キッコンバッタン、キッコンバッタン
タイム・ボックスの音がマリコは怖い。少し大きな会社ならどこにでもある、何のへんてつもない機械なのに。 学生時代には、タイム・ボックスがこんなに怖いなんて知らなかった。学校には、タイム・ボックスなんてなかった。今年の春に会社に勤めるようになって、初めて使うようになった機械なのだ。
人間がひとり入れる大きさのカプセルで、タイムカードが進化した機械。マリコたちは、毎朝毎夕、その中に入る。そうすると、出社時間、退社時間はもちろんのこと、体調、その日の気分まで、何でもタイム・ボックスに記録される。
記録するだけなら怖くない。怖いのは、いらいらや不快感まで、タイム・ボックスが調整してくれるから。怠けたい気分のときには、がんばらなくっちゃという気分に、会社や上役に不満なときには、自分の会社に不満を持っちゃいけない、目上の人を尊敬しなくちゃいけないという気分にさせてくれるから。
タイム・ボックスは人間の自分勝手な面を直すのだと、上役や先輩社員たちは言う。
だけどマリコはそれが怖い。怠けたい気分になるのが、そんなに自分勝手なことなのか。会社や上役に不満を持つのが、そんなに悪いことなのか。
自分自身が、自分でないものにつくりかえられていくようで、恐くて恐くてたまらない。ほとんど本能的な恐怖と言っていい。
別の会社に就職した友人たちも、それぞれタイム・ボックスを怖いと言う。
「わたしの会社にもタイム・ボックスがあるの。ボックスに入るたびに、何だかどんどんスポイルされていくみたい」
「何か自然じゃない。不気味だよね」
家族に相談してみると、父が言った。
「そうか、そうか。じゃあ、会社を辞めて嫁にいけばいい。花嫁学校にでも入学するか?」
「なに言ってるの、おとうさん」と、母が遮る。
「花嫁学校にもタイム・ボックスぐらいありますよ。マリコみたいなわがままな娘は、タイム・ボックスで素直な性格になったほうがいいのよ」
「タイム・ボックスなら、わたしの中学にも入ったよ」と言うのは妹のユカ。
「みんな怖がってる。あれは人の魂を削っていくって、怪談があんの。削り取られた魂は、宇宙をさまよって、本体が迎えにくるのを待っているんだって。でも、いい高校に入って、いい大学に行きたいからね。怖がってばかりもいられないもんね」
マリコは驚いた。中学校にまでタイム・ボックスが置かれるようになったなんて、まったく初耳だったのだ。
それからマリコは、タイム・ボックスの中に入るとき、いつも、妹の話した怪談を思い出す。
魂というのは、自我とか、主体性とか、自分自身に正直な感情のことなのだろう。
削り取られた魂が、宇宙をさまよいながら、マリコが迎えにいくのを待っている。削られてたまるものか。これ以上魂が削り取られることなど、許せるはずがない。
そう念じつづけることが、自分の魂を守ることになるのかどうか、マリコにはわからない。だが、自分自身の魂を守るためにマリコにできたのは、宇宙をさまよう魂の幻想に、しがみつづけることだけだった。
二年あまりの歳月が流れた。会社の同期のOLたちも、学生時代の友人たちも、毎日タイム・ボックスを使ううち、どこか微妙に以前とは変わっていく。マリコだけが、いつまでたってもタイム・ボックスに慣れることなく、自分の魂を守ろうとする。だけど、それでも、魂が少しずつ削り取られていくような気がした。
マリコは子供のころから、空想の世界に遊ぶのが好きだった。異星、異世界、どこにもない国……。だが会社に勤めるようになってから、かつて心の中にあった空想の世界が、どんどん薄れて消えていく。
これは魂が削られていく証拠。子供のころ、空想の世界のことを語ると、おとなたちに「現実逃避」といわれたっけ。
今にして思えば、おとなたちは、魂を削り取られて、現実逃避さえできなくなっていたのではなかったか。そうして自分も、このまま魂を削り取られていけば、現実逃避さえできない人間になってしまうのだろう。そのうちには、魂を削り取られているということにさえ、気がつかなくなるのではないか。そう思うと、マリコは恐怖した。
