人魚姫異聞

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1ページ完結の短編ファンタジー小説。アンデルセン童話「人魚姫」を題材にした話で、少し残酷かも


 吟遊詩人として、ロアン国のジーク王子の婚礼に招かれたときの話をしましょう。
 王子の結婚相手は、海を隔てて向かいあうシルベス国のサンドラ王女。ロアン国とシルベス国は、陸路をとれば遠く、途中で五つの国を通り抜けなければなりませんが、海路なら、間に他の国がはさまることもなく、帆船で三日ほどの距離です。縁組によって友好国となれば、双方とも貿易による利益が大きいという、どちらの国にとっても望ましい縁組でした。
 そのうえ、縁組の当事者である若いふたりにとっても望ましい縁組でした。
 それというのも、婚約に先だってジーク王子がシルベス国を訪問したとき、入港直前に王子の乗った船が嵐のために難破し、王子も一時は海に投げ出されるという事故がございました。
 その際、サンドラ王女が熱を出した王子の看護をなされ、お互いに好ましく思うようになられたとか。
 おお、もちろん、それを愛だの恋だのと言い切るつもりはありませんよ。
 おふたりとも、縁談の相手だと知ったうえでの好意ですからね。
 しかし、それでも、政略結婚としてはじゅうぶん幸福な結婚といえましょう。
 で、そのあと王子が帰国したとき、城には新参の侍女がひとり増えておりました。貴族や富裕な商人の令嬢が行儀見習いのために侍女として城に上がるのはよくあることでしたが、その侍女は、予定がなかったばかりか、身元も定かではありませんでした。
 もちろん、ふつうなら、身元不明の者を侍女にすることはありません。しかし、彼女には、特殊な事情がありました。
 王子の船を転覆させたあの嵐のあと、ずぶ濡れの部屋着をまとった乙女が、海岸近くに建つ離宮の番人に保護されたのです。
 乙女は口をきけませんでしたが、筆談することはできました。
 乙女は、自分の名前も、なぜ海岸にいたのかも覚えていませんでした。
 番人は、ずぶ濡れの絹の部屋着、まったく荒れていないきれいな手、文字を読み書きできること、筆談で書いた文の言葉づかい、上品な立ち居振る舞いなどから、嵐で遭難した上流階級の女性であろうと判断しました。 そこで番人は、乙女を王宮に連れてきたのです。
 王は、自国の貴族や騎士たちはもちろん、周囲の国々の王たちにも書状を出して問い合わせましたが、行方不明の姫や令嬢がいるという返事は一通もきておりませんでした。
 そこで王は、乙女にレテという仮の名を与え、行儀見習いを兼ねて王宮の侍女をしている貴族の姫たちと同じ扱いをすることにしたのでした。
 そんなおりに王子が帰国しましたので、レテは王子付きの侍女となりました。
 王子はすぐにレテを気に入りました。美しく、しとやかで、口がきけないだけにもの静か。しかも、恋する乙女ならではのやさしい気遣いや熱いまなざし。すべては王子の理想でしたから、気に入らないはずはありません。
 そう。レテは王子に恋していました。
 では、王子はどうだったかというと、微妙ですね。なんといっても婚約したばかりでしたから。
 もちろん、婚約を解消してレテと結婚するつもりなどありませんし、そのためにレテにすまなく思うこともなかったでしょう。手出しは控えていましたが、いつか側室にしようという気はあったかもしれません。
 結婚を控えているのに、って?
 愛馬は二頭いてもよい。愛犬は二匹いてもよい。そういう感覚であったろうと思いますよ。王子の行動からその心を推察するなら。
 婚約者に対する気持ちもレテに対する気持ちも、どちらがより強いとか深いということはなかったでしょうね。
 正式な妃のほかに何人かの女性を侍らすのがふつうの高貴な身分の殿方には、よくあることです。
 まあ、それで、王子は、花嫁を迎えるための船旅の途中、前祝いの酒に酔ってレテを自室に連れ込み、抱こうとしました。
 しかし、レテの衣服をすべて脱がせたとき、王子は気がついたのです。レテの腹の臍があるべきところに臍がないことに。レテが人間ではなく、海の民であることに。
 王子はその場でレテの胸を剣で刺して成敗し、兵士を呼んで甲板に運ばせ、海に投げ込ませました。
 わたしはその甲板に居合わせました。
 甲板に引き出されたとき、レテはまだ絶命しておらず、つかのまわたしと目が合いました。
 その目にあったのは深い哀しみと絶望。恨みや憎しみの色は見えませんでした。
 王子は怒り狂って、レテは海の民の間諜だったと叫んでいましたが、わたしにはそうは思えませんでした。瀕死のレテの瞳は、使命にしくじった間諜のそれではなく、愛に破れた乙女の瞳と見えました。
「海の民だからといって、間諜とはかぎりますまい」
 思わず王子に抗議しましたが、血走った目で睨み返されて口をつぐみました。それ以上言うとわたしまで間諜の疑いを着せられて殺されると思ったからでもあり、レテの傷が致命傷であり、救うのが不可能だというのが明らかだったからでもあります。
 海に投げ込まれたとき、レテがまだ生きていたかどうかはわかりません。ぴくりとも動きませんでしたから、すでに絶命していたのかもしれませんし、虫の息だったかもしれません。
 王子にとってはもはやどちらでもいいことだったのでしょう。
 甲板で、王子はいちどもレテに触れようとも、最期を看取ってやろうともしませんでした。
 その冷酷さを愛情の裏返しの憎悪といってよいかどうかは微妙でしょうね。兵士のひとりがレテの両脇を、もうひとりが足を持って王子の部屋から甲板まで運び、さらに海に投げ込んだのですが、王子は、兵士たちの手がレテの体に触れることに、まったく抵抗がないように見えました。それに、臍がない以外は人間の女性と違いがないその体を、男たちの目に触れぬよう覆ってやろうともしませんでした。
 憎悪の前に強い愛情があったのなら、そういうことはおそらくありますまい。
 ともあれ、こういう状況でレテは亡くなりましたので、彼女の最期の言葉を聞いた者はだれもおらず、彼女が何者だったのか、わかっておりません。
 海の民が人間に化けた間諜を送り込んでいるという噂を聞いたことがありますが、その噂が事実かどうかわかりませんし、レテが間諜だったかどうかもわかりません。
 わたしには彼女が間諜だったとは思えませんでしたが、それもわたしの思い込みかもしれません。
 ただ、昔話を集めていたハンスという青年にこの話をしたとき、レテから受けた印象を語りました。彼女は王子に恋したがゆえに、人間の姿をとって陸に上がり、その恋に破れたのだと思うということを。
 後年、ハンスは、わたしの話した逸話を、美しい物語に脚色して発表しました。報われない悲恋ではあっても、いちおう救いのある物語に。
 せめてその物語のとおりであればと願います。真実はどうであったかわかりませんが。  


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