サラライナ物語 沙蘭国の王女たちーサラライナ編1

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 広大なラマラナン砂漠の東端に位置するオアシス国家サラライナ。その都の名も、国名と同じくサラライナという。
 砂漠の宝石と異名をとる麗しの都サラライナの街路を、ひとりの騎士が砂鳥を進めていく。赤銅色の銅鎧と褐色のマント。濃褐色の顔布のため、容貌はわからない。兜と顔布の間から、夕闇のような菫色の瞳が、なにごとかを思いつめたような固い決意を秘めて前方に向けられている。背格好からするとまだ子供といってよい年齢のようだ。
「そこの騎士さま、砂瓜はいらんかね。けさ入荷したばかりのハシャの砂瓜だよ」
 そう声をかけた商人は、ふり返った騎士の鋭い眼光に、はっと息を飲んだ。が、それも一瞬のこと。すぐに騎士の目元にやさしい笑みが浮かんだ。
「ごめんよ。今は食べたくないんだ。また今度もらうよ」
 そう言って通り過ぎていく騎士を見送り、商人は首をかしげた。
 どこかの隊商が護衛に雇った傭兵にしてはいくらなんでも若すぎるし、上品すぎる。都の騎士の子息だろうか。
 騎士のただならぬようすが気にかかったものの、商人は、店に入ってきたソムティア国の隊商の相手をしているうちに、通りすがりの騎士のことなど忘れてしまった。
 剣呑な雰囲気を漂わせて通り過ぎていく若い騎士と対照的に、街頭では、東西の珍しい品々を売るサラライナの商人たちと、客の隊商や旅人たちの陽気な声でにぎわっている。
 東方の大帝国ラクの織物や香料。南方の暑い国々の珍しい果実や宝石。砂漠周縁のオアシス諸国の砂瓜や羊毛。砂漠のはるか西方の国々からもたらされる珍しい硝子細工や絨毯……。
 西方から砂漠を横断してきた商人たちは、西方の国々の商品を売って、ラクからもたらされた商品を買い、西方に戻っていく。ラクの商人たちは、ラクやさらにその遠方の国々の商品を売り、西方の珍しい品々を買い求めて帰っていく。サラライナで商売をせずにただ通過していくだけの隊商も、宿で休息を取り、水や食料を調達するために多くの富を落としていく。
 サラライナは、ラクと西方の国々を結ぶ交通の要衝として栄える国だった。
 夕闇色の瞳の騎士は、店先の珍しい品々には目もくれず、町並みをあとに砂漠へと出ていった。
 サラライナ王国の他の町や村はすべて都の南方に散在しているのだが、年若い騎士は南には向かわなかった。
 騎士は、都の北門から砂漠に出ると、夕闇色の瞳を地平線のかなたに向け、ぐるりと見回した。
 都の北には、砂鳥の隊商で七日の行程といわれるラク帝国のコーサン砦まで、無人の砂漠がつづいている。
 地を這う獣も空を飛ぶ鳥も見当たらぬ流砂の砂漠。その一点に、騎士は目を留め、砂鳥を進めていく。行く手にはあたり一面の砂しかないというのに、まるではっきりと目標を見定めているかのような、確信に満ちた足取りだ。
 もしも、そのようすをそばで見ている者がいたとしたら、この騎士は、地平線のかなた、砂丘の陰のすべてを見通しているのではないかと、首をかしげたことだろう。

 夕闇色の瞳の若い騎士がめざす流沙のかなたでは、洛帝国の使節の一行が、暑さと渇きのために憔悴しきった足取りで一路サラライナをめざしていた。
 一行は全部で二百人あまり。そのうち、五人が首都華陽の高官で、ひとりが案内人。あとは従者兼護衛部隊で、その半数は、砂漠中の鴻山砦に駐屯していた兵士たちだった。一行のうち、都の高官たちと護衛の武将十数名だけが砂鳥に乗り、残りは徒歩である。 「沙蘭国はまだ遠いのか」
