死後の世界の話だけど、ホラーじゃない。かといって、ファンタジーと言っていいのかどうかよくわからないという、変な話です。
登場人物の名前は、「よくありそうな普通の名前を」と思って適当につけましたので、同姓同名の方がいらっしゃったらご容赦。
1
閻魔大王のもとに向かって延々とつづく亡者の行列……。
石井修一は、ふと気づくと、その行列のなかにいた。
「おれは死んだのか?」
修一は記憶を手繰り寄せた。
たしか、酔って帰る途中で近所の若者と口論になり、ナイフで刺された。薄れる意識の中、刺した当人や別のだれかの悲鳴を聞いたり、救急車に運ばれたりしたのは覚えている。
どうやら、救急車の車内か運ばれた病院で死亡したらしい。
つまらない死に方をしたもんだと思いながら歩いているうち、修一は閻魔大王の前にたどり着いた。
自分は極楽行きだろうと、修一は確信していた。
大学を出てすぐに入った会社で、十年近くもまじめに働いてきた。高校や大学の同期には、定職につかずにフリーターで食いつないでいる者も、親のすねをかじっている者もいるが、自分は違う。きちんと正社員としてひとつの会社に勤め、それなりの収入を得ている。親と同居はしているが、自分が使う分の食費や公共料金として、母親に毎月五万円ずつ渡している。
それに会社では役に立つ社員だ。
同僚の中には仕事ができなくて皆の足手まといになっている者も多いが、自分は違う。人事課に勤務して、いまでは係長だ。正社員ひとりと非正規社員三人、合わせて四人の部下を使う身だ。四人の部下は能力が低く、とくに非正規社員ふたりはひどいものだが、そんな部下を使ってよくやっていると思う。
人事課に係長はもうひとりいるが、定年退職を一年後に控えたご老体。係長止まりで定年を迎えるぐらいだから、頼りなくてうだつが上がらない。だから課長は修一のほうを信頼している。
自分は会社にとって有用な人材だと、修一は思っている。
そんな修一に、閻魔大王が質問した。
「まず、おまえ自身の自己評価を聞こう。極楽行きだと思うか? それとも地獄行きだと思うか?」
「極楽でしょう? 地獄行きになるようなことは何もしていませんから」
「地獄行きとなるのは、べつに殺人のような重大な罪を犯した者ばかりではないぞ」
「どんなささやかな罪でも対象となると、絶対なにもしていないという自信はありませんが」
「そこまで厳密なことは言っていない。犯罪にならないようなことでも、悪意や欲望から意図的に人を苦しめたことはないかと聞いているのだ」
「ありませんよ、そんなこと」
「ほんとうか?」
「ほんとうです。おれはずっと、会社のためにまじめに働いてきたんです。法律的にも道義的にも、悪事を働いたり、人を苦しめたりするような人間ではありません」
閻魔大王は修一の目をじっと見つめた。
「どうやら本気でそう思っているようだな」
「もちろん、本気です」
「おまえと対立してリストラされたり、ストレス病になって退職を余儀なくされた者は二十人以上。それをどう説明する?」
「仕事ができないとか、指示に従わないなど、会社のためにならない者ばかりです。そういう者たちを会社で養えば、会社の業績が落ち、皆のためになりません。皆のために、皆の足を引っ張る者たちを敢えて切り捨てたのです。必要な処置です」
こういう説明はすらすら出る。リストラされた者が労働基準局に訴え出るたびに同じ説明を繰り返してきたのだから。
「なるほど。おまえの行く場所は決まった」
「極楽ですね」
「いいや」
「まさか! 地獄だというんですか?」
修一は恐怖と不安で青くなり、続いて怒りのために顔を赤くした。
「なぜですか? 納得できません!」
「その言葉をおまえに対して口にした者が何人もいたのを覚えているか」
「退職を勧告された者たちのことですか。まったく事情が違うじゃありませんか」
修一は気色ばんだが、すぐに冷静さを取り戻した。
目上の者には反抗的だと思われてはならない。反抗的という印象を与えないようにして、なんとか説得しなければ。
「自分のためにやったことではありません。みんなのためにやったことです。それなのに、地獄行きになるのでしょうか?」
対する閻魔大王の答えは意外なものだった。
「死後の世界について誤解があるようだな。極楽か地獄か、二つに一つというわけではないし、賞罰のために行き先が決まるわけでもないぞ」
修一は目をぱちくりした。
「どういうことでしょうか?」
「生まれ変わる前に必要な場所に行くのだ。案内の鬼のあとについてゆくがよい」
状況が飲み込めなかったが、どうやら地獄行きだというわけではなさそうだし、いずれは生まれ変われるのだとわかって、修一はほっとしながら鬼の後についていった。
閻魔大王の法廷を出ると、荒れ地に何本かの道が放射状に分かれて伸びており、案内の鬼はそのうち一本を選んで歩いていく。土の道のような感触だが、足元に薄い靄がかかっていてよく見えない。
鬼のあとについて歩いていくと、まもなく地平線に、どう見てもビル街にしか見えない光景が現れた。極楽にせよ、地獄にせよ、「あの世」のイメージとは違和感がある。
意外に思いながら歩いて行くと、ビル街よりも手前の荒れ地に何か薄茶色の物体が点在しているのが見え始めた。近づくにつれ、それらは段ボール箱を組み合わせてつくられた住居だとわかった。
段ボールの家は通勤途中の河原や公園で見慣れているが、これだけ多くの住居が広い荒れ野に集まっている光景は見たことがない。もしもこれが段ボールではなくテントで、すぐ背後にビル街がなければ、戦災に見舞われた国の難民キャンプか、大地震などの天災のあとかと思うところだ。
近づくにつれて靄はしだいに薄れ、段ボールの家からときおり住人が出入りしているのが見える。荒れ地に何人か集まって座り込んでいる者もいる。
その段ボール箱の点在する荒れ地を通り過ぎると、道路の両側は田畑となった。 田園地帯というほどではない。道路沿いの距離はせいぜい二百メートルぐらいだろうか。ただし、道路の両側に果てしなく延びているから、面積は意外に広いかもしれない。ちらほらと畑仕事をしている人の姿が見えたが、民家らしきものは一軒も見当たらない。
