昔コミケなどで頒布した架空の神話2ページ目です。頒布し終わってからかなり経ったので、2回に分けて全文掲載します。
第4話 木星の野望と月の誕生
地上に人が住みはじめてまもないころ、空には月がなかった。月の女神がいなかったからである。月の女神が生まれ、夜空に月が輝くようになったのは、次のようなゆえからだった。
星の神々の中でもっとも力が強くたくましいのは、木星の神だった。木星の神はそれが自慢で、星の神々のうちで自分がもっとも優れていると、つねに口癖のように言っていた。
だが、誇り高い星の神々は、木星の神の力を認めはしても、ことさら敬意を示すようなことはしなかった。ことに、火星の女神、知星の女神、大地の女神はそうであった。
三人の女神に対する不快さを、あるとき木星の神は、金星の女神の前でロにした。
「火星の女神は気に食わぬ。どうしてこんなに、何かにつけてわたしにたてつくのか」
「ええ、ほんとうに困った方」金星の女神は微笑んだ。
「あなたの方が強いから妬んでいるのですわ」
木星の神は満足した。美しくはなやかな金星の女神は、いつも心地よい言葉をささやいて、よい気分にしてくれる。彼女は星の神々のなかで、木星の神のいちばんのお気に入りだった。
「知星の女神は気に食わぬ。賢しげで生意気だ。力が弱いくせに、このわたしを見下したような目で見る」
「皆が言うほど賢い方ではありませんわ。あなたのような強い方を怒らせているのですもの」
木星の神は満足してうなずいた。
「それに、大地の女神も気に食わぬ。大気の女神を引き止めて放さぬ。大気の女神はわたしの妻にしようと思っていたのに」
「でも、大気の女神は太陽の神の妻ですわ」
金星の女神ははじめて言い返した。
「大地の女神と生き物たちがどんなふうに太陽の神の怒りを買ったか、ごらんになったでしょう? ただの女友だちや創造物でさえ、あれほどの怒りを買うのですもの。奪って自分の妻になどなさったら、どんな恐ろしいことになるかしれませんわ」
木星の神は腹を立てた。
「どうしてそんなに太陽の神を恐れるのか。生意気な火星の女神や知星の女神などでさえ、太陽の神には敬意を払う」
「あなたは、わたしたち星の神々の中でも、もっとも強いお方。でも、太陽の神は別格ですわ。わたしたちをお創りになった方ですもの」
「どうして別格なことがあるものか。太陽の神もわれわれも、同じように創始の宇宙卵の殻より生まれし者。たとえ創り主でもそれは同じはず」
「でも、太陽の神はわたしたちのだれよりも強い力を持っています。きっと、もとになった殻の大きさが違ったのでしょう。そうだわ、それなら……」
金星の女神は、ふとひらめいた思いつきを口にした。
「宇宙の卵の殻をたくさん集めて、自分の体の一部にしてしまえばいいのです。そうしたらきっと、太陽の神と同じように、いえ、もっと強くだってなれますわ」
気まぐれな金星の女神は、この思いつきに夢中になった。
「ねえ、ぜひおやりになって。おもしろそうじゃありませんの」
すっかりその気になった木星の神は、さっそく宇宙卵の殻の破片を集めはじめた。
そのようすを見て、知星の女神は不審に思った。
「木星の神よ、そんなものを集めてどうするのですか」
「わたしの体の一部にして、もっと強い力を手に入れる。太陽の神と同じ、いや、それ以上の力をな」
「なんてばかなことを」
知星の女神は驚いて反対した。
「そんなことをしたら、太陽の神がふたりになるのと同じこと。世界が熱くなりすぎてしまいます。あなたの力は、今でもじゅうぷん強いじゃありませんか。どうしてそれ以上強くなる必要があるのです?」
「そうとも。今でも強いとも。だがおまえたちは、わたしを敬いもしなければ、畏れもしない。だから、もっと強い力が必要なのだ」
「わたしたちはみんな、あなたの力をたいしたものだと思っています。どうしてそれではいけませんの?」
「おまえたちはわたしに従いはしない。そうして逆らうではないか」
「どうして従うことを求めるのですか。同じ星の神どうし。どうして対等であっては満足できないのですか」
「同じではない。わたしの方がはるかに強い。今からもっと強くなる」
木星の神は、宇宙卵の殻のかけらを一つつまみ上げると、口に入れて飲み込んだ。すると、木星の神の体は少し大きく、少し熱く、少しまばゆくなった。
「おやめなさい。世界を焼きつくしたいのですか」