 正使の洪金栄が、暑さにあえぎながら、なかば独り言のようにつぶやいた。サラライナの人々が洛帝国のことをラクと呼んでいるように、洛帝国の人々は、サラライナのことを沙蘭と呼んでいるのである。
「そろそろ見えてくるころかと思うのですが」
 副使の董玄焔が答えた。副使という重職につくには異例な若さで、砂まみれになってなお、それとわかるほど水際立った容貌の持ち主だ。
 玄焔は、都からきた役人たちのなかでただひとり、西域の事情に通じている。少年時代の数年間を、西域大守として鴻山砦に駐屯していた父親のもとで育ち、都に帰ってからも西域の情勢に関心をもちつづけていたのである。
 鴻山砦を出て、今日で八日目。砦から沙蘭までは、ふつう七日の道のりといわれている。玄焔以外の役人たちが砂鳥の扱いに慣れていないために遅々としてしまったが、方向を誤りさえしていなければ、そろそろ名高い沙蘭の神殿の塔が見えてきてもいいころだ。  目を凝らしながら砂鳥を進めていくと、ゆらゆらと陽炎の立ち上る地平線に、何か白いものが太陽の光を反射してきらめいた。 「沙蘭です。沙蘭の塔です」
 いつも冷たいと評される冷静沈着な玄焔が、思わず興奮気味の歓声をあげた。
 純白のタイルを貼った有名な沙蘭の神殿の塔は、沙蘭国の人々の信仰の中心となっているだけではなく、砂漠を旅する人々にとって貴重な目印である。
「どれだ?」
「あの白いのがそうなのか?」
 役人たちは、安堵と不安の入れ混じった表情で白い塔を見つめた。
 華陽の都を出てから山を越え砂漠を越え、何十日もつらい旅をして、ようやくの思いで砂漠の宝石とうたわれた沙蘭国にたどり着いたのだ。歓声を上げて駆け出したいという思いを押しとどめたのは、幾度となく蜃気楼に惑わされた苦い経験のゆえだった。
「あれはまことに沙蘭か?」
 正使の洪金栄が不安そうな声を上げた。
「蜃気楼ではありません」
「まちがいなく沙蘭の都ですよ」
 鴻山砦からきた案内人と玄焔が、ほとんど同時に歓喜に満ちた声を上げた。その一言で、一行に歓声が巻き起こる。
「沙蘭だ」
「沙蘭の都だ」
 正使の洪金栄をはじめ、都の役人たちは皆、玄焔を快く思っていない。玄焔は、五人の役人たちの中でもっとも若く、それほど高い家柄の出でもないのに、皇帝にも宰相にも信頼され、副使にまで抜擢されたのだ。役人たちは、何かにつけて玄焔に嫌味を言い、反感をあらわにするのが常だったが、いまだけは彼の言葉を素直に受け入れて笑顔を向けた。玄焔が西域にくわしいことを、皆はよく知っているのである。
 喜びのあまり、役人たちの何人かは、自分たちが打ちまたがっているのが砂漠地帯特有の砂鳥の背なのだということを忘れてしまった。
 洛帝国で乗り慣れている馬と同じように、思いっきり砂鳥の腹を翼の上から蹴とばしたからたまらない。
 両脇にたたまれた砂鳥の翼は、形ばかりで空を飛ぶ役には立たないが、それでも、体のうちでとくに敏感な部分だ。それに、砂鳥がいくら鳥にしては足が太くて頑健で、人や荷を乗せて運べるとはいえ、さすがに馬ほど頑丈ではない。
 蹴られた痛みと驚きで、砂鳥たちは飛べない羽をばたつかせ、狂ったように走りだした。乗手が慣れていないだけに、静めようと躍起になればなるほど、砂鳥はおびえて暴れだし、目も当てられない騒ぎになった。
 玄焔と兵士たちが砂鳥を静め、ようやく事態の収拾がつくと、洪が罰の悪さから皮肉を口にした。