その帯状の畑を通り越すと、くっきりと線を引いたように住宅街となった。
どこか非現実的で、計画的につくられた場所という印象を受ける。現実の郊外では、田畑と住宅が混在しているところがよく見られるが、ここにはそういう区間がまったくないからだ。田畑だけの区域と住宅街のあいだは、くっきり二車線の舗装道路で区切られている。いままで歩いてきた道はその舗装道路と交差しているが、交差点より向こうでは広くなり、やはり二車線の舗装道路となっている。
交差点には信号と横断歩道があり、近づいていくあいだに数台の車が通り過ぎた。そのうちの一台は二トン車ぐらいの大きさのトラックで、あとは乗用車だった。交通量は少ないのだが、鬼は律義に信号が青になるのを待って横断歩道を渡った。修一もそれに倣った。
住宅街には、戸建住宅がまったく見当たらない。街の外周部には木造二階建てのアパートの区画があり、それを通りすぎると、二車線の道路をはさんだ向かい側に五階建てぐらいのマンションの区画となっていて、さらに進むと、やはり二車線の道路を境に、オフィスビルの立ち並ぶ区画となった。
「まずはそこだ」
鬼が指差したビルの看板を見て、修一は目をしばたいた。そこには「ハローワーク」と書かれていたのだ。
「まず、あそこで仕事を決めてもらう」
「仕事? なんのために?」
「なんのために働くかは人それぞれだろうが、さしあたって、ここで暮らすために、衣食住の費用を稼ぐ必要がある」
「衣食住の費用? 死後の世界にそんなものが必要なのか?」
「必要だ」
「すでに死んでいるのなら、食うに困ったからといって、餓死することはないだろう?」
「もちろんだ。だが、餓死しなくても、腹は減る。餓鬼という言葉を聞いたことがあるだろう?」
修一は青くなった。
「食いぶちを稼げなければ餓鬼になるのか?」
「餓鬼とは違う。餓鬼というのは、いくら食べ続けても飢えている亡者のことだからな。ここでは、ものを食べればちゃんと空腹ではなくなる。食べなければ、餓鬼のように果てしなく飢えつづける」
「つまり、生きていれば餓死するだろうというほど飢えても、すでに死んでいるから、餓死することなく飢えつづけるということか」
「そうだ」
それほどの飢えというのは、修一は経験したことがない。せいぜい、残業が長引いたときに夕食が深夜になって腹がすくぐらいだ。しかも、そういうときでも、職場にはたいてい取引先の手土産などの菓子類が残っていて、それをつまみながら仕事をすることが多いので、まったく食べるものがないということはまずない。 だが、内戦中の国や災害時の被災地などの報道とか、太平洋戦争後の食糧難や江戸時代の飢饉を取り上げた歴史番組など、他人事の映像でなら、飢餓の情景を目にしたことはある。それだけに恐い。死ぬより恐いかもしれない。
びびっている修一に鬼が言った。
「職探しは人間界ほどたいへんではないぞ。いちいち履歴書をつくる必要はないし、ましてそれを郵送して返事を待つ必要はない。エントリーシートを入力する必要もない。倍率も高くない。面談即決だから、ぜいたくを言わなければ今日じゅうに決まる。働く意欲があるのに仕事がないという事態は、ここではまず起こらない」
「そりゃ助かるけど、給料日までの生活費はどうすればいいんだ?」
「人間界にだって日給の仕事があるだろう? この街では全員日給制だ。なにしろ、だれがどのくらいの期間ここにいるかわからんのだからな」
少し滅入りかけていた秀一の気分が明るくなった。
「そうか。長くここに住むわけじゃないんだな」
「それは人による。いつ、だれがここを出ていく状態になるかはその者次第だから、われわれにも予測はできん」
そんな会話をしているうちに、ふたりはハローワークに着き、入口を入った。
内部は、修一の知っているハローワークとは違って、入口を入ってすぐのところに階段と受付があった。受付の背後の壁には隣室への出入り口があり、ドアが開いている。
受付にいる職員は三人で、ひとりは鬼の男性、ふたりは人間の女性だった。ひとりは二十代だろうと思われる若い女性で、もうひとりは、明らかに修一よりかなり年上だ。女性ふたりの前にはデスクトップパソコンが置かれている。
「この人の登録票です。よろしくお願いします」
鬼が名刺ぐらいの大きさのカードを差し出すと、若いほうの女性がにこやかに受け取り、慣れた手つきでキーボードに入力したあと、そのカードと「9」と書かれたプラスチックの番号札を修一に差し出した。
「このカードは大切に保管ください。求職も、給料の受け取りも、家賃や買い物などの支払いも、すべてこのカードを使用しますから」
修一は驚いてそのカードをまじまじと見た。確かに、クレジットカードや電子マネーのカードのようにも見える。
「そのカードには、最初の給料を受け取るまでに必要な生活費を考慮して、支度金として五万円が最初に入っている」と、ここまで案内してきた鬼が言った。
「その金がなくなる前に仕事を見つけることだ。そのほか、この街には、人間の社会とは少し違うシステムがいろいろあるから、手引書を渡しておこう」
鬼は、ビジネス手帳ぐらいの大きさの小冊子を修一に手渡した。紺青の表紙に銀色の文字で「この街で暮らすために」と書かれたシンプルなデザインの冊子だった。
「私の仕事はここまでだ」と言って、鬼が帰っていくと、受付の女性は斜め後ろの出入り口を手で示した。
「求人検索用の端末はあちらです。初めてのご利用なので、ご案内します」
案内されて入った隣室で、修一は違和感とともに室内を見回した。
修一は、生前、新卒で入社した会社にずっと勤めていたので、ハローワークで求職した経験はない。ハローワークに行ったのは、従業員の加入や離職手続き、新規採用など、仕事のうえだけなので、求職者用の部屋はちらっとのぞいたことがあるだけだ。
