アルウェンの髪型 その1

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 2003年10月10日更新

 アラゴルンが、のちに妻となるアルウェン姫に最初に出会ったのは、まだエステルという幼名で呼ばれていた十二歳のときだった。
「なによ! おにいさまのバカッ!」
 突然響きわたった若い女性の声に、エステルは驚いた。エルフたちはつねによそよそしいほど落ち着いており、荒げた声など聞いたことがなかったからだ。
 驚いているエステルのほうに、その女性は駆けてきた。
 人間だ、とエステルは思った。肘のあたりまで伸ばした暗褐色の髪はやわらかいウェーブがかかっており、エルフの髪型とは違う。母がふだんは結い上げている髪をたらしたときと似た髪型だ。
 その女性は、エステルよりはだいぶん年上だが、母よりはかなり若い。
 エステルの胸は高鳴った。なにしろ、今までに人間を見たことは、水鏡に映った自分の姿と、母だけなのだ。養父ともいえるエルロンド卿やエルフたちに大切に育てられ、いままでほかに人間がいなくてさびしいと意識したことはなかったが、漠然とした孤独感がずっと心のうちにあった。それが何なのかようやくわかった。ほんとうはずっと人間に会いたかったのだ。
 それで彼女に近寄ろうとしたとき、相手もエステルに気がついた。彼女の表情には、エステルが期待していたような、異境で同族に出会った喜びは浮かばなかったが、興味は引いたようだった。
「子供を見たのはずいぶん久しぶりだわ」
「子供じゃない!」
 エステルがむっとして答えると、女性はほほえんだ。
「ああ、ごめんなさい。あなたはひょっとしてエステル? アラソルンの息子さんね?」
「父を知ってるの? ぼくが赤ん坊のころに亡くなったのに?」
「そりゃあ、わたしはもう二千年以上も生きているもの。あなたのおとうさまにもおじいさまにお会いしたことがあるわ。とはいっても、どちらも二度ほどちょっと会って話しただけだけど」
 エステルは落胆した。人間に会えたと思って喜んでいたのに、エルフの貴婦人だったのだ。思わず泣きだしそうな顔になり、女性は驚いた。
「どうしたの? わたし、なにか悪いこと言った?」
「あ、いえ、失礼しました、奥方さま」
 エルフに対しては敬意をこめて丁重に接するようにと母に言われていたので、言葉遣いを変えると、女性はかえって気を悪くしたようだった。
「なに? どうして急に話し方を変えるの?」
 エステルは困った。人間とまちがえたなどと言ったら、きっと気を悪くしてしまうだろう。
「いや、あの……」
 困っていると、相手はぽんと手を打った。
「あ、ひょっとして、わたしを人間だと思った?」
「いや。あの、えーと……、ごめんなさい」
「あやまらなくていいのよ。わたし、よく人間みたいって言われるから。エルフらしくないって」
 女性はまったく気を悪くしていないようすで陽気に笑うと、エルロンドの娘のアルウェンだと名乗った。
「す、すみません。姫君とは知らずに失礼をしました」
「そういう言い方はやめてちょうだい。でないと、わたしも堅苦しい話し方をしなくちゃならなくなるじゃないの。あなただって王子さまなんだから」
 アルウェンの言い方に、エステルはほっとした。彼もまた、堅苦しいのは苦手だったのだ。
「じゃあ、アルウェン姫」
「『姫』なんてつけないで。ただのアルウェンでいいわ」
 エステルは少しためらった。エルロンド卿の姫君というのもあるが、知り合ったばかりの年上の女性を呼び捨てにしていいものかどうか、よくわからなかったのだ。
 しかし、本人がいいと言っているのだから、いいのだろう。
 そう考えることにして、エステルは「アルウェン」と呼びかけた。
「何をそんなに怒っているの?」
「えっ?」とアルウェンがふしぎそうな顔をした。
「ひどくプリプリしながらこっちに来たでしょ? 『おにいさまのバカ』とか叫んでた」
「ああ、そうだったわ」
 どうやら、話しているうちに、自分が怒っていたことを忘れてしまっていたらしい。思い出したとたんに腹立ちがよみがえったようで、アルウェンの顔はけわしくなった。
 少しびびっているエステルに、アルウェンは、自分が怒っている理由を話しはじめた。


