羽衣物語

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 これは、むかしむかし、はるか天空の彼方より飛来した旅人たちを、人々が神とか天人とか天女とか呼んでいた時代の物語です。
 天人たちは、人々を恐がらせまいと思ってか、地上には住まずに空の上に宮殿をつくり、その宮殿を地上から見えないように雲で隠しておりました。そして、ときどき地上に降りてきては、野原を駆けたり水浴びをすることをたいそう楽しみにしておりました。
 そんなある日のこと、浜辺に降り立った天女たちは、羽衣を脱いで水浴びをはじめました。いつも地上の人々に見られないように気をつけていたのですが、その日は、松の木陰から自分たちを見つめる瞳に気づきませんでした。
 天女たちを見つめていたのは、たまたま通りかかった若い漁師。彼女たちが天女だと気づいた漁師は、見てはいけないものを見ているのではないかと思いながらも、天女たちの美しさに立ちすくんでおりました。
 そんな漁師の目に止まったのは、松の枝にかかった色とりどりの羽衣です。あの美しい天女たちをひきとめることがかなわないなら、せめて思い出にこの羽衣を……と、漁師はいちばん手前の桜色の羽衣に手を伸ばします。
 羽衣を手にしたままなおも隠れて見ておりますと、天女たちは水浴びを終え、羽衣をまとってつぎつぎと天に帰っていきます。
 けれども、ひとりだけ、自分の羽衣がありません。ひとりぽつんと取り残された天女は、羽衣が風にでも飛ばされたのかと、あわててあたりを捜しはじめます。
 漁師はそっとその場を離れ、家まで駆けていって、納屋の奥に羽衣を隠しました。それから、ふと思いつき、自分の着物のなかからいちばん上等で清潔そうなものを選び出すと、それを手にして浜辺に駆けていきました。
 浜辺の松林では、捜し疲れたのか、天女がとほうに暮れたように立ちつくしています。
 少しためらってから、漁師は声をかけました。
「羽衣はおらがあずかってる」
 天女はびっくりしたようにふり返りました。海水に濡れた薄物の衣をまとっただけの姿はほとんど裸身に等しく、それに濡れた長い黒髪がまとわりついて、その美しさに漁師はどぎまぎし、思わず言葉を失いました。
「返してください」
 天女の声は小さく弱々しいなかにもりんとした響きがありました。
「か、返すだ」
 圧倒されるように思わずそう言ってから、漁師ははっと当初の計画を思い出し、勇気を奮って口を開きました。
「か、返すけど、その前におらの女房になってほしい。一年でええだから」
「返してください」
「半年でええだ。そしたら返すから」
「返してください」
「三日でええだ。女房になってくれなんていわねえ。お客として泊まっていってほしい。なんにもしねえだから」
「返してください。あれは、この星の……地上の人間が持っていてはならないものなのです」
「いやだ。返さねえ。三日だけ。三日だけ家に来てくれろ。そしたらきっと返すから」
 しかたがないというように天女は吐息をつきました。
「じゃあ、三日だけ。ほんとうに三日だけですよ。そうしたら返してくれますね」
 漁師はうなずくと、家から持ってきた自分の着物を天女に差し出しました。
 