それでも、人間界のハローワークとは似ているようでかなり違うということはわかる。そこは、両側の壁際に三台ずつ、奥の壁際には一台ずつ間隔をあけて三台、計九台の端末が並び、部屋の中央には応接セットが設けられている。応接セットのテーブルにはパンフのような冊子が数冊置かれ、奥の壁には達末と端末の間に窓があり、庭か小さな公園でもあるのか樹木の緑が見える。
「番号札の番号のパソコンをお使いください」
そう言いながら、女性は、「9」と書かれた端末のところに修一を案内した。現実のハローワークと同じくペンタッチで入力するタイプの端末だが、モニターの下にスロットがある。そのスロットに、彼女は先ほどのカードを差し込むよう促した。
「このスロットにこのカードを差し込みますと、あなたの経験と能力で就業可能な求人すべての一覧が表示されます。ここをクリックすると、職種または給料で絞り込み検索することもできます。給料はすべて時給制または日給制で、働いた日の翌日夕方までに振り込まれます」
修一は眉をひそめた。画面に表示された求人のほとんどが、だれにでもできそうな単純作業で、時給千円台とか、八時間労働で日給一万円前後ぐらいの仕事ばかりだったからだ。
修一が勤めていた会社でも、非正規社員はそれぐらいの給料で働いていた。それを安すぎると思ったことはない。それどころか、より仕事の速い者や安く使える者とどしどし入れ替えて、できるだけ人件費を削りたいと考え、それを実行してきた。
だが、正社員の管理職として働いてきた自分が、こんなつまらない仕事をこんな給料で働くのはごめんだ。
修一の不満に気づいたのか、女性は励ますように言った。
「現世に比べて、手取りはいいんですよ。控除されるのは税金だけで、年金保険税も健康保険税も引かれませんから。ここでは年をとらないから年金は必要ありませんし、病気にならないから、健康保険も必要ありません。天引きは一律一割の税金だけです」
「へえ。累進課税じゃないのか? 昇給しても税率が上がらないってのはうれしいねえ」
「というより、累進課税が必要なほど給料の差はありませんから」
修一はいやな予感がして画面をクリックし、仕事一覧をすべて確かめた。画面で三ページ、全部で三十二件しかない求人は、時給制では最高千八百円で、日給制では最高一万五千円。生前の会社では残業代をのぞく月給が約四十万円で、それとは別に七十万円前後のボーナスを年二回もらっていたから、修一は大いに不満だった。
しかも、管理職経験者や人事経験者の募集はひとつもない。人事課の募集は五件あるが、いずれも給料計算が主体。生前いた会社では、おもに非正規社員の女性たちがやっていた仕事だ。修一も、人手不足の折などに臨時でやったことはあるが、自分の仕事として担当したことはない。
しかも給料は安い。時給千二百円が二件と千三百円が一件、日給一万円が一件。給料計算などの仕事をしていた非正規社員の女性たちはそれぐらいの給料で働いており、それを安いと思ったことはないが、キャリアのある自分の給料としては安すぎると感じた。
「なぜ、頭脳労働のほうが肉体労働より給料が安いんだ? 割に合わないぞ」
「では肉体労働の仕事になさいますか? いちばん給料のいい仕事というと……」
女性職員が日給一万五千円の仕事をクリックしようとするのを、修一はあわてて遮った。
「給料で決めるとは言ってないだろ!」
修一の権幕に、女性は驚いて手を止めた。
「自分で考えて決めるから、あっちに行ってくれ」
「わかりました。では、ご希望の仕事の求人票をプリントアウトして、受付までお持ちください。三枚までプリントアウトできます」
女性が立ち去ると、修一は改めて画面に表示された仕事の一覧に目を通した。時給が安くて仕事もおもしろくなさそうな単純作業の仕事は、最初から選ぶつもりはない。 割に合わないと思いながら、やはり人事課の仕事の中から選ぼうと、日給一万二千円の仕事を選んだ。
「では、このビルの隣が不動産屋になっていますから、面接のあとにでも訪問して下さい。お家賃もこのカードから日払いで引き落とされます。その他の買い物もすべてこのカードを使用します」
すべて電子マネーでの決済なのかと感心しながら、修一は、求人票の裏面に描かれた地図の場所へと向かった。
求人票の会社は、徒歩で十分ほどのところにあった。衣料品のメーカーで、七階建ての雑居ビルの三階から五階までが本社。郊外に工場があるということだった。
面接官は、人間ではなくて鬼だった。それは予想通りだが、こんなに読めない相手だとは思っていなかった。いままで何度も採用係を担当してきた経験から、面接官が何を知りたがっているか、相手の質問にどう答えればよい心証を与えることができるか、読めるという自信があったのに、さっぱりつかめない。ただ、人間社会の企業とは、求めているものが違うのかもしれないという印象を受けた。
修一は内心で目まぐるしく考えた。
よく知っている企業の面接のイメージで捉えてしまったが、ここはあの世で、閻魔大王が管轄している場所だ。それなら、一般企業よりも、刑務所の更生施設のようなものだと考えたほうがいいかもしれない。仕事のできる優秀な人間だとアピールするより、まじめな働き者で、自分の短所を改善しようという意識の高い人間だと思わせたほうがいいのかもしれない。
「これまでの職場では利益を追求しなければなりませんでしたから、自社の人間に対していささか厳しすぎたかもしれないと思っています。私自身としては、とにかく会社に尽くしたいという気持ちが強く、一心不乱に働いてきたのですが、それを自社の全員に要求するのは酷であったかもしれません」
面接官は、微笑とも苦笑ともつかぬ笑みを浮かべた。
「なるほど。きみは頭のよい人間のようだ」
皮肉な口調が感じ取れたので、だめだったかと思ったが、面接官はあっさり「採用しましょう」と言った。
「この街に来たばかりということなので、生活を整えるのに一日ぐらいは必要でしょう。出社はあさってからでよろしいですか。それとも、もっと余裕が欲しければ、今日は火曜日ですから、金曜か、または月曜日からでもかまいませんが」
