デューク王子が赤子を抱いて城を出奔してまもなく、エーベリンは夫によって一室に監禁された。つき従うのは、母国からともなってきた侍女ふたり。不穏な空気のなか、エーベリンの腕に抱きかかえられた赤子は泣き声ひとつ立てぬ。それもそのはず、赤子はそれらしくくるまれた枕にすぎなかったのだが、王太子もその従者たちも、侍女たちですら偽者とは気づかなかった。
「平和のための使者というのがそなたの口癖だったな」
あざけるように、王太子が言った。
「ならば、侵攻してきたそなたの母国の軍に、平和を破った恨み言を言うがよいぞ。そなたを軍の先頭に押し立てようほどに」
敵軍の先頭に自国の王女がいれば、ロニ王国軍は戦意をそがれよう。ロニの国王はすでに妹を見殺しにするつもりでいようが、兵士たちはとまどうに違いない。それが王太子のもくろみだった。
王太子が出陣準備のために去ったあと、侍女たちのひとりがエーベリンにたずねた。
「どうなさるおつもりですか、姫さま?」
「どうもこうも、わたしは平和の使者。その誇りをもって、両軍に最後の説得を試みるだけです」
「それはわが軍の士気を下げるだけでしょう」
侍女のいう「わが軍」とは、いうまでもなくこのファロカ王国ではなく、母国のロニ王国のことである。
「それよりも、どうかご自害なさって、王女としての誇りをまっとうされますよう」
「それではわたしの使命をはたせません。最後まで使命をはたすことこそが、外交官としての役目を担って嫁いできたわたしの誇り。そなたたちまでが、とうとうそれを理解してくれなかったのですか」
エーベリンがそういったとたん、侍女ふたりは目配せを交わし、ひとりが偽の赤子をたたき落として、いまひとりが手にした短剣を主君の胸に突き立てた。
いまわの際にエーベリンの心に浮かんだのは、わが子をデューク王子に託したのは正解だったという思いだった。その前に、侍女たちのどちらかに王子を託して逃がすことも考えたのだが、この侍女たちがファロカ王の血を引く王子を生かしておくはずがないと思い、実行に移さなかった。その判断は正しかった。自分をすら殺す侍女たちが息子を生かしておくはずがない。
エーベリンは床に倒れてこときれ、侍女たちは愕然とその亡骸と枕を見下ろした。
ふたりは、エーベリンが嫁ぐ日にその供として選ばれたとき、先王と現王にひとつの使命を託された。もしもエーベリンの存命中に両国の戦端が開かれ、彼女が人質としてロニ王国軍の不利になりそうなら、その命を奪うようにという密命である。
彼女たちには、その命令に背くことなど考えられもせぬ。ものごころついたときから王の命令は絶対だと教えられ、ファロカ王国への敵意を植えつけられて育ったのだ。
それでも、両国の和睦が成り、エーベリンの侍女としてファロカにきたからには、両国の和平が長づきすることを願い、エーベリンの使命を支えるつもりはしていたが、戦端が開かれたとなれば別。彼女たちの価値観からすれば、生きておめおめと敵の人質になるなど恥辱以外のなにものでもない。おとなしく人質になったところで、殺されることに代わりがないとなればなおさらだ。
そんな彼女たちには、エーベリンが主張する誇りは理解できない。というより、それは平和が保たれているあいだのみ通用するもので、戦端が開かれたいま、自分たちの女主人の役割は終わったのだと理解している。
しかも、彼女たちはそれぞれ母国に身内がいる。年上のほうの侍女には騎士見習いとなった息子と王宮で侍女見習いをしている娘がおり、年下の侍女には母親とふたりの妹がいる。命令に背いたりすれば、その身内たちがどうなることか。
主人として仕えている自国の王女を殺すことに、ためらいも抵抗もあれば、深い嘆きもあったが、侍女たちには迷う余地はなかった。それで、かねてからの命令を実行したのだが、王子が枕に化けてしまったのはどういうことか。
不審に思ったが、彼女たちにはそれについて頭を悩ませている時間はない。
侍女たちは泣きながらエーベリンの亡骸を寝台に横たえ、潔く自害したと見えるように、その手に短剣をにぎらせた。そして、自分たちも、先ほど主君を刺殺したときにできた血だまりのなかで、刺し違えて命を断った。
妃と侍女たちの死を知ったファロカ王国の王太子は、侍女たちがロニ王国の間諜で、妃を殺害したと公表した。自軍の戦意を高揚させるための方便だが、じつのところ、それは事実だった。
とはいえ、王太子にとっては、妻が自害したのか殺害されたのかは、どうでもいいことだった。肝要なのは、それによって自軍の士気を鼓舞できるかどうかだ。
