昔コミケなどで頒布した創作神話(架空の神話)です。頒布し終わってからかなり経ったので全文掲載します。
今はもう忘れ去られた民について
かつて、神々が地上を頻繁に歩んでいた時代、オリエントのどこかに住まう民族がいた。何という名の民であったか、記録は残されていない。彼らは、自分たちをも他の民をも等しく「人」と呼んでいた。おそらく、彼らは、自分たちを他の民族と区別して考えるということがなく、ゆえに自らを指す民族名を持たなかったのだろう。
長いときが過ぎるあいだに、彼らはいつしか歴史のはざまに消え、忘れ去られていった。ごくまれに、かの民族のことを覚えている人々は、彼らを《今はもう忘れ去られた民》という呼び名で語っている。ゆえに、彼らを仮にこの名で呼ぶことにしよう。
《今はもう忘れ去られた民》のことを、歴史の本や教科書などで読まれた方は、おそらくいないだろう。
彼らは、歴史の上に何の足跡も残さなかった。いかなる民と戦をすることもなく、いかなる民の運命をも左右することはなく、歴史時代の幕が開くまえに、散り散りになって消え去っていったからである。
そのかわり、彼らは独特の神話を残した。《今はもう忘れ去られた民》自体が、その名の通り忘れ去られても、彼らの神話は、さまざまな民族の語り部たちの口を介して、後世に伝えられたのである。その中から、星の神々と風の神々に関するおもな話をここに紹介する。
第1話 創世神話
原初の昔、宇宙は巨大な卵だった。あるとき、卵がかえり、砕け散った殻の破片が宇宙にちらばった。そんな破片の一つから、太陽の神が生まれた。
ずいぶん長いあいだ、太陽の神はただひとり虚空の中に浮かんでいた。太陽の神は孤独だった。そこで、かつて宇宙卵の殻であった破片を集めて、仲間の神々を創った。水星の女神、金星の女神、大地の女神、火星の女神、知星の女神、木星の神、土星の神、天星の神、海星の神であった。 仲間の神々がそばにいるようになって、しばしのあいだ、太陽の神は満足した。だが、すぐに物足りなくなった。
「わたしには仲間がいるが、妻がおらぬ。もし、わが傍らに妻がおれば、わたしの孤独は完全に癒されるにちがいない」
そこで太陽の神は、もっともそば近くにいた水星の女神に求婚した。
「やさしくたおやかな水星の女神よ。どうかわたしの妻になっておくれ」
だが、星の神々のなかでもっとも小柄で気弱な水星の女神は、力強い太陽の神を畏れ、妻となるのをためらって、賢い知星の女神に相談した。
「知星の女神よ、困ったことになりました。太陽の神がわたしを妻にと望むのです。けれど、わたしはあの方が恐ろしい。どう言って断わればいいものでしょうか」
「水星の女神よ、こう言いなさい。われらも太陽の神も同じ卵の殻より生まれしもの。太陽の神はいわば兄。兄と妹は結婚できぬと」
知星の女神に教えられたとおりの言いわけをして、水星の女神は太陽の神の求婚を断わった。
がっかりした太陽の神は、今度は金星の女神に求婚した。
「麗しくあでやかな金星の女神よ。どうかわたしの妻になっておくれ」
女神たちのなかでもっとも美しく浮気な金星の女神は、ただひとりの神を夫と定めることに気が進まなかった。かといって、正直にそう断わるのも恐ろしく、知星の女神に相談して、水星の女神とまったく同じ言いわけをした。
「太陽の神よ。あなたとわたしは同じ卵の殻から生まれました。あなたはわたしのお兄さま。兄と妹は結婚できませぬ」
それからも太陽の神は、大地の女神、火星の女神、知星の女神と、次々に求婚した。だが、いずれの女神も、兄と妹であることを理由に求婚を拒絶した。大地の女神は自立心の強きがゆえ、火星の女神は猛々しき気性のゆえ、知星の女神は賢明なるがゆえに、ひとりの男神の妻となることを望まなかったのである。
太陽の神の落胆ぶりを見て、知星の女神は気の毒に思い、助言した。
