1ページ完結の短編ファンタジー小説です。
ユリアはごく幼いころから、夢見がちな子供だった。
言葉を話すようになるとまもなく、たどたどしい言葉で語るのは夢の世界の物語。棒きれで地面に絵を描くことを覚えれば、描くのはたいてい夢の世界の情景。ほかの子供たちのように、家族や草花といった身近なものの絵を描くことはめったになかった。
そんなユリアの嗜好は、ごく幼いうちは両親にも他のおとなたちにも微笑ましく受け入れられたが、成長につれて、困り者と見なされるようになっていった。
彼女の生まれたアリク村では、四つか五つになれば、男の子は父親の仕事、女の子は母親の仕事を手伝いはじめるが、ユリアは手伝いに身が入らない。掃除をしても、糸紡ぎをしても、途中で手が止まり、上の空になってしまうことがよくあった。
八つの誕生日を迎えるころには、一年あまりあとに生まれた妹クララのほうが、母の手伝いをそつなくこなすほどになっていた。
「このままでは先が思いやられるわ」
母親のアンナがため息混じりにこぼした。
「まだ小さいのだから、気に病むことはないさ」
父のヤンはそう言ったものの、内心では一抹の不安を感じていた。
「もう八つよ」と、アンナは言い募る。
「早い子だとそろそろ奉公に出るわ」
何か特別な事情がないかぎり、アリク村の女の子は、行儀見習いと家計の助けを兼ねて、領主の館や町の上流階級の屋敷などに奉公に出る。
八歳はたしかに早いが、とくに理由もなく十一や十二になっても奉公に出ていないとなれば、いささか外聞が悪い。それに、ユリアが少なからず個性的に過ぎることは皆が知っているゆえ、ことさら蔭口の種になってしまうだろう。
できれば二年か三年のうちには、しかるべき屋敷に奉公に出したいのだが、今のままでお屋敷勤めがうまく勤まるとは思えない。気が利かず注意力もないというので、主人や先輩たちに疎まれるだろう。へたをすれば、いじめられるか、暇を出されてしまいかねない。
アンナ自身、少し口下手で自己主張が苦手だったがために、お屋敷勤めで苦労した経験があった。
その程度の欠点であんなに苦労したのだから、この娘にはとても勤まるまい。それで暇を出されてよくない評判が立てば、縁談に響くだろうし、運よく嫁げたとしても、いまのままでは夫やその家族とうまくやっていくのは難しかろう。それを思えば、この困った性質を変えてやるのが娘のためであり、親の勤めではないか。
アンナはそう夫を掻き口説いた。
ヤンは、妻の訴えを無視できないと思いながらも、それほど深刻に思ってはいない。
「そんなことを言っても、じゃあ、どうすればいいというのかね?」
「リアンの町にある魔法使いに預ければ、あの子のように夢見がちな子供を現実に適応できるように変えてくれると聞きましたわ」
「そういう噂は聞いたことがあるが……。ほんとうだろうか?」
「ほんとうですとも。姉に聞いたのです。姉が嫁いだ村にユリアのような子供がいたそうです。九歳の男の子ですけど、魔法使いに半年預けたあと、別人のようによく働くようになったそうですわ」
「別人のようにねえ」
ヤンは眉根を寄せた。
「それはそれで心配な気もするが」
「ほんとに別人になるわけじゃありませんわ」
「そりゃまあそうだろうが」
「あの子のためですわ。あの子がかわいいからこそ、このままではいけないと思うのです」
妻に押し切られて、ヤンも同意した。
翌日、夫妻は、馬車で半日かかるリアンの町にユリアを連れていった。
魔法使いの館を訪れると、出迎えた魔法使いは意外に若い。三十路にさしかかったばかりの自分たちよりもさらに年下に見える外見に、夫妻はつかのま不安を感じたが、相手の落ち着いた物腰に気を取り直した。
なにしろ相手は魔法使い。外見だけで判断はできない。見た目より年を取っているのかもしれないし、たとえほんとうに若かったとしても、魔法使いとして認められるだけの実績を持っているはず。
そこで、ヤンは彼に事情を話した。
魔法使いは黙って聞いていたが、話を聞き終えると、懸念そうに眉を寄せた。
「お話はわかりましたが、ほんとうに後悔なさいませんか」
「もちろんですわ」
夫が答えるより先に、アンナが返事をした。
「どうして後悔などすることがありましょう」