いつまでたってもタイム・ボックスに慣れないマリコは、会社や上役には評判が悪かった。
そうしてある日、とうとう直属上司の課長が部長に持ちかけた。
「マリコくんは協調性がなさすぎます。タイム・ボックスに拒否反応を起こしているんですよ。皆と強調したいという意欲がまったくないんです。定時のタイム・ボックス使用だけではどうにもなりません。特別訓練を受けさせるべきです」
「しかしねえ」部長は思案顔だ。
「特別訓練というのは、少し問題があるように聞いたがね。あとで精神に異常をきたした者が、今までに何人もいるとかいう話じゃないか。拒否反応の強い者ほど、おかしくなりやすいようだし……」
うわさに名高い特別訓練。三日のあいだ、専門の訓練所のタイム・ボックスの中で、昼も夜もほとんどの時間を横たわって過ごす。どんなに反抗的な人間でも協調性が身につき、和を尊ぶようになるという。ただ、ときどと、強すぎる自我がタイム・ボックスの効果を激しく拒絶するあまり、発狂する場合がある。
「部長は甘すぎますよ」と、課長が言う。
「おかしくなった連中は、もともと本人のほうに問題があったんですよ。タイム・ボックスに拒否反応を起こすこと自体が異常なんです。せっかくりっぱな社員になれるように教育してやろうとしているのに、拒否反応が強すぎて気が狂ったからって、会社の責任じゃありませんよ。どうせ、そのまま放っておけば社会人失格になる人間なのですからね」
「まあ、君がそう思うのなら、いいと思うようにやりたまえ」
とうとう部長は承諾した。
特別訓練を受けるようにと命令された翌日、マリコは会社に辞表を出した。
毎朝毎夕、タイム・ボックスから守りつづけてきた自分の魂。うわさに名高い特別訓練からまで守りつづける自信はない。
会社を辞めたマリコに友人たちが言う。
「タイム・ボックスを拒みつづけるからよ。そんなことをすれば、特別訓練を受けなければならなくなるの、あたりまえでしょ」
「タイム・ボックスぐらい、ちょっとくらい怖くたって、みんながまんしているのよ」
「人間、ひとりで生きているわけじゃないのよ。あんた、勝手よ。うちの会社にも、あんたみたいな後輩がいるけどね。そういうコには、社会生活になじめないのなら、宇宙でひとりぼっちで暮らせって言ってやることにしているわ」
友人たちは変わっていた。二年前とは別人のように変わっていた。タイム・ボックスが変えたのだ。友人たちの変わりようは、腹立たしいより先に悲しかった。
「お望みどおり、宇宙に行くわ」
かつての友人たちに、マリコは宣言した。
「あんたたちみたいになる前に、削り取られたぶんのわたしの魂を迎えに行くわ」
マリコは、ありったけの貯金を使って宇宙を旅する。クレジットがなくなると、宇宙船や宇宙植民地で臨時のバイトをして、また旅に出る。宇宙の職場にはたいていタイム・ボックスはない。タイム・ボックスのあるところには、どんなに給料がよくても、マリコは絶対に勤めなかった。
あるとき、マリコの乗った宇宙船が事故にあった。重傷を負った通信士の代わりに、マリコは近くのステーションに救援を求める。宇宙で暮らし、働くうちに覚えた技術だ。自信はなかったが、なんとか救援信号はステーションに届き、返事が返ってきた。
人々はブリッジに集まり、負傷者の手当てをし、身をよせあって救援を待つ。小型の貨客船だから、もともと乗員は少ない。十人の乗組員と八人の乗客だけ。傷を負った者はいるが、ともかく全員生きている。
電気系統の故障で主灯の消えたブリッジ。スクリーンいっぱいに広がる無限の宇宙。非常灯のかすかな明かりで、皆の輪郭は見て取れるものの、まるで宇宙空間に投げ出されたようで心細い。
深まる静寂をふいに破って、ひとりの少女が歌いだした。美しい澄んだ歌声。マリコが地球で会社勤めをしていたころ、宴会のたびに聞かされた酔っぱらいのだみ声とは対極のもの。
じょうず、へたというだけの違いではない。立場の強い者が弱い者にむりやり聴かせ、ストレス解消をするための歌ではない。人々の心を慰め、揺さぶる歌。魂を失っていない者のみが口ずさむことのできる歌声。