「わが兄たる太陽の神よ。虚無から女神をお創りなさいませ。それならあなたの妹ではありませぬ。虚無から生まれた女神は熱と光に焦がれ、あなたを愛することでしょう」
そこで太陽の神は、虚無から女神を創った。大気の女神であった。
知星の女神の予言どおり、大気の女神は太陽の神に惹かれ、焦がれた。だが、虚無から生まれた女神にとって、太陽の神はあまりにまぶしく熱すぎた。太陽の神に近づこうとすると、まばゆさに目がくらみ、体が燃えつきそうだった。
太陽の神に惹かれながらも同時に畏れ、大気の女神は愛しい夫の神を避けた。それを見て、木星の神や海星の神は、大気の女神が太陽の神を嫌っていると思い、求愛した。
「太陽の神が恐ろしいなら、わたしの妻にならないか」
「わたしなら、太陽の神ほど熱くはなく、まぶしくもないぞ」
木星の神と海星の神のようにはっきり口には出さずとも、土星の神、天星の神も、一抹の期待のこもった目で、消え入りそうにはかなげな大気の女神の姿を追った。
男の神々、ことに豪放な木星の神の求愛は、日ごとに露骨になり、大気の女神は恐れおののいた。かといって、太陽の神のもとに逃げこむことはできなかった。それができるぐらいなら、最初から太陽の神を避けはしない。
困りはてた大気の女神をかばったのは、大地の女神であった。
「大気の女神よ。わたしのそばにいらっしゃいな。いかに木星の神といえども、わたしの友に手出しはできませぬ」
何者にも動かしがたい強さと自立心を持つ大地の女神と、しとやかな大気の女神。ふたりの女神は気が合い、どんな姉妹も友もかなわぬほど親しくなった。そうして大地と大気は、その後つねにそばを離れず、ともにあるようになったのだった。
第2話 生き物と風の誕生
大地の女神と大気の女神は仲のよい友人だった。大地の女神には、ずっと前から考えていた計画があり、ある日、それを大気の女神に打ち明けた。
「わたしは生き物を創りたい。大地を飾る木や草や花を。大地の上を走る獣を。大地の上を飛ぷ鳥を。そして大地を愛し、大地を讃える詩を作り、わたしを崇める人間を」
「なんてすばらしい計画でしょう。わたしにも手伝わせて下さいな」
ふたりの女神は生き物の創造に夢中になった。まず最初に創ったのは、大地を飾る草と花と木々だった。草は申しぷんのない緑。色とりどりの花々は、申しぷんのないかわいらしさ、美しさ。木々は申しぷんのない巨大さで、森や林を形作った。
だがそれなのに、草にも花にも木にも、どこかしら生彩がなかった。どうしても生きているようには見えなかった。
「いったいどこがいけないのでしょう」
大地の女神が困惑して草や花や木をなで、大気の女神は吐息をついた。すると、大地の女神の指が触れ、大気の女神の息がかかった草や花や木は、生命を授かってかぐわしい芳香を放った。女神たちは喜び、すべての草や花や木に生命を与えた。
つぎに、女神たちは獣と鳥を創った。獣や鳥の姿に創りそこねたものは、海や川に投げうてば、魚や貝になった。虎や獅子は申しぷんなくたくましく、鹿や鶴は申しぷんなく美しく、りすや小鳥は申しぷんなくかわいらしかった。だが、猷や鳥は地の上に、魚は水の中に横たわったまま、身動きひとつしなかった。
大地の女神は草や花や木にしたのと同じように獣や鳥や魚に触れ、大気の女神は息を吹きかけた。すると、獣も鳥も魚も生命を得て心臓を脈打たせ、息をした。だが、獣は地を走らず、鳥は飛ばず、魚は泳がなかった。
「いったいどこがいけないのでしょう」
大地の女神は悲しんで、いとしげに獣や鳥や魚を抱きしめ、大気の女神はため息をついた。するとたちまち、獣は地を走り、鳥は飛び、魚は泳いだ。そうして、すべての獣と鳥と魚が動きまわるようになった。
最後に、ふたりの女神は人間を創った。百人の男の子と百人の女の子だった。だが、いずれも地に横たわったまま、身動きひとつしなかった。