「お嬢さん自身も後悔しないでしょうか」
思いがけない質問に、夫妻はそろってユリアを振り向いた。年端のいかない娘がどんな考えを持っているかなど、考えたことがなかったのだ。
「どうかね、ユリア」
魔法使いがユリアに問いかけた。
「ときおり別の世界に遊んでしまうという君の癖を、わたしはやめさせることができる。だが、それをすれば、その別世界のことを思い出したくても、思い出せなくなる。それでもいいかい?」
ユリアは急に恐ろしくなった。
両親がどういう目的で自分をここに連れて来たのかよくわかっていなかったのだが、いまになって、大切なものが失われようとしているのだと気がついたのだ。
「いや」と、ユリアは返事をした。
「あのきれいな世界のことを思い出せなくなるんでしょ? そんなのいや」
「まあ、この子ってば」
アンナは当惑と怒りで顔を赤くして、魔法使いをふり返った。
「こんな幼い子供にそんな判断ができるわけないじゃないですか」
「いいえ、幼くとも、本人が納得したうえでなければ、やってはならないことです。なぜなら、たとえ世渡りしていくうえで邪魔に見えたとしても、これもまた一種の才能。納得したうえでなければ大きな悔いが生涯残るでしょう」
「才能など」と、ヤンが言った。
「上流階級や芸術家の家系ならともかく、われわれ庶民には無意味でしょう」
「そうですとも」と、母親も同意した。
「そんなもの、持っていることによって背負う苦労のほうがはるかに大きいですわ」
母親は娘のほうを振り向いた。
「おまえだって、いじめられるのはいやでしょ? 今のままお屋敷勤めに出れば、もっともっといじめられるようになるのよ」
ユリアは怯んだ。
村の子供たちのなかには、乱暴な男の子たちも、おとなしい子を自分の子分のように思って指図したがる女の子も、自分と異質な子を排除しようとする意地悪な子も、何人もいる。
そういう子は怖いし、いじめられたり服従を強要されるのはつらい。そんなときにはあの美しい世界がせめてもの救いとなる。
そう思っていたのに、母はあの世界があるからいじめられるのだという。
それまで考えもしなかった発想をつきつけられて、ユリアは混乱していた。
じつのところ、もちろん幼い子供たちのことだから、必ずしも異質な子を排除するという理由によるいじめばかりではない。たんに、年上の子、体格がよくて力の強い子、気が強くて口達者な子などが、自分より弱い子を支配しようとする場合も多い。
だが、アンナはそういう力の論理を気に留めず、娘が気の強い子にいじめられやすいのは夢の世界にひたる性質のゆえだと決めつけていた。娘のそういう性質を気に病むあまり、ほかの可能性は考えられなくなっていたのだ。
娘のほうは、幼いがゆえに、そういった母親の思考の短絡さはわからぬ。漠然とした反感を感じても、反論はできない。
母親の勢いに気圧されるようにして、ユリアは夢の世界を手放すことに同意した。
アンナは喜び、ヤンは一抹の不安を抱きながら、銀貨の入った袋をテーブルの上に置いた。
「お礼はこれで足りますか?」
けっして裕福とはいえない暮らしではこれが精一杯だが、王侯貴族からの依頼も受ける魔法使いにとっては端金だろう。
足りないと言われるのではないかと案じていたのだが、魔法使いの返事は思いもよらないものだった。
「もしもお嬢さんの夢の記憶を完全に手放してもいいのでしたら、料金はかかりませんよ」
思いがけない申し出に、夫妻はつかのま意味を飲み込めなかった。
「あのう、どういうことですか?」
「夢の記憶を買いたがる人はよくいます。他人の夢の記憶を楽しむ人とか、才能を伸ばすために利用したい人などです。そういう人に夢の記憶を売ってもかまわないのであれば、授業料もお預かりする半年間の生活費も必要ありません。それだけでなく、その記憶の価値しだいではいくばくかのお金をお支払いできるかもしれません」
それは、貧しい夫婦には願ってもない話だった。
「本当にそんなことが」
目を輝かせて身を乗り出した夫妻に、魔法使いは念を押した。
「夢の記憶をひとたび売ってしまえば、お嬢さんが成長してからそれを取り戻したいと望んでも、取り戻すことはできません。売れ残っていれば買い戻すことはできますが、何年間も売れ残っているということはめったにありません。それほど貴重なものを手放そうとしているのですから、悔いのないよう、よく考えてからご決定ください」