王太子の発表を、ファロカ王国の多くの騎士や兵士たちは信じたし、国民もまたそれを信じた。王家との接触も多い上級の貴族たちはともかく、王家を雲上人と仰ぎ見る下々の者には、王太子夫妻の不仲など知るよしもない。
上級貴族や侍女などの宮廷人たちには、王太子妃は夫たる王太子に殺されたのではないかと疑った者もいたが、むろん、そのようなことを口には出さぬ。
ファロカ王国では、王太子妃を殺したロニ王国への怒りの声があがり、軍の騎士や兵士たちは、王と王太子の前で復讐を誓ったのだった。
怒りと復讐を求める声は、ロニ王国でも起こっていた。ロニ王国の王は、妹の死を知ると、妹はファロカ王と王太子に殺されたのだと発表し、騎士や兵士たちも国民もそれを信じたからである。
ファロカ王国軍は、エーベリン妃の仇討ちを叫びながら戦った。ロニ王国軍は、エーベリン王女の仇討ちを叫びながら戦った。どちらの軍の兵たちも、自分たちの王が彼女にどれほど非情だったかを知るよしもなかった。いや、知っていたところで同じだったやもしれぬ。軍勢が真に欲していたのは、非業の死を遂げたひとりの女性の追悼ではなく、戦いの理由であったゆえ。
そして両国の戦いは、ときおり和睦による小休止をはさみながら、長くつづくことになったのだった。
甥を連れてファロカの王城を脱出したデューク王子はというと、国境を越えて荒野へと乗り出した。ファロカ王国内にもロニ王国内にもふたりの安全な場所はなかったので、無人の荒野に足を踏み入れるしかなかったのだ。
武人としての訓練を積んでいたとはいえ、デューク王子は王宮でぬくぬくと育った身ゆえ、荒野を旅するなど慣れてはおらぬ。精魂尽き果てそうになりながら、それでもたずさえた乳や水は甥に優先して与え、みずからは渇きに苦しみながら歩きつづけたのは、高潔なおこないといってもよかろう。
荒野を横切り、グラン王国の辺境の村までたどり着いたところで、デューク王子は力尽きて倒れ、村人の手厚い看護を受けた。
荒野を渡ってきた貴人らしき人の報は村の領主にも伝えられ、領主みずからデューク王子を見舞った。
「荒野の向こうでは、ファロカ王国とロニ王国の戦いが再燃したと聞く」
領主が口を開いた。辺境の地を守る領主ゆえ、荒野をはさんで隣接するファロカ王国の情勢はつねに探っており、戦い勃発の報は密偵から受け取ったばかりだったのだ。
「ファロカ王国では、第二王子が行方知れずになったそうな。まさかと思うが、貴公がその第二王子なのか?」
デューク王子は無言だった。名乗ったものかどうか迷ったのだが、何も言わぬことそのものが肯定の答えを返していた。
領主はそれを追求せず、言葉をつづけた。
「エーベリン妃が殺されたそうだな。ファロカ王国はロニ王国に殺されたと言い、ロニ王国はファロカ王国に殺されたと言っている」
「どちらの国も呪われろ」
絞り出すような声で、デューク王子ははじめて口を開いた。
「ふたつの国でよってたかって、両国の平和のために尽くした人を殺したのだ」
領主は興味深そうに寝台の上のデューク王子を見下ろした。
「そなたが何者であれ、それほど故国を嫌っているのであれば、帰りたくはなかろう。わが国の騎士とならないか」
「素性も知れぬ者を騎士に取り立ててもよいのか?」
「かまわぬ。そなたの身なりやしゃべりようを見れば、どう見ても王族か騎士の子弟。それに、あの荒野を赤子を守ってひとりで旅してきた者なれば、召し抱えるに異存はない」
デューク王子はその申し出を受け、素性を隠して名を偽ったまま、騎士となった。赤子にも、兄の王太子がつけた名を隠し、エランドという名を新たに与えて、自分の子として育てることにした。
数年後、デューク王子が妻を娶らぬまま病で没すると、エランドは領主の養子となり、長じてグラン王国の騎士となった。
エランドが二十歳のとき、グラン王国は戦つづきのロニ王国とファロカ王国に侵攻し、これを征服した。エランドもそれに従軍し、ファロカ王国の王を斃して手柄を立てた。斃した相手は王位についた実父だったが、それはエランドにはつゆ知らぬことだった。
ロニ王国とファロカ王国の王族はことごとく処刑され、グラン王国の領土となった。もはや、二つの王国がこの地で戦うことはない。かつてのエーベリン妃の願いはかなえられた。
はたしてそれが、ふたつの王国の和平のために力を尽くした王妃の真の願いであったろうか? それとも、これこそがすべての誠意を裏切られた彼女の真の願いだったろうか?
それは、だれにもわからぬことである。
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