今までと同じように、大地の女神が手を触れ、大気の女神が息を吹きかけると、人間たちの心臓が動いた。大地の女神が抱きしめ、大気の女神が息を吐きかけると、人間たちは立ち上がった。だが、だれも言葉を発せず、詩を作らず、女神たちを崇める知恵を持たなかった。
「いったいどこがいけないのでしょう」
大地の女神は嘆きの涙を流し、大気の女神は愛をこめて人間たちの額にくちづけした。すると、大地の女神の涙と大気の女神の唇に触れた人間は、言葉を発し、ものを考え、詩を作った。それで女神たちは、すべての人間に知恵を授けた。
大地の女神と大気の女神は満足し、幸福でもあった。木や草や花は女神たちのためにかぐわしい芳香を放ち、獣や鳥や魚は女神たちに甘え、人間は女神たちを崇める。生き物たちもまた幸福だった。
だが、ふたりの女神とその創造物との至福の日々は、他の神々の妬みを誘った。ことに大気の女神の夫たる太陽の神は、妻に敬遠される悲しみのゆえに、大地の女神と大地の生き物たちを妬み、憎んだ。
「大気の女神はわが最愛の妻。それなのになにゆえ、わたしを避けて、大地の女神とともにいるのか。なにゆえわたしを愛さず、草や木や花、獣や鳥や人ばかりを愛するのか」
神々にとってはつかのま、人間にとっては何世代にもわたる長いときが流れたのち、ついに太陽の神は、ふたりの女神と大地に生きる生き物たちを罰しようと決心した。
太陽の神は太陽の炎のかけらをちぎると、女神たちと生き物たちの住む大地に向かって投げつけた。草や木や花は炎に焼かれ、あるいは暑さに打ちしおれた。獣や鳥や人は、焼け死んだり、暑さのために地に倒れた。
「太陽の神よ、わが敬愛するおにいさま。あなたのなさることとは思えない。どうしてこんなひどいことをなさるのですか」
「大地の女神よ、そなたがわが妻を引き止め、わがもとに来させぬからだ」
「太陽の神よ、いとしいあなた。こんなむごいことはおやめください」
「大気の女神よ、そなたが大地の女神のもとを去り、わたしとともに暮らすなら、大地を焼くのはよすとしよう。そのちっぽけな生き物どもから目を背け、わたしだけを愛するなら、二度と大地には手を出さぬ」
頑固に言い募る太陽の神に、大気の女神は訴えた。
「あなたとともに暮らせば、熱さでわたしの身は焼かれ、消えてなくなってしまいます。あなたはそれでもよろしいのですか」
「そなたがわたしを避けるのは熱さのゆえか。それともわたしを厭うているのか」
「あなたはわたしの最愛の夫。どうして厭うことなどできましょう。ただ、ともに住むには熱すぎるのです」
「では、わたしの炎を遮る厚き衣を授けよう。それならともに住めるであろう?」
太陽の神は厚き衣を作って妻に与え、大気の女神はそれをまとった。
「さっきよりはましになりました。それでもやはり、ずっとともに住めば、暑さのためにわたしの身はやせ細り、やがては消えてなくなってしまいます」
「では、どうしろと言うのだ?」
「ともに住まずとも、こうしてお会いし、語り合うことはできましょう。一日のうち半分だけ、わたしたちは逢うことにいたしましょう。それならわたしも大地の生き物たちも、暑くなりすぎることはありませぬ」
「離れて語りあうことしかできぬのか」
「熱き炎だけではなく、温かな光もまたあなたの一部。離れたところから、光だけをわたしに注いでくださいませ。そうすれば、わたしはあなたの愛に包まれ、あなたはわたしの愛を感じることができるでしょう」
太陽の神の心はやわらいだ。だがそれでも、言い募らずにはいられなかった。
「それでも、そなたと大地の女神が創ったあのつまらぬ生き物どもは、どうにも気に入らぬl 「あなたが炎でなく温かき光を注がれるならば、彼らはあなたに感謝し、あなたを崇め奉ることでしょう。それでもご不快に思われますか」