「副使どのは辺境育ちだけあって、砂鳥の扱いに慣れておりますな」
「お誉めにあずかりまして恐縮ですね」
 玄焔のやんわりとした言葉に、正使はよけい気分を害したらしく、ぷいと砂鳥の向きを変えた。
 兵士たちの間に、あきらめにも似たため息が漏れる。これまでの旅のあいだに蜃気楼に翻弄される役人たちの姿を何度も見ているので、いまさら彼らの醜態には驚かない。それでも、鴻山砦からきた兵士のひとり朱明羽が、吐息とともにあまりにも正直な感想をつぶやいた。
「都の役人ってのは、こんなに無能だったのか」
 護衛隊長の赫秀がとがめるように睨みつけたが、口の悪い若者は気にするふうもない。赫と数人の兵士たちが役人たちの後を追っていっても、後に続こうとはせず、ようすを見ている。
 朱明羽は、鴻山砦から一行の供をしてきた若い士官だった。役人の機嫌を取ったからといってたいして出世できる家柄でもなければ、出世のために上官に媚びへつらう性格でもない。
 明羽に限らず、辺境勤めの兵士たちはたいてい都の役人たちを嫌っている。細かい形式や礼儀作法にこだわる官僚主義も、都育ちの貴族階級ということを鼻にかけて他人を見下す尊大さも、質実剛健な辺境の風潮に慣れた身にはうっとうしくてしかたがない。
 その反動で、兵士たちは、他の役人たちに疎まれている玄焔にはわりあい好意的だ。玄焔が辺境育ちということや、華奢な体格に反して意外と体力があり、苛酷な旅にも不平ひとつこぼさない点も、兵士たちの好感を呼んでいた。
 なかでも朱明羽は、自分とあまり年の違わない玄焔に親近感を抱いている。
「副使どのも、都勤めなんか辞めて鴻山の砦に来ませんか。堅苦しくなくて気楽ですよ」
「そういうわけにはいかない。明羽、おまえのほうこそ、都に出て出世しようという気はないのか」
「とんでもない。都のことはよく知りませんが、官僚主義ってのは大の苦手でしてね。だいいち、出世したいなら辺境にいたほうがいい。戦功を立てようにも、都に戦はありませんから。都で内戦でも始まれば、行ってみるのもおもしろそうですけどね」
 他の役人たちが聞けば、縁起でもないと激怒しそうなことを、朱明羽は平然と言い放った。
 玄焔は苦笑した。都で出世しようと思ったら明羽のようにふるまうわけにはいかないが、玄焔はこの若者の率直さがときどき羨ましくなる。
「皆から遅れてしまった。急ごう」
 玄焔が砂鳥の歩みを速めると、明羽もすぐ後を追いかけた。
 正使たちに追いついたところで、玄焔がふいに砂鳥を止め、明羽は驚いて背後から声をかけた。
「どうしました、副使どの?」
「だれか来る
」  玄焔はまっすぐ前方を指し示した。
 役人たちも、玄焔の声で砂鳥を止め、前方に目を凝らせた。
「何も見えんぞ」
「副使どのは幻でも見ているのではないのか」
 嘲るようにそう言った役人たちも、玄焔より少し遅れて地平線に小さな黒い人影を認め、口をつぐんだ。
 陽炎のゆらめくなか、沙蘭の都の方角から、砂鳥にまたがった人物がまっすぐこちらに近づいてくる。
「伝令が迎えに出てきたのではないのか」 
 洪が不安そうに言う。
 使節に先だって鴻山砦を出発した伝令は、もうとっくに沙蘭の都に入っているはずだ。その伝令が、いつ到着するかわからない使節をわざわざ都の城門の外で待っていたのなら、よほどの重大事があったに違いない。
 おまけに、伝令は三人送ったが、向こうから来るのはただ一騎だ。
「何かあったんでしょうか」