「あさってから出社いたします」と、修一は即答した。
所持金が五万円しかなく、日給制で土曜と日曜が休みの会社に勤めるというのに、金曜か月曜からの勤務では心もとない。なにしろ、住まいもこれから決めるので、どのぐらいの出費が必要なのか、よくわからないのだ。
「この条件でよろしければここに署名を。住所欄は、あさっての出社時にご記入ください」
渡された契約書に目を通してサインすると、修一は会社を出て、教えられた不動産屋に向かった。
不動産屋のたたずまいは、修一のよく知る現実世界の不動産屋に似ていたが、ざっと見たところ従業員のなかに鬼がふたり混ざっているところと、家賃がすべて日額制となっている点や、敷金や礼金のいらないところが現実世界と違う。
修一が住んでいたマンションのように、バスとトイレとキッチンが戸別についているところもあれば、共同のところもあった。また、食事つきのところもあれば、家具付の部屋もあった。
いままでの荷物がすべてなくなったのだから狭くてもよいが、風呂やトイレが共同のところはいやだ。その条件で三つの物件を見て、そのうちのひとつに決めた。五階建ての三階で、ちゃんとエレベーターがある。部屋は、八畳ぐらいのフローリングの居室に対面式キッチンと収納スペースと風呂とトイレがついた間取り。キッチンと向き合ったカウンターテーブルとイス、それに、ベッドと机とイスと本棚が備えつけで、机の上にはパソコンのような端末が置かれている。
一日二千円の家賃と実費の光熱費は毎日深夜に引き落とされ、金額が足りなければ退去勧告を受けると言われて、修一は郊外で見た光景を思い出した。
(なるほど。所持金がなくなるとホームレスになって、あそこで生活することになるのか。なんだかゲームみたいだな)
そう思うと、非現実的な状況ということもあって、なんだかおもしろいような気もしてくる。
本棚には端末のかんたんな取扱説明書もあり、渡されたカードの内容はこの端末でチェックできるとわかった。とりあえずくつろごうかと思ったが、キッチンの冷蔵庫は空だし、日用品も何もないと気づき、食事を兼ねて買い物に出かけた。
周辺は、一階が商店で二階以上がマンションという建物が多く、少し見て回ると、寝具や着替え、日用品などはそろった。三万円近く使ってしまったが、初期費用としてはしかたあるまい。調理道具をそろえるのにまたそれなりの金を使うより、外食ですませようと、目についた店に入った。
こじんまりとした和食系の店で、ひとり客がふたりほどと、人間の女性の店員がひとりいるだけ。厨房はのれんの奥にあって、見えない。一品料理のほか、数種類の定食があったので、焼き魚定食八百円というのを注文した。
鯖の塩焼きと味噌汁、ほうれん草のお浸し、白菜の漬物。満足のいく味だ。店員は少し不愛想だが、夕食としてこの内容でこの値段なら、たびたび利用してもよい。
食事をして帰宅すると、まもなく、先ほど買い物した店から、いまから配達してよいかという電話がかかってきたので、配達してもらった。
こうして、奇妙にリアルなあの世での初日が終わったのだった。
2
あの世での毎日は、地獄というほど過酷ではなく、かといってもちろん極楽などというようなものではなく、奇妙に現実に近かった。
ワンルームマンションに住み、週に五日出勤して働く。そこは生きていたときと同じだ。給料や家賃などは日払い制だが、給料として払い込まれる金額の範囲内で生活するという点も同じ。ただ、ゴールがまったく見えないという点が違う。
死後の世界なのだから、定年も老後もない。ではずっとここに住み続けるのかというと、そういうわけでもなさそうだ。しばらく暮らしているうちに、ときどきいなくなる者がいるらしいという噂も耳にした。
極楽に行くのか、もっと本格的な地獄に行くのか、生まれ変わるのか、それはわからないのだが、とにかくいなくなる。いつか突然この町を出ていくのなら、せっせと貯金しても仕方がない。そもそも、せっせと貯金する目的もない。死後の世界なら、老後の備えも病気の備えも必要ない。強いて言うなら、失業した時の備えぐらいか。
仕事は楽だが、張り合いがない。というか、何を目指せばいいのかよくわからない。現世の企業と違って、利益を目的としているわけではなさそうだから、利益を伸ばせば出世できるというものではないだろう。上司は人間ではないのだから、どうすれば気に入られるのかもわからない。そもそも、いつまでここにいるのかわからないのだから、出世に意味があるとも思えない。
目標が見えないと、どうもやる気が出ない。いまの職場で気力が湧かないだけでなく、先が見えなければ、転職先を探そうという意欲も起こらない。
だらだら働いて二週間ほど経ったころ、とんでもないことが起こった。上司として赴任してきたのが、生前の職場でいびって追い出した部下だったのだ。
修一の目から見て、女性社員はおもに三タイプだ。一つ目は、仕事をそつなく完璧にこなし、人当たりもよく、修一に対しても反抗的な態度をとらない。可愛げがないが、文句をつける理由もない。ミスでもすれば叩いてやりたいという気はあっても、そういう隙を見せないし、管理職たちの評価が高いので、敵に回さないほうがいいというタイプ。二つ目は、修一が人事面でそれなりの発言力があることを意識して、気に入られようとするタイプ。修一が好ましいと思い、贔屓したくなるタイプの女性たちだった。
そして三つめが、この川島洋子のようなタイプだ。修一を嫌い、反抗的な態度をとる。ミスをしたとき注意するとミスが増える。それが、威嚇的にどなりつけたり、三十分以上もねちねち嫌味を言ったりという、自分のパワハラによるストレスが原因かもしれないと、修一は考えたことがない。どなるのも、長時間の小言も、上司なら当然だと思っている。それなのに、その当然の叱責を受けながら、反抗的な視線を向ける。仕事ができないのに反省しないタイプと、修一は評価している。
そんな女が自分の上司になるとは! ここの鬼どもは、どんな基準で、こんな能力の低い女を課長にしたんだ?