太陽の神は、ためしに温かい光を地上に注いでみた。草や木にも獣や鳥にも人間にも、あらゆる生き物にとって、それは心地よいものだった。恐ろしい災いのときの後だけに、生き物たちは平和の訪れを喜び、穏やかな光を歓迎した。草や木や花は太陽の光にうっとりとまどろみ、獣や鳥や魚は太陽の光に喜んで飛びはね、人間は太陽の神を崇めて賛歌を作った。
太陽の神は満足し、同時に、自らも生き物を創りたくなった。
「大気の女神よ、そなたは、大地の女神の仕事に力を貸した。わたしも生き物を創りたい。どうかわたしにも力を貸しておくれ」
「ええ、でもわたしたちは夫婦なのですもの。草木や獣や人のような生き物たちではなく、息子や娘を創りましょう。大地の女神とはまた違ったやり方で」
の神々が生まれた。春風の女神、秋風の神、北風の神、南風の女神、夕風の神、夜風の女神、大風の神などであった。
太陽の神は今度こそほんとうに満足し、大地とそこに住む生き物たちは破滅を免れた。
こうして、草木や鳥や獣や人間たちは、大地の女神や大気の女神と同じぐらい太陽の神を崇拝するようになり、地上には風が吹くようになったのだった。
第3話 大風神殿
太陽の神と大気の女神は夫婦だった。大気の女神のかぐわしい体内に、太陽の神の光が矢のごとくふりそそぐと、女神は風の神々を産みおとす。
父神と母神の命は永遠だったが、子神たちは短命だった。そのかわり、風の神々は死してもまた生まれ変わった。神々といえども、生まれ変わるときには前世の記憶を失い、赤子同然の心で生まれてくるのだが、それでも前世と同じ容姿、同じ性質を持っているゆえ、親神たちは風たちの死を毎回それほど嘆かずにすんでいた。
風の神々のうちで、もっとも雄々しく猛々しいのは大風の神だった。やさしい春風の女神はやわらかな声で大風の神を賛美した。つかのまの命しか持たぬ美しくはかなげな夕風の神は、たくましい兄神にあこがれの目を向けた。ほかの兄弟姉妹の神々も、大風の神を崇拝し、あるいは畏怖していた。
大風の神は、生まれてこのかた地上に降りたことがなかった。母なる大気の女神がいやがるゆえであった。
だが、地上に降りた春風の女神はうららかな春の情景を語り、秋風の神はものさびしげな秋の風景を語った。北風の神は雪原の中で生きる人々について語り、南風の女神は常夏の地に生きる情熱的な人々についで語った。夕風の神や夜風の女神は、はかない命しか持たぬゆえに語ることは少なかったが、それでも、短い生涯のほとんどを地上で過ごすことに満足しているようだった。
そんな兄弟姉妹の神々のさまを見て、大風の神は地上への好奇心を抑えがたくなり、あるときついに、天より下ろうと決心した。
「大風の神よ。どうか地上に降りるのはやめておくれ」 大気の女神が懇願した。
「母上、どうしてそんなに反対なさるのです? 兄弟の神や姉妹の女神たちは、みんな地上に降りていくではありませんか。母上はそれに反対なさったことはない。どうしてわたしに限って天上に引き止めたがるのですか」
「それは、大風の神、そなたが地上に降りれば大地の上に大風が吹きます。大地に住む生き物たちはそなたを恐れています」
いつもならここで、大風の神は引き下がるのだが、今回はいつになく執拗だった。
「だからどうだというのです? 北風の神が地上に降りれば寒すぎる風が吹くし、南風の女神が地上に降りれば暑すぎる風が吹く。どちらも地上の生き物たちに好かれているわけではないのでしょう? それでも母上は、彼らが地上に降りることに反対なさらないではありませんか」
「大風の神、そなたの場合は特別なのです」
「どうしてですか。大風が吹いたからといって、地上の生き物たちが死に絶えるわけではない。だいいち、わたしたちはみな、大地の上を吹きすぎるために生まれたようなものではありませんか。天上にずっと留まるのは、わたしの持って生まれた性質に反しています」
「いとしい息子よ、そなたにとって、地上はきわめて危険なのですよ」
母神の思いがけない言葉に、大風の神は驚き、腹を立てた。