 洪と対照的に、若い明羽の口調には不安のかけらもない。むしろ、もめごとを期待しているような響きがある。不謹慎な、と言いたげに、役人のひとりが睨みつけたが、明羽は気にも留めていない。
「伝令じゃありません。西域の人間のようですね。旅人にしては妙ですが……」
 玄焔は、目を細めて人影を凝視しながらそう言うと、洪の方をふり向いた。
「確かめてきます。ここでお待ちください」
 副使が偵察にいくなどとんでもない話なのだが、玄焔はなぜか、前方の人物にひどく好奇心をそそられていた。
 旅人とは思えない。旅人はたいてい安全のために隊商とともに旅をする。同じ方向に向かう隊商が見つからない場合でも、砂漠をひとりで旅する者はまずいない。
「お待ちください、副使どの」
 護衛隊長の嚇秀があわてて制止した。ここで副使に何かあっては一大事だ。
「それがしがまいります。副使どのはここでお待ちください」
 嚇秀は、明羽と案内人についてくるように命ずると、砂鳥を走らせた。
 玄焔は言われるままに砂鳥を止め、嚇と明羽を見送った。
(わたしとしたことが……)
 副使が斥候のような真似をしようなどとは軽率すぎたと、玄焔は反省した。いくら腕に自信があってもすべきことではない。嚇が止めたのも当然だ。
 玄焔がいつになく冷静さを失ったのには理由があった。
 遠い少年の日にも、玄焔は、砂漠をただひとり、砂鳥を走らせる騎士と出会ったことがあったのだ。
 西域太守の息子として鴻山砦で育った日々、玄焔は西域の国々に憧れた。砂鳥をほんの数日駆けさせれば、洛の文化とはまったく異質な文化の栄える国々にたどり着き、珍しいものを見聞きすることができる。少年らしい無謀さから、玄焔は、十日分ほどの水と食料を調達し、砦から二頭の砂鳥を連れだして、ただひとりサラライナに向かったのだった。
 案の定、砦を出て数日後、玄焔は賊に襲われた。逃げ惑っていた玄焔を救ったのは、砂鳥にまたがったひとりの騎士だった。
 異国風の薄茶色の兜に薄茶色の甲冑。白い顔布のために容貌はわからなかったが、背丈から察するに、玄焔とたいして年は違わなかったのではなかろうか。
 謎の騎士は、少年の日の玄焔にとって憧憬の的となった。七、八人はいた賊どもをまたたくまに斬り伏せた剣さばき。鴻山砦にも豪傑は何人もいたが、かの騎士に及ぶ者には出会ったことがない。
(ばかなことを。あのときの騎士とは限らぬだろうに)
 玄焔が見守るなか、嚇秀と明羽たちは前方の騎士に近づいていく。
 と、ふいに騎士がすらりと剣を抜き放った。すぐさま、嚇秀が剣を抜いて斬りかかる。
 二合、三合と斬り結ぶのを見ると、玄焔は、他の者の制止を無視して砂鳥を走らせた。
 嚇秀はなかなかの豪の者だが、謎の騎士のほうがはるかにすばやく、剣の技量も上だということは遠目にも見て取れる。
 いくらも剣を交えないうちに、たちまち、嚇は剣を叩き落とされた。加勢に加わった明羽も騎士のみごとな剣さばきに押され気味だ。
 騎士の剣を受け止めたはずみで、明羽は砂の上に転がった。体勢を立て直すまもなく、騎士の剣がすさまじい勢いで明羽に向かって振り下ろされる。
 間一髪で騎士の剣を受け止めたのは、玄焔だった。たちまち騎士が玄焔に向き直る。
「副使どの!」
 加勢しようとする明羽と嚇秀を、玄焔が押しとどめた。
「手を出されるな」
 嚇秀たちは玄焔の気迫に押されて思わず足を止めた。
 対峙して初めて、玄焔は騎士のほっそりと小柄な体格に気がつき、驚いた。
(まだ子供ではないのか?)