内心でむかついたが、顔には出さない。川島洋子は恐くないが、その横には部長がいる。人間ではなく、鬼の部長だ。内心の不満を気取られないほうがいい。
とりあえず、こいつの下で働き、落ち度を見つけてやろうと、修一は思った。能力のない人間なのだから、遠からず何かしくじるだろう。そのときがチャンスだ。生前にも、修一は、そりの合わない上司や先輩を失墜させたことがあった。そのときと同じようにすればいい。今は雌伏の時だ。 そう思って、修一は、屈辱感を抑え、洋子の下で働きはじめた。
洋子の部下として働くのは、毎日が屈辱的で苦痛だった。彼女の仕事をチェックすれば、ミスを見つけられるのにと思うのだが、相手が上司ではその機会がない。それどころか、修一のミスを洋子が見つけて注意してくる。腹が立つので、生前のように威嚇的にどなってやろうかと思っても、同じフロアに部長がいる。
洋子の部下は修一のほかに三人。人間の男性ふたりと鬼の女性ひとり。おそらく男たちは修一と同じく亡者で、鬼の女性はお目付け役だろう。腹立たしいことに、四人のなかでいちばんミスが多いのは修一だった。
ムカムカしながら仕事をしているとミスが増え、洋子に指摘されることが増えていく。何回か、嫌味を言われたこともあった。生前の修一とは違って、洋子は、嫌味に二十分も三十分もかけることはない。一言か二言、辛辣な嫌味を言って顔を背ける。それも数回のことで、そのあとはミスを指摘するだけで、嫌味を言うことはなくなった。
嫌いな人間とできるだけ口を聞きたくない。できる限り避けたい。そう思っているのがわかり、それはそれで腹が立つ。
そんな状態がひと月ほど経ったころ、洋子が修一のミスを一言指摘して立ち去ろうとしたとき、鬼の部長が洋子に声をかけた。
「ミスをしているのに、どうしてもっと厳しく叱らないのかね?」
「意味がないからです。ミスに気づいてやり直すなら、それでかまいません。それ以上の叱責は意味がありません」
「きみは生前、それ以上の叱責というのを彼から受けていた。同じことをしようと思わない理由を聞いてもいいかね」
「わたしは生前、それは意味のないことだと思っていました。仕事の妨害になるとも思っていました。ですから、同じことをしようとは思いません。軽蔑している人間と同じことをするのは、自分を貶めるだけ。生前の自分のためにも、同じことはしません」
「ふむ」と、部長は、何を考えているのかまったく読めない無表情で頷いた。
「きみとは少し話したほうがよさそうだ。ちょっと別室に来てもらえるかな」
「はい」
洋子は当惑げに返事をし、少し不安そうなようすで部長について応接室に入って行った。
どういう状況なのか読めずに、修一はふたりを見送った。
部長はどういうつもりなのか? ひょっとして、洋子が生前の恨みから修一に意趣返しするところを見たかったのだろうか? 鬼なのだから、そういう悪趣味な興味があるのかもしれない。
そう思うと、修一は不安になった。部長は洋子に修一をいびるように要求し、洋子はそれに応じるのではないかと思ったのだ。
気になりながら、どのぐらい経っただろうか。
部長と洋子が応接室から出てくると、洋子はドアの前で部長に向かって一礼し、オフィスから立ち去って行った。部長は修一たちのほうに来ると、宣言した。
「川島課長は退職することとなった」
突然だったので驚いた。応接室でどんなやり取りがあったのか見当がつかないが、よほど部長を怒らせたのだろうか?
洋子に勝ったと思っていいのかどうか判断に迷っていると、部長が席をはずしたとき、同僚の男たちが耳打ちした。
「ここで誰かが辞めるときには、いつもこんな感じなんだ。上司と話したあと速攻で退職。月末までとか、そういう区切り方はしない。本人が辞めたくて辞めたのか、クビになったのか肩たたきされたのかもわからない。といっても、おれが見送ったのは今回で三人目だけどな」
「おれは五人目。全員こんな感じだった。耳にはさんだところでは、この会社のほかの部署でも、ほかの会社でも、同じようなものらしい」
「鬼の意向に添わないことをすると退職させられるとか、そういうのかな?」
修一の問いに、ふたりは首をかしげた。
「わからん。だけど、人間の上司が来るときには、平社員の誰かに関わりのある人間が送り込まれてくる。昔いじめたやつとかがな。今までそうだった。あの課長、あんたの知り合いだったんだろ?」
それなら、鬼たちは、いじめられた人間が自分をいじめた相手に仕返しするところを見たいのだろうか? その要求に応えないとクビになるということなのか?
考えたが、わからなかった。
3
川島洋子は、鬼が運転する車でこれまで住んでいた街を去りながら、これまでのことを思い出していた。
彼女は、生前勤めていた会社で、石井修一にさんざんいじめられた。新卒で就職した零細企業が入社三年で倒産したあと、正社員でなくても規模の大きな会社のほうが、かえって雇用が安定していそうだし、給料もよいと判断して就職した会社だった。
確かにそこそこ規模の大きな中堅企業だったから、非正規社員でも、ボーナスも含めた年収は、平均的な零細企業の正社員よりもたぶん多かった。業績も安定していて、倒産する心配はなさそうだった。
だが、人間関係はすこぶる悪かった。とくに一部の正社員による非正規社員いじめがひどかった。その最たるものが石井修一だった。正社員の人数は非正規社員の三割以下という会社で、正社員は立場が上というエリート意識が強く、まるで管理職であるかのようにいばっていた。とくに人事担当ということもあって、非正規社員に対して生殺与奪の権利があるとでも思っているかのような横暴さで接した。
「性格悪い女を辞めさせて、かわいい子を入れたら、おれにも彼女ができるかもしれん」
そんな暴言を吐いているのも耳にした。
ストレス性の不眠症が続き、ついに胃痛と頭痛と体調不良で起き上がるのも苦しいほどになって休んでいると、病欠の連絡をしており、有休も残っていたにもかかわらず、「無断欠勤による懲戒解雇」の通知が届いた。苦しい中から抗議の電話をすると、「病欠の連絡を受けた覚えはない」「医師の診断書が提出されていないので病気と証明できない」などと突っぱねられた。
