薬師と自室で対面していた。
「いかがですか? 昨夜はよくおやすみになられましたか?」
「ええ」
グズルーンは弱々しくほほえんだ。
昨日、ヴォルンドとともにやってきた騎士たちが城を去り、そのあといつのまにかヴォルンドも姿を消したあと、自分の伝言がラーブに伝わっただろうかと考えていると、夜になって、兄のブーリスがこの薬師を連れてきたのだった。
領地に謹慎していたあいだに体調を崩して、この薬師の世話になったのだと、ブーリスは説明した。シグトゥーナ近郊に住む薬師なので、王妃の気分がすぐれないと聞いて呼び寄せ、いま到着したのだとも。
グズルーンは兄をもはや信用していなかったので、はじめこの薬師のことも信用しなかった。だが、その不信感は、薬師が下げていた頭を上げたときに少し薄れ、彼が口を開いたときにさらに薄れ、話をしているうちにどんどん薄れていって、ついには消え去ってしまった。
薬師の年齢はよくわからない。容姿からするとグズルーンと同じぐらいの年齢に見えるが、ひどく落ち着いた威厳のようなものがあって、だいぶん年上のようにも見える。
彼はたいそう美しかった。あまり性別を感じさせない柔和な顔立ちで、彫像のように整っているが、慈愛に満ちた穏やかなほほえみのためか、冷たい感じはしない。長く伸ばした髪が生成りの麻糸を思わせる淡い色をしているところを見ると、北のニザロース王国の出身か、でなければ別の陸地からきたのだろうか?
ホルム王国には赤褐色や栗色の髪の者が多く、銀髪に近い金髪や銀髪は黒髪と同じぐらい珍しいが、十二王国でもいちばん北に位置するニザロース王国あたりでは、淡い色の髪はそれほど珍しくないと聞く。ハウカダル島の人間ははるか昔に海の彼方からやってきたいくつかの民族が混血してうまれたのだが、ニザロース国にはそのうち淡い髪の人々の血が濃く残っているらしい。
グズルーンの想像はほんの少しだけあたっていた。彼はたしかにホルム王国の者ではなかった。だが、ニザロース王国の者でも、ニザロースの淡い髪の人々と先祖を同じくする別の陸地の人間でもなかった。そもそも麻糸のようにかすかながらも黄色がかっているのはつくられた髪色で、彼の真の髪色は雪のような純白だった。が、それはグズルーンには知りようもないことである。
ともあれ、薬師の美貌はグズルーンの心を揺らし、警戒心をやわらげた。これほど美しく、これほどやさしい顔だちの人物が悪心を抱いているとはとても考えられなかったのだ。
そして、薬師の美貌以上にグズルーンの警戒心を解いたのは、彼の声だった。やわらかく音楽的な薬師の声を聞いているうちに、グズルーンは、母親の子守歌に安心感を覚える幼な子のように、張り詰めていた心がときほぐれ、この人ならわかってくれる、この人なら味方になってくれるという気持ちになって、勧められるままに薬湯を飲み、ずいぶん久しぶりにぐっすり眠ったのだった。
「これほどよく眠ったのは、陛下が亡くなったときからはじめてですわ」
「お気の毒に」
薬師の頬を涙が伝いおりた。
「あなたは悲しんでおられた。ずっと、ずっと、悲しんでおられたのですね」
その声の音楽的な響きは、これは同情ではなくて共感なのだと語りかける。王が亡くなって以来の自分の悲しみと苦しみを、きのう会ったばかりのこの人は追体験しているのだと、グズルーンは感じた。
「ええ。ええ!」
グズルーンの瞳からも涙がひとしずく流れ落ちた。悲しみの涙ではなく、安堵と癒しの涙だった。もはや、グズルーンは、この薬師を連れてきたのが油断ならぬ兄であることを問題としていなかった。
そのかたわらで、姪でもある侍女がうれしそうに泣いている。彼女の姿が目に入ると、グズルーンの顔は少しけわしくなった。
もとは人質として王宮に送られてきたこの少女がほんとうに姪なのかどうか、グズルーンは疑っている。もっとも、姪であろうとなかろうと同じことだ。どちらにしろ、この少女が兄の手下であることに変わりはないのだから。
グズルーンの気分がすぐれないとブーリスに進言したのはこの少女だ。彼女本人とブーリスがそう言ったのだからまちがいあるまい。
少女は、いま、叔母でもある王妃の悲しみが癒されたのを喜び、うれし涙を流していると見える。そのようすは王妃の身を心から心配しているように見えるが、グズルーンには、彼女が自分のことを探って兄に報告していたのではないかという疑いを捨てきれない。少女が以前からこの薬師と知り合いらしいことや、彼女が薬師に向ける熱に浮かされたような崇拝の視線も、グズルーンには不快だった。
薬師をこの場にもたらした年端もいかない少女のことは疑っているのに、兄によこされたこの薬師のことは信頼しきっている。その矛盾にグズルーンはまったく気づかなかったわけではないが、だからといって薬師に対する信頼が揺らぐことはなかった。
この人はとくべつな人格者なのだと、グズルーンは思った。だからこそ、兄が連れてきた人物にもかかわらず、これほど自分のことをわかってくれ、自分も信頼することができるのだ。そう考えることにより、グズルーンは自分を納得させたのだ。
疑ってかかるべき状況があるのに、そういう気持ちがわいてこないことにより、グズルーンは、かえって彼との出会いを運命的なものに感じたのである。