 騎士の腕も手首も、少年どころかまるで少女のように細い。だが、騎士の子供のような外見に惑わされて手加減するような愚かな真似はしない。
稲妻にも似た勢いで、玄焔は剣を繰り出す。よほどの剣豪でもなければ受け止められぬ玄焔の剣先を、騎士はすばやく確実に防ぎ止める。騎士の攻撃を受け止めるときには、訓練を積んだ玄焔でさえ、剣を持つ手が衝撃でびりびりと震えた。
 この少年騎士のほっそりとした体のどこに、屈強のおとなにも引けをとらぬ強靭な力が蓄えられているのだろうか。
 いやおうなく玄焔は、かつて少年の日に出会った騎士のことを思い出した。兜や甲冑の色こそ違うが、ほっそりした体格に信じられないほどの強靭な力と、相手の剣を確実に受けとめる敏捷さ。だが、むろん、あのときの騎士が、いま目の前にいる騎士と同一人物のはずはない。遠い日に玄焔を救った騎士がいまでも少年のはずはないのだから。
 カン、カン……。
 炎天下の砂漠に、剣を打つ音だけが響き渡る。嚇秀と明羽は、いまやはっきりと、玄焔の剣の技量が自分たちを数段凌ぐものだと悟り、かたずを飲んで眼前の激しい戦いを見守っている。
 どのぐらい戦ったろうか。砂鳥を駆使しての戦いは不利だと、玄焔は気がついた。
 玄焔は、洛帝国の人間としては稀なほど砂鳥の扱いに慣れているが、華陽の都に住んでいたあいだは一度も砂鳥に乗ったことはなく、砂漠の民のように自在に乗りこなすことはできない。
 それにひきかえ、騎士は、砂鳥をまるで自分の体の一部であるかのように操っていた。砂鳥とともに育った砂漠の民なればこそ可能な技だ。
 玄焔は、渾身の力をふるって剣を振り下ろした。騎士に向かってではない。玄焔の剣は、騎士の意表をついて砂鳥の細く長い首を両断した。砂鳥はどさりとその場に倒れ、騎士は、ふいをつかれて地面に投げ出された。
「チムカ!」
 騎士が叫んだ。砂鳥の名なのだろう。
 騎士に体勢を立て直す隙を与えず、玄焔は砂鳥から飛び降り、騎士に斬りかかった。
 間一髪で、騎士はすばやく身をかわす。玄焔の剣先は、騎士の顔布をかすめ、切り裂いた。
「女?」
 玄焔の口から、驚きとも問いかけともつかぬ声が漏れる。女というよりは、少女といったほうがいいだろう。日に焼けた肌に引き締まった口もと。丸みを帯びたやさしい輪郭。健康的で勝ち気そうな美少女だ。それとも少女と見紛う美少年なのだろうか。
「よくもチムカを……」
 沙蘭語で吐き出すようにそう言うと、騎士は兜をかなぐり捨てた。褐色の長い髪が宙に舞う。が、それは一瞬のこと。騎士が額にきらめく青い宝石の額飾りをむしり取るようにはずしたとたん、玄焔の足下の砂が宙に舞い上がり、少女騎士の姿をかき消した。
「伏せろ! 砂嵐だ」
 ほとんど反射的に、玄焔は背後をふり向き叫んでいた。
 明羽たちが砂丘の陰に飛びこむのを目の隅で捕らえると、玄焔は自分もその場に身を伏せた。
 たちまちすさまじい突風が玄焔たちを地からもぎ離そうとする。叩きつける砂のために、やむなく顔を伏せ、地にしがみつきながら、玄焔は全神経を集中して騎士の動きを探ろうとした。
 まさかこの砂嵐のなかを斬りかかってくることはできまいとは思うのだが、相手は砂嵐を自在に起こせる人間だ。油断はできない。
 とはいえ、耳をすませれば聞こえるのは風の吹きすさぶ音。目を見開けば砂が目に入り、しがみついているのは、確固とした岩盤ではなく、風に吹かれて動く流沙。不利なことこのうえない。
 と、風の音に混じって、シュッと何かが風を切るかすかな音を、玄焔は耳にした。
 次の瞬間、玄焔は真横に跳んだ。どうやって投げたのか、今まで玄焔のいたあたりの砂の上に剣が深々と突き刺さる。
 間一髪で剣をかわしたと思ったとたん、玄焔は、跳んだはずみに突風に足をとられた。
「しまった」
 玄焔の体は、砂嵐に巻き上げられ宙に浮く。あらゆる危険に対処できるように訓練を重ねてきた玄焔だが、今度ばかりはどうしようもない。
(くそ、こんなところで……)