一方的に退職させられたために健康保険証が使えなくなり、保険証の切り替えや雇用保険の手続きに行く体力もなく、まして不当解雇とわかっていながら労基署に訴えに行く気力も体力もなく、寝込んだまま衰弱して死んでしまった。
自分が死んだと知ったのは、花畑のようなところで目覚めた後だった。飛鳥時代か奈良時代の貴婦人のような装束を着た女性が教えてくれたのだ。
「そなたは苦しい亡くなり方をしたのだから、しばらくそこで心身の疲れを癒すとよいでしょう」
天女のイメージそのままの女性は、そう言って立ち去った。
ここは極楽らしいと、洋子は思った。
胃痛も頭痛もすっかり治っている。高熱を出して呼吸も苦しかったが、熱は引いたようで、息苦しさも感じない。横たわっている場所は花畑のように見えるが、地面に寝ているような固い感触は感じない。全身を包み込むように柔らかく、かといって腰に負担がかかるほど柔らかすぎない。これ以上ないほど理想のふとんに横たわっているようだ。というより、そもそも自分の体重がなくなって、雲の上に浮かんでいるような感じもする。
最高に快適なところに横たわっているうえ、もはや生活の心配をする必要がない。嫌な思いをしながら働く必要もなければ、次の仕事を探す必要もない。
それなのに洋子は、安らぐことができなかった。職場での嫌な記憶が絶え間なく蘇る。間接的に殺されたのだという悔しさと怒りが後から後から湧いてくる。まるで生前に嫌というほど経験した不眠症の夜のようだ。
極楽にも不眠症があるのだと思いながら、どのぐらい過ごしただろうか。
ここで最初に目覚めたときにいた天女が再び現れ、洋子に告げた。
「どうやら、そなたはここでは安らげないようですね。ではついて来なさい」
言われるままに立ち上がり、天女についていくと、どこをどう歩いたのか、気がつくと閻魔大王の前にいた。
「人間が極楽と呼んでいる場所で安らげなかったようだな。そなたの心の傷というか、心の歪みというか、そういうものが思いのほか大きいようだ」
「心の歪み?」
「そう言われるのは心外なようだな。だが、そなたは、本来なら安らげる場所で安らげなかっただろう?」
「そりゃあ、悔しかったから。いじめ殺されたような死に方をしたから、悔しくて、無念で……」
「ならば、極楽と対極の場所に行くほうがよかろうと思うのだ」
洋子は恐怖で震え上がった。極楽と対極の場所というなら、それは地獄ではないのか?
「無念のうちに死んだら地獄に行くのですか?」
「人間のなかには『地獄』と呼ぶ者もいるが、人間が考える地獄とは少し違うな。人間は、生前に善人だったか悪人だったかを閻魔大王が裁き、善人は極楽に、悪人は地獄に送られると考えているだろう? だが、わしは、善人か悪人かで死者を分けているわけではない。そのまま生前の疲れを癒してから生まれ変われるか、その前に心の歪みを正す必要があるかを判断しているのだ」
そう言って閻魔大王はため息をついた。
「善人か悪人かというなら、殺人のような凶悪犯罪を犯したわけではないが、人を苦しめたり、人の人生を狂わせたり、ときには病気や貧困や自殺といった形で人を死に追いやってしまう者はたくさんいる。そういう者は、往々にして、自分を悪人だと思っていない。というより、人を苦しめたり、死に追いやったりしても気づかない。わしは別にそういう者を悪人として裁くつもりも、処罰するつもりもない。べつに凶悪犯というわけではないからな。だが、心の歪みをそのままにして、無垢で生まれるはずの赤子として生まれ変われば、人の世はどんどん歪んでいく。心の歪みは正さねばならないのだ」
閻魔大王の言っていることは、なんとなくわかるような気がした。閻魔様も大変なのだなと、同情もした。これから送られる「地獄」への不安は残ったが。
天女に代わって鬼に連れていかれたところは、「地獄」のイメージとはかけ離れた場所だった。ビルが建ち並び、車が走り、どう見ても現代的な都市だが、妙に作り物めいている。生活費の出し入れのためにと電子マネーのカードのような物を渡されたときには、思わず笑ってしまった。
「ここに来るおおかたの人には仕事を決めるところから始めてもらうのだが、あなたの場合は、歪みを治すために効果的な仕事をすでに選んでいる」
そう言われて連れて行かれた会社で契約書を見せられ、洋子は驚いた。人事課の課長となっていたからだ。
「課長? いきなり課長? 管理職なんて、わたし、やったことありませんが?」
「問題ない」と、面接官の鬼が即答した。
「わたしが部長で、わたしが指導する。最初にするのは部下の平社員四人が作成した書類のチェックだけで、そんなに難しくはない」
書類のチェックはさんざん経験した仕事だし、状況からいって、選択の余地はなさそうだ。課長というだけあって、給料もいい。
契約書にサインしてから部下たちに紹介され、洋子は愕然とした。四人のうちのひとりが、生前の会社であれほど自分を苦しめた石井修一だったからだ。
あんまりだと、洋子は思った。二度といっしょに働きたくない人物の筆頭が、自分の部下になるのか。そういえば、生前、管理職の中には、部下からの逆パワハラで鬱になった人もいると聞いたことがあった。
実際、洋子が上司になったと初めて知ったらしい修一は、驚きの表情の後、敵愾心に満ちた視線で洋子を睨みつけている。
洋子の心の歪みを治すための職場だと言われたが、これでは生前の苦しみがぶり返して、歪みとやらがひどくなってしまうのではないか?
「川島課長は今日この街に来たばかりなので、新生活の準備があるから、今日は挨拶だけで、仕事は月曜からだ。わたしも自分の席にいるが、指示はすべて課長から出るので、課長の指示に従うように」
部長について退室しながらも、洋子は迷っていた。
この仕事を断ることは可能だろうか? もしも断ったら、仕事が見つかるまでに、渡されたカードの残高がなくなって、外周部の荒れ地で段ボールの家に住むことになってしまうだろうか?
迷っているうちに、ここに案内してきた鬼が再び現れ、洋子を不動産屋に案内した。
ここはやはり、できるだけ家賃の安いアパートを探し、お金を貯めて、転職に備えるのがいいだろうか?