「危険ですって? 兄弟姉妹のだれよりも強いこのわたしが? 春風の女神や夕風の神、夜風の女神などは、わたしよりはるかにか弱いけれど、平気で降りていくではありませんか」
「そなたにとって特別に危険なのです。お願いだから、このまま天上にいておくれ」
「いいえ、そうと聞いては、なおさら行かずにはおれません。兄弟姉妹のうちでわたしだけが危険を恐れて天上に留まるなど、わたしの誇りが許しません」
大風の神の言葉に、大気の女神はついに折れた。
「そなたは何度生まれ変わっても、同じことを言うのですね。それほどまでに言うのなら、もう止めはしませぬ。そのかわり、これだけは忘れないでおくれ。そなたは大風の神。ゆえに大風の吹けぬ場所では生きられぬ。それに、人間の住処には近づかないで。とくに神殿には絶対に近づいてはなりません」
「どうしてですか」
「理由は言えません。地上の生き物たちの行いによけいな手出しをしないと、大地の女神と誓約を交わしているのです。だから、何も聞かずに約束しておくれ」
「わかりました、母上。約束します」
そうして大風の神は地上に降りていった。
最初のうち、大風の神は、母女神との約束どおり、人間の住む場所には近寄らなかった。無人の島々や砂漠、荒野ばかりを選んで旅した。だが、すぐに飽きて、人里をのぞいてみたくなった。
「たしかに母上は、人の住処に近づくなとおっしゃった。だが母上は心配性なのだ。言われるままに人の住処を避けたりしては、まるでわたしが臆病者のようではないか」 そこで大風の神は、人間の住む町へと向かった。
大風の神は、人間の目にはたくましく美しい若者の姿と映った。だが、その若者が近づくとともに大風が吹きはじめたゆえ、大風の神であることはすぐに知れた。
人々は恐れて家にひきこもり、美しい少年少女の一団だけが大風の神に近づいてきた。なかでもひときわ美しい少女が、大風の神の前に進み出ると、深々とおじぎして奏上する。
「大風の神さま、お待ち申しておりました」
歓迎の言葉に、大風の神は驚いた。人間は大風をきらっているのではなかったか。
「そちたちは何者か?」
「あなたさまのしもべにございます」
「わたしのしもべ?」
「はい。わたしはしもべの長、イーベと申します。どうぞお見知りおきくだされませ」
イーべは大風の神に手を差しのべ、崇拝に満ちた瞳で神を見つめた。
「宴の用意ができております。どうぞいらせられませ」
イーベに手を取られ、少年少女たちに取り巻かれて、大風の神は導かれるままについていった。 一団は町を出て、荒野へと出ていく。 「いったいどこに連れていく気だ?」
「風の神さま方をお祭りする神殿にございます」
「神殿だと。神殿にだけは近づくなと、母上に言われてきたのだが」
「まあ、なぜでございますか。あなたさま方を崇め敬う場所でございますのに」
大風の神を見上げるイーベの瞳は無邪気そのもの。一片の悪意も認められない。
「その神殿は遠いのか」
「さほど遠くはありませぬ」
そうするうちに、民家ほどの大きさの石造りの建物が見えてきた。
「あれがそうか?」
「ええ、あれも神殿のひとつ。ですが、春風の女神さまをお祭りする春風神殿にございます」
春風神殿の向こうにも、同じような小さな神殿がある。
「では、あれか?」
「あれは北風の神さまをお祭りする北風神殿にございます」
北風神殿の向こうにもまた小さな神殿があり、その向こうにも同じような神殿があった。そこかしこに小さな神殿が点在していたが、いずれも大風の神の神殿ではなかった。
「わたしの神殿はどこにあるのだ?」
「いちばん奥にあるのです。もうすぐ見えてまいります」
まもなく行く手に、今までの神殿のどれよりも大きな神殿が見えてきた。
「大風の神さま、あれがあなたさまをお祭りする大風神殿にございます」