「悔いなどあるとは思えません」
アンナが答えると、ヤンもうなずいた。
「上流階級の方ならそういう才能も欲しいとお思いになるのでしょうが、わたしら下々の者には邪魔なだけです」
魔法使いはユリアのほうを見た。
「きみもそれでいいかね?」
ユリアはとまどった。
夢の世界を見なくなるとか、思い出せなくなるというだけでも抵抗があるというのに、永久に失われてしまうなんて、恐くてたまらない。
いやだと思ったが、そう言ってもいいのかどうか、自分でもよくわからない。
母の手伝いがうまくできず、いつも叱られているのは事実。気の強い子にいじめられやすいのも事実。それを解消できるというなら解消したいし、母を怒らせたくもない。
それで、ユリアは、心が定まらないまま、母の意思に引きずられるようにして頷いたのだった。
ユリアは魔法使いのもとで半年過ごしてから家に戻った。
じつのところ、夢の世界を忘れるだけなら、半年も必要はない。数日あればこと足りる。だが、それまでとは異なる心のありように慣れ、世の中に適応していく訓練をするためには、それなりの時間が必要だったのだ。
両親はまず娘の帰還を喜び、しばらくともに過ごしたのちに、娘の変化を喜んだ。
ユリアは以前より飲み込みが早く、集中力もついて、母親の家事をよく手伝った。母の指図を聞きながら心あらずということも、糸紡ぎの途中で手が止まってしまっているということもない。
かといって、別人になってしまったわけではない。ちょっとしたしぐさ、食べ物の好み、ふと話題に出る思い出話など、まぎれもなく我が子だと確信できる。おっとりした気質や引っ込み思案なところもほぼ元のまま。それは奉公に出れば不利な性質だろうが、もしもそこまで変わったなら、両親は不安を感じたろう。
娘が生まれつきの気質を残しながら夢の世界に遊ぶ癖だけなくなったことに、両親は満足した。
歳月が流れた。
奉公に出たユリアは、自己主張の不得手なおとなしい気質ゆえの苦労があったものの、暇を出されることもなく、お屋敷勤めを続けながら成長していった。
数年経ったころ、過去の自分を思い出させる少女が、新しい奉公人として雇われた。
エルザという名のその少女は、初めて奉公に出るには遅めの十二歳。奉公先で苦労しそうな娘を案じて、親がぎりぎりまで留め置いたとみえる。
無口で、ひとりでいるのを好み、たまにぼんやりしているように見えることがある。
はたして奉公人たちのなかでも気の強い娘たちが、こぞってエルザの悪口を言ったり、いじめたりしはじめた。
エルザはほとんど口答えをしなかった。だが、自我が薄くて気の弱い娘かというと、そういうわけでもなさそうだった。
どんなにいじめられても、心のなかに逃げ場がある。だれにも侵せない聖域がある。だから仕事のつらさにも他人の悪意にも堪えられるのだ。そのかわり、勝ち気で現実的な人間のほうが適応しやすいお屋敷勤めにはユリア以上に向いておらず、叱られたりいじめられたりしやすい。
そんなエルザを見て、ユリアは、幼い日に夢の世界を捨てなかった自分だと思った。
もしも、幼い日、両親がユリアに夢の世界を捨てさせようと考え、魔法使いのもとに連れていかなければ、おそらくユリアはエルザのようになっただろう。仕事の合間に、あるいは同僚たちとのおしゃべりの合間に夢の世界を訪れ、集中力も協調性もない変な娘と思われて、ひどいいじめにあっただろう。
では、それなら自分よりエルザのほうが不幸なのかというと、ユリアには、そうと言い切ることができない。
夢の世界を捨てたらいじめられないかというと、そんなことはない。ユリアはあまり社交的ではなく、引っ込み思案な性格ゆえに、気の強い娘たちに侮られやすく、お屋敷に上がってからずいぶんいじめられた。しかも、おっとりして口下手なため、口達者な奉公人たちの言葉を真に受けた主人や女中頭には、仕事が遅くて要領が悪いとみなされ、叱られることもよくある。ただ、それがエルザほどではないというだけだ。