  

「髪型を変えろって言うのよ」
 アルウェンが腹立たしげに言った。
「わたしはこの髪型を気にいっているのに、ダメだっていうの」
「どうして?」
「エルフらしくないからだって。もう子供じゃないんだから、みんなと同じような髪型にしろっていうの」
 いわれてみれば、たしかに、エルフたちはほとんどみんな、まっすぐな髪かそれに近い髪をしていて、前髪はすべて後ろにやって額を見せ、両サイドの髪を細い三つ編みにして後ろにまわしている。女性には前髪を眉のあたりで切りそろえている者もいたが、アルウェンのような髪型のエルフは見たことがない。
 アルウェンはウェーブのかかった髪をしていて、長めの前髪は左右に分けられて波打ち、どちらかというとエステルの母の髪型に似ている。最初にアルウェンを見たときに人間だと思ったのも、たぶん、この髪型のせいだろう。
「わたしはあんな髪型にするのはいや。少なくとも髪型に関しては、わたし、人間のほうがセンスがいいと思うわ」
 エステルは目をぱちくりした。美しくて不老不死のエルフたちを、人間よりすぐれた人々だとずっと思いこんでいたので、アルウェンの言葉に驚いたのだ。
 同時に、わくわくするほど快く感じた。エルフたちを尊敬していたし、愛してもいたが、同時に劣等感も抱いていたので、人間のほうがすぐれていることもあるのかもしれないと思うと、心地よかったのだ。それが髪型のセンスなどというささいなことだとしても。
 ただ、エステルには、エルフの髪型がどうして「センスが悪い」のか、わからなった。
 エルフたちはじゅうぶん美しくて魅力的なのに、アルウェンは何がそんなに不満なのか?
 その素朴な疑問を、エステルは口に出した。
「エルフの髪型って、べつにセンスが悪かったりしないと思うけど?」
「そう思うの? あなた、人間のわりにセンスないのね」
 エステルは少し傷つき、口をとがらせた。
「だって、みんなきれいじゃないか。あなたのおにいさんたちもきれいだし。このあいだ遊びにきていたレゴラスって闇の森のエルフは、もっときれいだった。あの髪型のどこが気に入らないのさ」
「そりゃあ、おにいさまたちはまだ若いし、レゴラスはもっと若いもの」
 エステルはとまどった。
「若いって……。エルフは年をとらないだろう?」
「とらないわよ。でもね、髪を後ろにやって、その重みがはえぎわにかかりつづけるとね、はえぎわが後退していくのよ。たとえ、年をとらなくてもね。おとうさまは、かなり後退しているでしょ?」
「……もとから額が広いのかと思っていた」
「違うわよ。わたしがずっと小さな子供のころは、おとうさまのはえぎわは、おにいさまたちと同じあたりにあったわ。人間の男性は、年をとるとそうなる人がよくいるらしいけど、エルフは不老不死だからこそ、そうなるの。いくら顔は若くてもね、何百年も何千年もはえぎわに髪の重みがかかりつづけたら、はえぎわは後退してしまうのよ。わたしはいやよ、そんなの」
「じゃあ、まっすぐに切りそろえれば? そういうエルフの貴婦人は何人もいるでしょ?」
「あれはいや。わたしには似合わないと思うの。髪を後ろに全部やってしまうのも、似合わないと思うけどね。それに、髪をまっすぐにするのもいやだし」
「どうして?」
「似合わないからよ。それに、髪をまっすぐにするには、熱い蒸気を何度もあてなくちゃいけないの。いやなのよ、それ」
「ふーん、それはたいへんそうだね」
「でしょ? なのに、おにいさまたちったら、人間と同じ髪型のままでいいのは、人間と結婚して、人の定めを受け入れたエルフだけだって……」
 言いかけて、アルウェンはポンと手を打った。
「そうよ。この手があったんだわ。エステル、あなたさえ協力してくれたら、わたしは髪型を変えなくてもいいんだわ。わたしを助けてちょうだい」
「いいよ」と、エステルはよく考えずに安請け合いした。
「じゃあ、いっしょに来て」
 アルウェンに手を引っ張られて、エステルはよくわからないままついていったのだった。


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