他の神殿の倍以上の高さ。倍以上の間口。使われている石材はどの神殿よりも白く美しく、石壁の浮き彫りはどの神殿のものよりも手が込み、豪華だった。そして、かたく扉の閉ぎされた他の神殿とは違い、扉が左右に開かれている。
「ずいぶんりっばな神殿ではないか」
「あなたさまは、風の神さま方の中でもとりわけ偉大なお方であらせられますゆえ」
神殿の中には、数々の料理が並び、宴の準備がなされていた。
大風の神はイーベに導かれていちばん奥の席につき、そのすぐ右隣にイーべが座した。
「大風の神さま、あなたさまのしもべの中にお気に召したる者があらば、そちらに座らせておもてなしさせましょう。わたくしよりもお気に召したる者があらば、この席を替わりましておもてなしさせましょう」
「わたしはそちが気に入っておるゆえ、そこにおるがよい。他の者もみな同じように気に入っておるゆえ、だれでもわたしの左の席にくるがよい」
大風の神はおおらかで公平な性質であったから、崇拝の目を向ける少年少女たちをだれひとりとして拒むつもりはなかった。まして、見目よい少年少女たちばかりとあらば、なおのこと。大風の神はしもべたる少年少女たちを等しく気に入り、彼らの奉仕を等しく受け入れた。
イーペをはじめとする美しいしもべたちは、大風の神に酒を注ぎ、料理を勧めた。ある者は神のために歌い、ある者は踊って見せた。大風の神は大いに楽しみ、満足した。 大風の神が酒に心地よく酔い、満腹して眠気をもよおしかけたころ、しもべの少年少女たちは踊りながらさりげなく戸口に移動していった。大風の神がふと気がつくと、それまでかたわらに侍っていたしもべたちは、いつのまにかひとり残らず踊り手たちの中に加わっている。ずっと神の隣にいたイーベまでが、踊り手たちの最後になり、戸口に向かって遠ざかっていく。
異変を悟って、大風の神は立ち上がった。しもべたちは踊りながら次々と神殿の外に出て行き、神は戸口へと走り急いだ。
神殿の扉は左右からゆっくりと閉まりはじめ、最後にイーベが踊り出ようとする。そのイーベの右腕を、ついに追いついた神が捕らえた。
イーベは狼狽し、ためらった。が、それは瞬きするほどのあいだのことだった。大風の神のしもべに選ばれし者として、扉が閉ざされる前に神に引き止められたときの心得を、イーベはよく言い聞かされていた。大風の神を祭る宴の終わりに、しもべが神に引き止められることは、ごくまれなこととはいえ、これが初めてではなかったのだ。
かねて教えられていたとおり、イーベは大風の神の胸に飛び込んだ。まるで恋人の胸に飛び込む乙女のように。
だが、イーベには思いもよらぬことだったが、大風の神は、なにも彼女を引き止めようとしたわけではなかった。少女を捕まえれば、扉は閉ぎされぬと思ったのだ。
そんな思惑に反して、少女に体当りされたいきおいで思わず足を止めた大風の神の目の前で、神殿の扉は閉ざされた。
大風の神はイーベを突き飛ばし、扉を押し開けようとした。だが、扉はかたく閉ざされ、たくましい大風の神の力をもってしても開かない。渾身の力で押しつづけているうちに、いつしか大風の神は力が萎え、その場に膝をつき、ついに扉を背にして座り込んだ。
力が萎えたのは、扉を押し疲れたためだけではなかった。真に神の力が抜け落ち弱まっていた。
大風の神は大風の吹けぬ場所では生きられぬ。大気の女神の警告を、大風の神は思い出した。閉ざされた室内では大風など吹けるはずはなく、大風の神の命は尽きようとしていたのだ。
力なく座る大風の神のかたわらに、イーベはそっと身をかがめ、声をかけた。
「お席に戻られますか」
「よくもだましたな」
うなるような神の声に、イーベはとまどい、ためらいがちに神の機嫌を取ろうとした。
「お酒をお持ちしましょうか? それとも、くだものでも?」
何とたずねても神は不快げで、イーベは困惑した。神のこんな反応は予期していなかった。神は宴にいたく満足し、大いに楽しんでいたようなのに、どうして今はこんなに不快げなのか。大風の神のおかれた状況を、イーベはまったく理解していなかった。