つらかったことや悔しい思いをしたことは、ユリアにもずいぶんあったが、エルザのように夢の世界に逃げ込むことはできなかった。逃げ場を求めて夢の世界を思い出したいと願っても、どうしても思い浮かべることができないのだ。思い出せるのは、ただそれがたとえようもなく美しい世界であったことと、自分がそれを捨ててしまったことだけ。
つらさの程度が少なくてすむかわりに、すばらしいものを捨ててしまった。はたしてそれが幸福なのか。エルザより自分のほうが幸福なのか。
ユリアにはわからない。「そうだ」と答える自信も「違う」と答える確信もない。ただ、エルザを羨む気持ちはまぎれもなくあった。
それに対して、お屋敷勤めに完全に適応している勝気で意地悪な娘たちを、ユリアは羨ましいとは思わない。彼女たちのようであれば、たしかに楽だろうし、得でもあろうが、しかし彼女たちのようになりたいとは思わない。エルザがどんなに貴重なものを持っているか、気づきもしない娘たちのようになりたいとは思わない。
そんな思いを抱えたまま、やがてユリアはお屋敷を訪れた若者に見初められ、勤めを退いて結婚した。
ユリアの夫はお屋敷の奥方の遠い親戚。お屋敷の一家ほど裕福ではないが、実家の両親より暮らしにゆとりがあり、夫はやさしかった。四人の子供を授かり、ユリアはおおむね幸せだった。ユリア自身、自分は恵まれていると思っていた。幸せのはずだとも思っていた。
もしも子供のころに夢の世界を捨てていなければ、いまの恵まれた暮らしはなかっただろう。お屋敷勤めでエルザと同じぐらいいじめられ、暇を出されて実家に戻され、いまの夫と出会うことはなかっただろう。そればかりか、どんな連れあいにも出会わず、妹や村人たちに白眼視されながらみじめに暮らしていたかもしれない。
いや、それはみじめだろうか。夢の世界を失っていなければ、それをみじめだとは思わないのではないか。周囲の人間にどう見えていようが、むしろ心豊かに暮らしていたのではないか。
夢の世界を手放してよかったと、どんなに自分自身に言い聞かせても、そんな気持ちを捨てきれない。
そんなユリアが、ある日、はっと気がついた。二歳の誕生日を迎えた末娘がたどたどしく語る言葉から、どうやら彼女が夢の世界を心に抱いているらしいということに。
上の三人の子供たちにはそんなようすはない。八歳の長男も、五歳の長女も、四歳の次男も。ただ末娘のゲルダだけが、現実とは異なる世界のありさまや、そこに住む人間ではない者たちのことを語った。
それに気づいたのは、初めはユリアだけだったが、やがて夫や夫の両親、ユリアの両親などの知るところとなった。
ユリアの両親は、ゲルダを魔法使いのところに連れていくよう、ユリアに勧めた。かつてユリアに夢の世界を捨てさせたのが正しい選択だったと信じて疑っていないだけに、ゲルダも同じようにすべきだと考えたのだ。夫の両親もまた、その考えに賛成だった。
だが、ユリアはなかなかその気になれなかった。ゲルダがごく幼いころはもちろん、ユリア自身が魔法使いのもとを訪れた八歳の誕生日が近づいても、夢の世界を捨てさせる気にはなれなかった。ゲルダが描く夢の世界の情景があまりに美しく、口下手ながらも語る夢の世界の物語がおもしろく、捨てさせるのはあまりにも惜しいと思えたのだ。
自分が捨てたのもこれほど貴重なものだったのだろうか。
いまとなっては知りようがない。それだけに、惜しいものを捨て去ったという哀しみが押し寄せる。
両親の決断を恨むつもりはない。たぶん、恨んではいない。だが、かつて両親が自分に対してしたのと同じことを娘に対してしたくはない。
もしもゲルダがもっと成長してから夢の世界を捨てたいと望むなら、それもよかろう。だが、両親の意思に押し流されてしまうだろう年齢で、おとなの意思を押しつけるのはいやだ。そもそも母親の自分にだって、それがほんとうにゲルダのためなのかどうかわからないのに。
幸い、ゲルダは、ユリアよりも裕福な家庭に生まれ、必ずしも子どものころからお屋敷勤めに出る必要はない。
ゲルダ自身がはっきりと自分の意思で決断できる年齢になるまで、夢の世界を捨てずにすむよう守ってやろう。そうして、もしも成長したとき夢の世界を捨てないことを選ぶなら、味方をしてやろう。それはかつて夢の世界を見ていた自分にしかできないことなのだから。
ユリアはそう決心したのだった。