壁に張り出されたいくつかの物件の間取りと家賃を眺めながら、そう思っていると、不動産屋の鬼が言った。
「そういった一般の物件から選んでいただいてもかまいませんが、あなたのようなケースの方用の物件もこちらにございます」
見せてくれた数件の部屋は、いずれも一日千円台の家賃で、玄関がセキュリティロック、単身者用にしては広めの部屋、高級マンションかホテルのような外観、共用のロビーまである破格の物件ばかりだった。
「生前の体験や怒り、そこから解放されてなお安らげない感情の問題、初めて管理職になったとまどい、この街で暮らすうえでの穴場など、ロビーで話し合っておられる方も多いですね。もちろん、ロビーを利用するかどうかはそれぞれの自由ですが」
それは洋子には魅力的な話だった。自分と共通点のある人たちと会い、話し合い、情報交換もできる!
どうやらこの世界では、就職でも住居でも、自分はたいへん優遇されている。不遇のうちに亡くなった人間が、心の安らぎを得るためにこういう厚遇を受けるのだろう。そういう自分と共通する状況にある人たちと会ってみたい。
そう思って、洋子は、職場からほどほどに近くて家賃も安い物件を選んで見に行き、ロビーで話をしていた数人の女性たちと言葉を交わして、即決で決めたのだった。
洋子が住むことになったマンションには、男性の住人もいたが、女性のほうがかなり多いようだった。とくにロビーでよく過ごしている人は、圧倒的に女性が多かった。
おそらく、多くの職場で女性が社会的弱者となっていることと無関係ではなかろうと、洋子は思った。実際、ロビーで会った人たちと話しても、そういう印象を受けた。
じつは、洋子は、職場で不遇だった人のすべてに共感できるわけではない。共感する気も同情する気も起らなかった人は確かにいた。
たとえば、最初に勤めていた会社が倒産して、次の仕事を探していたとき、ハローワークで、前職より安い給料の求人しかないと、職員に向かってどなっていた男性がいた。その男性の喚き散らす声から、自分が実務をするのではなくて指示を出す仕事をしたいこと、安い給料で実務をこなすのは補助職の女性や非正規社員の仕事と思っているのがわかり、内心でむかっとした覚えがある。
その男性に限らず、ネットなどで見かける雑文などから、性別や年齢、勤続年数などから、人に指示を出す仕事をしていて、給料が高く、女性や非正規社員を見下すのが当たり前になっている人には、平等に近いと「侮辱された」「冷遇されている」と感じる人が時々いるようだが、洋子はそういう人に同情する気にはなれない。
幸い、マンションのロビーでよく過ごしている住人には、男女ともにそういうタイプの人はいないようだった。
ロビーでの会話は、洋子にとって、貴重な情報源であると同時に、心の整理をするためにも有益だった。
「これは仕返しのチャンスだと思っている」
そう言ったのは、洋子より少し年下と思われる尚美。同僚と上司が結託してのいじめに悩みながら歩いていて、つい不注意になり、交通事故死したという女性だった。
「わたしをいじめた人たち本人に仕返しすることはできないけれど、あの人たちと同じようないじめを生前にやっていた人たちに、あの人たちにやりたかったような仕返しができる。たぶん、仕返しすることによって、生前から引きずっていた恨みつらみがそのうち解消して、安らげるようになる。わたしたちにとって、ここはそういうところじゃないかしらね」
「わたしも初めはそう考えていたけれど」
反論したのは、洋子と同年代のようにもかなり年上のようにも見える年齢不詳の香織。社員寮に住んでいたので、雇い止めと同時に住居を失い、ネットカフェで寝泊まりしながら仕事とアパートを探しているうちに病死したという女性だ。
「雇い止めに遭ったのは、人事担当者が自分の彼女をわたしの代わりに入れようとしたからだとわかっているからね。そいつはまだ生きているから仕返しできないけど、そいつと同じように、自分の利益のために非正規社員を雇い止めにした人間をふたり、いじめて職場から追い出してやった。で、いま、同じような経歴を持つ部下がふたりいるんだけどね。なんだかいじめるのが空しくなってきちゃった。あんなに毛嫌いしていた人間と、自分が同じことをやっていいのだろうかとね」
ロビーで話した人には、男性にも女性にも、尚美のように考える人もいれば、香織のように感じている人もいた。
洋子は初め、尚美の意見に納得した。生前に受けた仕打ちがトラウマのようになって死後も安らげないのなら、仕返しをすることによってそのトラウマを乗り越えるというのは、妥当なアイデアだと思い、閻魔様も粋なはからいをなさると感心もした。
だが、日が経つにつれて、香織の言ったことがわかるような気がしてきた。
歪みを正すための職場と言われたが、自分の心の歪みとやらは、こんなことをしていてはひどくなっていくのではないだろうか? 自分自身が、自分を苦しめて追いつめた人間と同じようになってしまうのではないだろうか?