 約束の三日目、漁師は朝からしょげかえっておりました。
「きょうが約束の日よ。羽衣を返して」
「夜になったら、……夜になったら返すから」
 夜になると、漁師は必死のおももちで頼みます。
「あと三日。あと三日いてくれろ。そしたらきっと返すから」
「うそつき。あたしはほんとうに帰らなくてはいけないのに」
 そう言って泣き出した天女を、漁師はけんめいになだめます。
「お願いだ。あと三日だけ。お願いだから」
 やむなく承知した天女でしたが、漁師が海に出ているあいだ、羽衣を求めて家の中をくまなく捜しまわりました。三日後に漁師がほんとうに羽衣を返してくれるとは思えなかったからです。
 漁師はうまく隠したつもりでいたようですが、小さな家のことですから、くまなく捜せば見つけるのはそうむずかしくありませんでした。約束の日を明日に控えた昼下がり、天女は納屋の奥から羽衣を見つけることができました。
 天女は羽衣を手にしばらく迷いました。羽衣は取り戻したのです。もうこれ以上ここにいなければならない理由はありません。このまま羽衣をまとって天に帰ればよいのです。それはわかっていましたが、何も言わずに帰ってしまうことに、天女はためらいを覚えました。
(どっちにしたって、あしたの晩には帰ることになっているんだもの。二日前の晩にそう約束したのだもの。あたしがこれを見つけた以上、もう約束を先送りにすることはできないはず。だから、あしたの晩に帰ればいいのよ)
 天女はそう思って、羽衣を元の場所にそっと戻しました。
 その夜、天女が眠れぬままに、自分の帰りを待っているはずの仲間たちのことや、なつかしい天空の宮殿のことを思い出し、(帰れるんだ、これで帰れるんだわ)と呪文のように心のなかで繰り返していますと、漁師の悲しげな声が聞こえました。
「行かないでくれろ。……行かないでくれろ」
 うわごとを言う漁師の頬を伝った涙を見ると、天女の心は痛みました。
(約束よ。三日で帰るのは約束よ。この男は先の約束を破っているのよ。同情することなどないわ。これで帰れるんじゃない。そうよ、これで帰れるのよ)
 帰れる、帰れると呪文のように唱えるほど、天女の心は暗く悲しくなりました。
 そして、天女は気づいたのです。自分もこの漁師のもとを去りたくないのだということに。天に帰りたくないのだということに……。

 それから長い歳月が過ぎました。漁師の元にとどまって妻となった天女に、三人の子供たちが生まれました。子供たちは天女に似て、たいそう美しい顔立ちをしておりました。
 天女は幸せでした。天空の宮殿や天の仲間たちのことを思い出さないわけではありませんでしたが、漁師は最初に会ったときから変わりなく天女を大切にし、あふれるほどの愛情を寄せてくれますし、子供たちは慕ってくれます。このまま地上で一生過ごすのもよいと、天女は思っておりました。
 けれども、子供たちの成長とともに、天女は不安を覚えはじめます。子供たちの成長があまりに早すぎるような気がするのです。
 心配になった天女は漁師にたずねてみました。
「子供って、こんなに早く育つものだった?」
 漁師はけげんそうに答えました。
「どっちかというと、この子らはよその子らより育ち方が少し遅いくらいだ。やっぱり母親が天女だからからかな。おまえは最初に会ったころからちっとも変わらず、若くてきれいだし……」
 天女が顔を曇らせたので、漁師はあわてて言いました。
「ええだよ。少しぐらいこの子らの成長が遅くたって。ちゃんと育ってるだから」 そう言う漁師の髪には白いものが混じるようになっており、しわもずいぶん増えたようです。
 天女はようやく気づきました。遠い天空の彼方からやってきた自分たちと地上の人間とでは寿命の長さがちがうのだということに。自分が人生のほんのひとときを過ごしているあいだに、夫も子供たちも人生の多くの時間を過ごしたのだということに。
 このままここにとどまっていれば、自分がまだ若いうちに、漁師は老いて死んでしまうでしょう。いいえ、それだけではありません。自分よりも子供たちのほうが先に老いて死んでしまうでしょう。
 帰らなければと、天女は思いました。夫や子供たちに取り残されるのは耐えがたいことです。それ以上に、妻が、母が人ならぬ者だと、地上の人間とはかけ離れた生き物なのだと知られたくはありません。子供たちは、母が天女だということさえ知らないのですから、なおさらです。

 その日の夕方、海から帰った漁師は、戸口に立つ妻の姿にぎくりとしました。妻が桜色の羽衣をまとっていたからです。
「見つけただか」
「とっくの昔に見つけてたわ」
「じゃあ、なんで今まで帰らなかっただ?」
「帰りたくなかったからよ」
「それで……今は? 帰りたくなっただか?」
「帰らなければならないのよ。今度こそ帰らないと、あたしも、あなたも、子供たちも、みんな悲しい思いをしなければならなくなるから」
 そう言うと、天女は鳥の羽ばたきのように優雅に腕をくねらせました。羽衣をまとってそのような動作をすると、天女は空に舞い上がることができるのです。
 天女は空にゆっくりと舞い上がり、空中からなごり惜しげに漁師を見つめました。そして、両の目からあふれる涙を漁師に見せまいとしているかのように顔をそらせ、天高く上がってゆきました。  


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