 どのぐらい宙に巻き上げられていたろうか。玄焔にはかなり長時間だったように感じられたが、実際にはほんのわずかのあいだのことなのだろう。
 玄焔が半ば観念しかけたとき、だれかの声が響きわたった。
『やめなさい!』
 洛帝国の言葉ではない。サラライナ語だ。
『でも……』
 やはりサラライナ語で反駁する声に、有無を言わせぬ口調で命令する声が聞こえた。
『いいからやめなさい。サラライナに災いをもたらせたいの?』
 と、ふいに砂嵐がやみ、玄焔の体は宙に放り出された。落下するとちゅう、玄焔は、砂の上にふたりの人物の姿を見たような気がした。

 砂の上に叩きつけられ、どのぐらいのあいだ気を失っていたのだろう。
「副使どの」
「さあ、これを」
 心配そうな声と喉に注ぎこまれる冷たい液体に、玄焔は意識を取り戻した。
「気がつかれましたか」
「いったい何が起こったのだ?」
「何だったのだ、今の砂嵐は?」
 まわりを取り囲んで口々に叫んでいるのは、あとに残してきた役人たちと護衛兵たち。褐色の髪の少女騎士も、つかのま目にしたと思った第二の騎士も、もはやどこにも見当たらない。嚇秀と明羽の姿も見あたらないことに気づいて、玄焔は跳ね起きた。
「明羽は? 嚇どのは?」
「ふたりともご無事です。まだ気を失っているようですが……」
 護衛兵のひとりが答えたとたん、人垣の背後で威勢のよい声が上がった。
「副使どの! 副使どのはご無事か?」
 明羽の声だ。明羽につづいて、まもなく嚇秀も意識を取り戻した。ふたりとも、砂嵐に巻き上げられて地上に叩きつけられたのだという。
「案内人は? いっしょに砂嵐に巻き上げられたと思ったが……?」
 明羽の言葉に、兵士たちが当惑げに顔を見合わせた。
「どうした? 死んだのか?」
「いえ、生きてはいますが……」
 兵士たちの視線の先では、サラライナ人の案内人がうずくまり、怯えてがたがた身を震わせている。
「聖騎士さまだ。聖騎士さまがお怒りになった」
 案内人が半ばうわごとのように繰り返しサラライナ語でつぶやくのを、嚇秀が聞きとがめ、玄焔に意味をたずねた。一行のなかでサラライナ語を解するのは玄焔ひとりなのだ。玄焔が訳すと、嚇秀は首をひねった。
「聖騎士? 何だ、それは?」
「沙蘭国の伝説の聖騎士のことでしょう。沙蘭国に存亡の危機が迫るとき、聖なる騎士が現われて国を救う。そんな言い伝えがあるのです」
「では、さっきのがその聖騎士だと? あれは人間なのか? あれはいったい……」
 嚇の言葉を、正使の洪金栄が遮った。
「ばかばかしい。蛮族の迷信ではないか」
「では、あの砂嵐は? 人間に砂嵐が起こせると?」
「そんなもの、偶然だろう。蛮族の騎士と斬り合っているときに、たまたま砂嵐が起こっただけではないか。嚇秀は豪の者と聞いていたが、意外と臆病なのだな」
 洪をぐっと睨みつけている嚇に、玄焔が小声でささやいた。
「嚇どの。事実はどうあれ、兵士たちに動揺は禁物です」
 嚇は不安げな兵士たちに視線を走らせると、無言で洪に背を向けた。
「もしもあれが聖騎士なら」
 明羽の声に、玄焔はぎょっとして振り返った。辺境勤めの兵士たちは迷信深い。もしも兵士たちが動揺したまま沙蘭国に入城し、それが沙蘭国側に悟られれば、洛帝国の威信が傷ついて外交に不利に働くことにもなりかねない。
 咎めるような玄焔の視線を気にするようすもなく、明羽は言葉をつづけた。
「聖騎士は、われわれの沙蘭入城を許したことになりますね。全員こうして無事に生きているのですから。なら、さっさと出発しましょうや。わたしは早いところ、沙蘭のうまいものを食って、酒を飲みたい。干し肉と干し飯の食事にはもうあきあきしました」
 明羽の陽気さは、兵士たちの不安をいくらか解消したようだ。
「聖騎士さまのお怒りだ。聖騎士さまがお怒りになった」
 ぶつぶつとつぶやきつづける案内人を引きずるようにして、一行は、目前の都に向かって出立した。


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