暗い近未来人の日記−営業所・その4 |
日記形式の近未来小説です。主人公は社会人一年生。
あくまでフィクションですから誤解のないように。
なお、ここに書かれた内容は、実在の政府や団体や個人とはいっさい関係ありません。
2022年1月14 日UP |
2093年9月5日
今日は月締めの最終締め切りだ。なのに、河野さんは、きのうのいじめの続きで銀行に行かなくてはならない。きのう四万円引き出してくることができれば、今日は行かなくてもよかったのだが、羽島さんは二日に分けて受け取るのでなければいやだと主張し、本来ならそれをなだめる立場のはずの和谷さんが羽島さんに同調し、二日続けて銀行に行けと主張したのだ。
やむなくそれに対応するため、河野さんはきのう遅くまで残業し、今日は早朝出勤したらしい。
「羽島さん、今日A社に行くんだろ? 通り道なんだから、河野さんを銀行まで送って行けば?」
高山さんが言うと、羽島さんは激高した。
「なんで河野さんなんて、送って行ってあげなきゃいけないんですか? 忙しいのに!」
河野さんが銀行に行くのは、羽島さんに渡すお金を出しに行くためなんだけど。どういう神経してるんだろ? というか、そもそも羽島さんの目的は、河野さんの仕事を邪魔して遅らせることなんだよな、たぶん。
河野さんもそれがわかっているので、肩をすくめてため息をつき、銀行に出かけていった。
「なに、あの態度! 腹立つわ、あのくそばばあ」
羽島さんが、部屋を出ていく河野さんの背中に向かってわめき散らす。
「どうも、協調性がないね、河野さんは」
羽島さんの機嫌を取るように所長が同調した。この所長もかなり変な人だと思う。
羽島さんたちの嫌がらせは、河野さんが帰ってきたあとも続いた。
月締めの締め切り時間はいちおう午後四時なのだけど、どの部署も午後四時までに終わらせるというのはなかなか難しく、一時間以上過ぎてしまう部署も多い。というのは、庶務課にいたときに聞いた話なので、わたしも知っている。ましてこの営業所のように、妨害して仕事を遅らせようとする人が何人もいればなおさらだろう。
その妨害者当人の羽島さんが、二時過ぎに外回りから帰ってきたとたん、変なことを言い出したのだ。
「今月はちゃんと間に合うんでしょうね? うちの営業所、ちゃんと四時までに締められたことないじゃないの。締め切りが四時までだと思うから間に合わないんでしょ? うちは締め切り三時にすればいいのよ」
遠藤さんがすかさずそれに同調する。
「あ、それ、いい考え。今月の締め切りは三時にしましょう。ね、所長」
遠藤さんの担当している仕事は少なく、しかもほとんどは昨日が締め切りなので、今日は暇を持て余している。ふつうの人なら、忙しい人の手助けをしようと考えるところだろうが、遠藤さんにはそういう気はさらさらなく、それどころか忙しい河野さんを邪魔することに、自分のあまった時間を使おうとする。
この営業所にはそういう人が何人もいる。あきれたことに、トップの所長も同類だ。
「うん、それはいい考えだ。今日の締め切りは三時だぞ。三時に必ず終わらせろよ。わかったな」
この所長、トップの資格ないな。新人のわたしでもそう思う。
「返事ぐらいしたら、どうなんだ!」
無言で仕事を続けている河野さんに、所長はヒステリックな声を張り上げた。
「俺は出かけるからな。三時までに終わらせておけよ! わかったな!」
そう言って所長が出かけていくので驚いた。月締め業務って、その部署のトップが最終確認して、承認することになっているはずだけど?