大風の神には満足していただかねばならぬ。お祭り申し上げねばならぬ。ゆえに、もしも宴の終わりに神に引き止められたならば、神が満足なさるよう、さらに心を込めて接待申し上げるように。イーベはそう教えられていたのだが、どこやら悲しげな神の姿を見ると、宴のときとは勝手が違う。どうしていいのかわからず、イーベはただじっと神を見つめた。
たいまつの明りの中で、大風の神は美しかった。宴の席で豪放に笑いころげる姿も美しかったが、無言で目の前の少女を見上げる姿には、また別の美しさがあった。とりわけ、神の瞳の強い輝きにイーベは魅せられた。手負いの猛獣が猟師に向けるのとよく似た瞳だったのだが、そんな連想はイーベの頭には浮かばなかった。
大風の神の澄んだ瞳に魅せられて、イーベは、神を満足させるすべを悟った。少なくとも本人はそう信じた。
イーベは立ち上がると、装身具をはずし、衣の肩紐と飾り帯を解いた。衣がするりと少女の足元にすべり落ちる。
宴のときならば、大風の神は、明りにほのかに浮かび上がる少女の裸身を、あるいは美しいと思ったやも知れぬ。だが今は、猟師に向ける傷ついた猛獣のごとき瞳でイーベを見上げるばかりだった。
イーベは大風の神のかたわらに膝をつき、神の胸の上によりかかった。神はたくましい腕をたおやかな少女の背にまわした。
大風の神につねの力が残っていたなら、怒りのあまり少女のか細い胴を締め、背骨をへし折っていたに違いない。事実、そうして命を落としたしもべの少女が過去にひとりならずいたのだが、それはイーベの知るよしもないことだった。
イーベにとっては幸運なこと、大風の神にとっては不幸なことに、神にはもはや、少女の体をへし折るだけの力は残っておらず、ただきつく抱きしめるだけに終わってしまった。
先ほどのようにつき飛ばされず、抱きしめられたことに、イーベは安堵した。しもべの行為を神が喜んでいるのだと、完全に誤解していた。
ほどなくして、神の腕の力が抜け、両のまぶたが閉ざされた。神は満足して安らいでいるのだと、イーベは信じて疑わなかった。神の命が尽きかけようとしていることを知らぬがゆえであったが、仮に知ったとしても、同じことであったろう。
大風の神は、またいつか帰ってくる。神自身にすればそれはまた別の生涯であるのだが、人間の目から見れば不死と同じことだった。
まもなく神の命は尽き、大気の中に溶け込み消えていった。ひとり残されたイーベは、ふたたび衣を身につけると、扉ごしに呼びかけた。
「神官さま。どなたかそこにおられますか」
扉の向こうから返事があった。
「イーベや、大風の神さまはお戻りになられたか」
「はい。お戻りになられました」
扉が開かれ、大風神殿の神官たちと神鎮めのしもべを務めた少年少女たちが、しもべの長を務めた少女を出迎えた。
イーベは神官におじぎをすると、正式に報告した。
「大風の神さまは祭に満足なされ、滞りなく天にお戻りになられましてございます」
イーベの表情はこのうえなく晴れやかで誇らしげだった。神鎮めのしもべを滞りなく務めるのは、年ごろの少年少女たちにとっては名誉なことであり、しもべの長を務めおおせるのはさらなる名誉。そのうえ、大風の神に気に入られて引き止められたのは、最高の栄誉であった。
大任を終えた少女を祝福しねぎらう人々の上に、小雨が降りだした。大風の神を祭った後には、なぜかいつも小雨が降る。
人間たちには知るよしもなかったが、それは大気の女神の涙だった。大風の神より命短い風の神はいくらもあったが、自然の寿命を待たずに命を落とすのは大風の神ぐらいのもの。ゆえに、大気の女神は嘆かずにはいられない。
とはいえ、嘆きは一時のこと。大風の神はすぐにまた生まれてくる。そうしてまた、人間たちの祭に誘われ、命を終えることだろう。