そんな思いが日に日に募っていき、ついに洋子は、鬼の部長に「どうしてもっと厳しく叱らないのか」と問われたとき、自分の思いを口にした。
別室に呼ばれ、鬼の部長に告げられた。
「どうやら、あなたはもうここで働く必要がなくなったようだ」
「解雇されるということですか?」
わかってもらえないのだろうかと思いながら、つい口調が険しくなる。
「解雇?」と、部長が首をかしげた。
「わたしがここに必要ないとおっしゃっているのですよね?」
「いや。あなたにとって、ここはもう必要ないだろうと言っているのだが。歪みは正されたようだし」
「え?」
「今でも悪夢や不眠症に悩まされたりするかね?」
そう言われて気がついた。生活に困らない給料をもらい、快適な住居に住み、ロビーで語り合う友だちが何人もでき、ときにはいっしょに遊びに出かけ、余暇を楽しく過ごすうちに、悪夢や不眠に悩むことはほとんどなくなった。職場での自分のありように迷ったり悩んだりはしたが、不眠症になるほどではなかった。
「安眠できるようになっていますね。いつのまにか」
「そうだろう。先ほどのあなたの言葉でも、歪みが正されたのがわかった。仕返しが空しくなり、自分も同じようになりたくないと思うほど、あなたの心は健やかになったのだ。ここは歪みを正すための場所だから、歪みを正された者には、もうここは必要ないのだよ」
部長がそう言うと、かつてここまで送ってきてくれた鬼が現れ、洋子を車で街の外に送ってくれた。
「名残惜しそうに見えるが、まだここで働きたかったのか?」
訝しげに訊ねる鬼に、洋子が答える。
「いいえ。職場ではなく、マンションでできた友人たちにお別れを言いたかったなと。とくに尚美さんとか香織さんとか……。あ、そういえば、香織さんにはしばらく会っていないわ」
「彼女なら、五日ほど前にこの街を去って行ったよ。あなたの場合と同じく、歪みを正せたと認定されたので。行き先が同じだから、向こうでまた会えるのではないかな」 鬼が言った通り、生まれ変わるときまで安らぐための場所に到着すると、香織が手を振って出迎えてくれた。香織だけでなく、三年前に亡くなった祖母、半年ほど前に訃報を受け取った高校時代のクラスメートなど、なつかしい人たちとも再会したのだった……。
4
洋子がいなくなった後しばらくして、代わりに課長として入社したのは、修一の知らない年配の男性だった。同僚の一人が新任の課長を見て顔色を変え、あとで修一たちに教えてくれた。彼の会社では、定年退職でも早期退職の対象でもなく、定年前に自己都合で退職すると、たとえ定年一ヶ月前であっても退職金が定年退職者の半額以下になるという規定があり、定年を間近に控えた人をいびって退職に追い込むと、人件費削減になるというので、上層部の覚えがめでたくなる。それで、彼を含めて何人かでいびって追い出した人物だった。
「ここでは、おれたち平社員の誰かが退職に追い込んだ人物が、順番に課長として就任してくるようなんだ」
それは確かに地獄だと、修一は思った。
ここから抜け出すにはどうすればいいのだろう? 過去を悔いているように見せればいいのだろうか?
それを否定するように、同僚が言う。
「以前に、後悔していますというパフォーマンスをして見せたことがあるんだ。鬼の部長の前で、むかし依願退職させた無能な元部下に、『おれが悪かった』と謝って見せたりしてさ。でも、だめだった。本心から後悔しているわけではないと、鬼にはわかるみたいなんだな」
「でも、永久に出られないというわけでもないぞ」と、別の同僚が言う。
「前にここにいた同僚で、突然辞めて、いなくなったやつがいる。ここに近いマンションに住んでいて、住所を知っていたから訪ねてみたが、引っ越したあとだった。そのあと見かけたことはない。転職したわけではなさそうだし、給料が入っていたのだから、ホームレスになったわけでもないだろう。ほかにも、街の住人で、いつのまにかいなくなったやつが何人もいるようだし」
それは修一も、よく行く飲食店などで噂話として聞いて知っていた。
「いなくなったやつは、どこに行ったんだ?」
「わからない。生まれ変われたのかもしれないけど、違うかもしれない。ここよりひどいところに送られたという可能性もあるのかな」
同僚たちの話に、修一は思案した。いつのまにかいなくなった者たちは、どこに行ったのだろう? ここよりましな世界なのか? それともここより過酷な場所なのか?
そういえば、退職した川島洋子はどこに行ったのか? 仕事で不遇だった者は、この街で管理職に採用されて厚遇されるようだが、鬼に逆らって退職したときはどうなるのだろう? 漠然と、次の仕事がいつまでも見つからずにホームレスになったらいい気味だと思っていたが、ひょっとして、この街を去ったのだろうか?
この街を去った者がここより良い世界に行くのだとすれば、あの真似をすればいいのだろうか? だが、彼女とは立場と状況が違うから、どうやって真似をすればいいのかわからない。そもそも、真似をすれば、ほんとうに良い世界にいけるのかどうかわからない。漠然と考えたように、失業してお金を使い果たし、ホームレスになってしまう可能性も、ここより悪い世界に送られる可能性もあるではないか。
この街を去って、極楽に行けたとか、現世に生まれ変われたという者がいるとすれば、そのノウハウを知りたい。そう思うのだが、さっぱりわからないのだった。
そのころ別室では、視察にまわってきた閻魔大王と、各部署の管理職の鬼たちが話し込んでいた。
「川島洋子は、わりと早くに歪みが正されたな」
閻魔大王の言葉に、彼女の上司だった部長が頷いた。
「同じマンションでできた友人たちからもいい影響を受けたようですね」
「彼女の死の遠因となった男は相変わらずか」
「相変わらずですね。どうも、ビジネス社会で生じる歪みについては、加害者であった者たちのほうが、歪みが取れにくいようです。自分が加害者だという自覚がありませんからね」
「べつに、自分が加害者だという自覚がなくても、動物のように単純な弱肉強食なら、人間たちのような変な歪み方はしないのだがな」
「そうですね。人間たちの歪み方は複雑ですからね。弱者を保護するような仕組みをつくったり、戦争を回避するような仕組みをつくったりと、なかなか感心するような進歩を遂げているのに、どうやって正せばいいのか困るような変な歪み方をしますからね」
「歪み方の主原因に応じて、歪みを正すための場所をいくつも造ってみたのだがね。どうも、この仕事がらみで歪んだ者のための場所に送る亡者が、どんどん増えている気がする。しかも、うまく歪みを脱却できる者もいるが、いつまで経っても歪んだままの者もいれば、歪みがひどくなっていく者もいる。犯罪者というわけではなく、罪悪感を持っていないから、なかなか厄介だ」
「そうですね。現に、石井修一も、自分が職を奪った川島洋子が死亡したとわかっても、どうして死んだのかとか、自分がその原因をつくったのではないかとか、まったく考えませんでしたからね。彼女がここを去ってもっと良い世界に行けたのなら、そのノウハウを知りたいとは思っていますがね」
「そういう方向に歪んでしまっているのだな」
「いじめやパワハラなどの被害者だった人間にも、復讐の機会を得て、復讐に熱中して、自分が憎んでいるはずの相手と同じ方向に歪んでしまう者もいます。困ったものです」
「生まれ変わるときには、無垢な赤子として生まれてもらわねば、人間社会の歪みがますます複雑怪奇な状態になってしまう。それでこういう世界をつくったのだがな。できれば全員、いつかは無垢な赤子として生まれ変わってもらいたいのだがなあ」
そう言って閻魔大王は嘆息したのだった。