驚いていると、千川さんが小声で言った。
「ああ、うちの所長は、月締めの時いつも出かけるのよ。月締めに何か問題あったとき責任とらなくていいようにね」
千川さんは、いじめグループの一員という感じでちょっと苦手なのだけど、所長のこういう点には批判的なようだ。
で、所長が出かけると、羽島さんと遠藤さんがさっそくわめき出した。
「ちょっと! 三時よ、三時! あと一時間もないわよ!」
「河野さんって、仕事遅いのよねえ。いっつも月締めおくれるんだからぁ」
千川さんは、それを止めようとはしないけど、積極的に参加しようともしない。千川さんの担当の仕事もきのうで終わっているのだけど、あとの整理がたいへんみたいで、黙々と仕事をしている。
河野さんも、不快そうに眉をしかめただけで、無言で仕事をしている。羽島さんや遠藤さんにかまっている余裕はないのだ。
で、三時過ぎごろになって、請求書が一通足りないというので大騒ぎになった。事務所あての様々な請求書は、ネット回線で送ってくる会社もあれば、いまだに書類で郵送してくる会社もある。そういう郵送の請求書が一通、送られてくるはずなのにまだ届いていないというのがあって、河野さんが問い合わせたところ、一日に発送したという返事が返ってきたのだ。
「そのなかに埋まってるんじゃないの? 探してあげる!」
遠藤さんが、言うのとほとんど同時に、河野さんが処理して順番通りに重ねてあった請求書の山を崩しにかかった。
「やめて! せっかく順番通りにしてあるのに!」
河野さんが叫んでも、遠藤さんは手を止めない。
「何よ! 手伝ってあげてるんじゃないの!」
言いながら、未処理の請求書を手に取り、処理済みの山と混ぜてしまう。たぶん、本気で手伝うつもりではないと思う。邪魔をしたいのだろう。
「河野さん、そこは遠藤さんが探してくれているんだから、机の引き出しを探したらどうだ?」
そう言いだしたのは係長の山木さん。この営業所所属の正社員は所長と山木さんのふたりだけなので、実質的に副所長のような立場にある。正式に副所長というポストはないのだけど。和谷さんとは同期だそうで、まだ若いのだけど、和谷さんと同じく正社員だというエリート意識が強く、威張っている。遠藤さんや羽島さんと仲がいいというところも和谷さんと似ている。
「机の引き出しにそういうものは入れていません。ここからの請求書は山木さんあてにいつも送られてきますけど、今月、山木さんから受け取っていませんよ?」
「なんだと! 人のせいにするな! てめえの整理の仕方が悪いんだろうがよ! 引き出しを探せっつってるんだから、探せよ!」
逆らうと殴りかかりそうな勢いで、恐い。
やまなく河野さんは、机の引き出しを開け、あるはずのない書類を探し始めた。
三十分ほどして、山木さんが「あっ」と叫んだ。
「ごめん。俺の引き出しにあった。あはは」
笑いながら、山木さんが河野さんに書類を渡す。
この騒動に、遠藤さんが書類をぐちゃぐちゃにしたのも重なって、月締めが終わったのは五時過ぎだった。わたしは四時までの契約だけど、月締めの日は締めが終わるまで帰らないようにと入社したときから言われており、月締めの日はたいてい残業になる。なので、今日も、締めが終わった時間、まだ会社にいた。
帰ろうと思ったとき、和谷さんがやってきた。和谷さんは、正式にはK営業所の所属なので、K営業所の月締めが終わってからこちらに来たようだ。
「なんだ、なんだ。やっといま終わったところか。K営業所は四時前にちゃんと終わったぞ」
和谷さんがうれしそうに言うと、山木さんが相槌を打つ。
「そうなんだよなあ。おい、河野さん、ちょっと来い!」
河野さんがけげんそうに山木さんのほうに行く。
「おまえは何年この仕事をしてるんだ? 言ってみろ!」
「は? 五年ですけど?」
「『は?』じゃねえだろ! 五年も同じ仕事をしていて、どうして時間通りに終われないんだ?」
これには驚いた。今日の月締めが遅れたのは、どう考えても山木さんのせいだと思うけど。その当人が何言い出すんだ?
「なぜだ? 言ってみろ!」
「なぜって、山木さんが請求書を」
河野さんが言いかけたのを、山木さんがすさまじい怒声で遮った。
「人のせいにするなーーーー!」
って、人のせいにしているのは山木さんだけど。というか、山木さんは人のせいにしたいのかな? 自分のミスはなかったことにして、締め業務が遅れたのは河野さんのせいということにしたいのかな?
そう思っていると、遠藤さんがエキセントリックな声を張り上げた。
「河野さんって、いつも人のせいにするのよねえ。いつも締め切り遅らせてるのにー。先月も。先々月も」
「え? 何言ってるの?」
河野さんが驚いた表情で遠藤さんを振り向いた。
「先月はあなたが……」
河野さんが言いかけるのを、遠藤さんのけたたましい声が遮った。
「え、今度はわたし? 先月の締めが遅れたのはわたしのせい? ねえ、聞いた? わたしが悪いの?」
遠藤さんが芝居がかったしぐさで山木さんと和谷さんを見まわし、ふたりが我が意を得たりという表情で同調する。
「まったく! 仕事は遅いわ、ミスは多いわで、そのうえそれを人のせいにするとはねえ」
「あんた、ほんとにいいとこなしだな。おい! なんだ、そのうんざりしたような顔は!」
今月の締めの遅れがおもに山木さんのミスのせいだということは、遠藤さんは知っている。にもかかわらず、遠藤さんの合意によって山木さんのミスはなかったことになり、締めの遅れは河野さんひとりのせいということになったのだ。
たぶん先月は、遠藤さんのミスで締め業務が遅れたのだろう。山木さんも和谷さんも、それを知っているんじゃないだろうか。知っていたうえで遠藤さんのミスはなかったことになり、河野さんのミスということになったのだろう。
恐ろしい部署だ。こんなところに正式配属になったらいやだな。