星々の下に身をよせあって、少女の歌声に耳を傾けているうちに、皆のあいだにふしぎな連帯感が芽生えていく。
会社にいたころ強要された連帯感とはまったく異質なもの。会社で「和をだいじにしろ」と求められた「和」は、目下の者が目上の者に、個人が全体にむりやり合わせ、ひとりひとりの自我を否定することによって成立するものだった。目下の者の人間性よりも目上の者のメンツが重んじられる世界の、しらじらしい和気あいあいごっこだった。だが、いまの連帯感はそれとは違う。
このブリッジでは、船長も雑役夫も乗客も、みな同じ重みを持つひとりの人間。だからこそ成り立つ人と人とのつながり。そんな感慨を抱いたのは、マリコだけだったろうか。
少女が歌い疲れて口を閉ざし、ふたたび静寂が訪れたとき、マリコは自分の語る声を聞いた。
「わたしには人の心を慰めるような歌は歌えません。でも、物語を語ることならできます」
話す自分がいる一方で、自分の話に耳を傾けている自分がいる。そんな奇妙な感覚を味わいながら、マリコは語りはじめた。
悪夢のような会社勤めのあいだ、マリコの魂を守りつづけた幻想。タイム・ボックスによって削り落とされ、宇宙をさまよいながら、自らの本体が迎えにくるのを待ちつづけている魂の話。それを語り終えると、今度はマリコがつくりだした物語。学生のころや会社勤めをはじめてまもないころにつくり、つらい会社勤めのあいだにすっかり忘れていた数々の空想物語。宇宙に出てからつれづれに思いつき、心の中で暖めていた数々の物語。
どの話をどんな順番で語ったのか、のちにマリコはほとんど覚えていない。ただ、そのときマリコは、熱にうかされたように語りつづけた。
ふと気がつくと、メイン・スクリーンに、薄ぼんやりとした輝きを放つマリコの姿が映っている。マリコだけではない。ブリッジにいる人々のうち何人かの姿も映っている。
魂だと、マリコは思った。タイム・ボックスによって削り取られ、宇宙をさまよっていた魂を、今ようやく見つけたのだ。
マリコは自分の魂に向かって手を差し伸べた。マリコの魂は床に降り立ち、自身の体に向かって手を差し伸べる。
(なぜ、わたしの魂は、こんなに薄くぼんやりとして、今にも消えてしまいそうなのだろう?)
声には出さなかったのに、マリコの疑問に魂が答えた。(わたしは魂の一部分。魂のすべてではないからよ。魂の残りの部分は、ちゃんとあなた自身の体の中に残っている。だからあなたは、わたしを見つけ出すことができた。もしもあなたが魂のすべてを失っていたら、永久にわたしを取り戻すことはできなかったでしょう)
そしてマリコの魂の一部は、体の中にすべりこんだ。
それらすべては、はたして現実だったのか、夢だったのか。
マリコも他の乗員たちも、気がつくと救助船のベッドの中にいた。あとでわかったことだが、マリコたちの乗っていた宇宙船は、事故のときに空調装置も変調をきたしていて、ブリッジ内の二酸化炭素がいつもより少々濃く、酸素が薄くなっていたという。
あのブリッジで見たものは何だったのか。酸欠状態が見せた幻だったのか。あの場にいた人々は、マリコと同じものを見たのだろうか。
マリコにわかるのは、救助船の中で気がついたとき、喉がからからに渇き、声が枯れていたこと。よほど長時間、ブリッジでしゃべりつづけていたのだろう。
それに、ブリッジにいた人々がマリコに向ける温かみのある笑顔と、もの問いたげな視線。彼らもまた見たのだろうか、宇宙をさまよっている魂を。
だが、その問いを口に出すのは、さすがにためらわれたし、皆も口にはしなかった。
ただ、これだけはわかる。マリコは魂を取り戻した。会社勤めのあいだに削り取られた魂は、いま、すべてマリコのうちにある。ブリッジでのできごとがたとえ幻覚だったとしても、これだけは確かだ。けれど、地球に帰ったら、またすべてを失ってしまう。
その後、マリコは、二度と地球には帰らなかった。彼女といっしょに遭難し、救助された人々もまた、多くは地球に帰らず、宇宙で生涯を過ごしたという。
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