知星の女神の制止を木星の神は聞き入れない。一つ、また一つと宇宙卵の殻のかけらを飲み込み、そのたびに世界は熱くなっていく。
木星の神がひときわ大きなかけらをつまみ上げたとき、知星の女神はたまりかね、木星の神の手からそのかけらを奪い取った。
「何をする! 返せ!」
木星の神が取り返そうとするよりも早く、知星の女神は手にしたかけらを放り投げた。すると、そのかけらは彗星の女神となり、木星の神の怒りように恐れをなして逃げ去っていく。
木星の神は怒り狂い、知星の女神につかみかかると、怒りにまかせて女神の体を引き裂いた。
断末魔の悲鳴を残して引き裂かれた女神の亡骸を前に、木星の神はわれに返った。木星の神は乱暴な性質ではあったが、今までこれほど残虐な行ないをしたことはなく、たちまち後悔の念に満たされた。
知星の女神の悲鳴を聞いて、他の神々も驚いて駆けつけ、そのむごたらしいありさまに怒り悲しんだ。火星の女神と海星の神は木星の神に詰め寄り、大地の女神と大気の女神は友の亡骸をかき抱いて悲しみにくれた。水星の女神と金星の女神は恐ろしさに打ち震え、土星の神と天星の神は、最高の英知が失われたことを惜しみ悼んだ。
太陽の神の怒りと嘆きは星の神々以上だった。木星の神から残った宇宙卵の殻を取り上げると、怒りのあまり打ち殺そうとする。それを止めたのは大地の女神の声だった。
「太陽の神よ、知星の女神は生きています」
木星の神をかばったわけではない。事実であった。
「心臓がかすかに動いていますもの。太陽の神、あなたなら、生き返らせることがおできになるのではありませんか」
太陽の神は引き裂かれた女神に手を延ばし、ずたずたに裂かれた体から心臓を取り出した。完全には死んでいなかった心臓は、太陽の神の手の上で命を取り戻し、知星の女神の姿に変貌していく。
まもなく太陽の神の手の上には、以前とまったく変わらぬ知星の女神の姿がよみがえり、以前とまったく変わらぬ英知にあふれた瞳であたりを見まわした。ただ、女神の大きさだけはかつての心臓と同じだった。
「何が起こったのです? みんなそんなに大きくなって」
だが、すぐに、聡明な女神は、皆が大きくなったのではなく、自分が小さくなったのだと気がついた。そうして、かつて自分のものであった亡骸を見て、すべてを理解した。
「木星の神をどう罰するべきだと思うか」
太陽の神が、甦った女神に問いかけた。
「二度とこんなことをしないと誓わせるべきでしょう」
「わたしは彼を殺そうと思った。非道な罪の償いのために」
「わたくしたちはだれひとりとして失われるべきではありません。それよりも……」
知星の女神は自分の亡骸をふり返った。
「あれをそのままにしておきたくはありません」
そこで太陽の神は、裂かれた亡骸の左半分から冥星の女神を、右半分から月の女神を創り、その場に流された女神の血から小星の女神たちを創った。
こうして星の神々には新たに仲間が加わり、夜空には月が輝くようになったのである。
第5話 夕風の恋人 世界に風の神々は数多いるが、夕風の神ほど美しい神は他にはおらぬ。夕風の神ほど命はかない神もまたおらぬ。
陽が傾き、空が紅に染まりかけるころ、夕風の神は生を受ける。そうして夕暮れのひとときを生き、あたりが闇にとざされるころ、そのはかない生涯を終える。だが、次の日、空が赤く染まるころ、夕風の神はまた生まれてくる。
前日とまったく同じ夕闇の色の髪。美女とみまごうはかなげな面差しも夕闇の色の瞳も同じなら、夕闇の色の衣も同じ。性質もしぐさもまた同じ。だが、前日の記憶を持ってはおらぬ。ただ、本能のごとく、自分が夕風の神であり、夕方しか生きられぬことを知っている。それは、前の日に生きた夕風の神と同じ神とも言えたし、また別の神とも言えた。
夕風の神は生まれ落ちるとすぐに地上に降りる。兄や姉の神々とつかのま語らうことはあっても、長くともにいることはない。
地上を歩く夕風の神の姿は、夕闇に溶け込みそうないでたちにひそやかな物腰ながら、ただの旅人とは見えぬ神秘的な雰囲気のゆえに人目を引いた。ある者は幻かと目をこすり、ある者は人ならぬ存在と悟って近づくのをはばかった。
だが、ごくまれに、炎に惹かれる蛾のごとく、神の美貌に惹かれて近づく者もいた。フィゼルもそんなひとりであった。
フィゼルは好奇心が強くて大胆な娘で、夕風の神をひとめ見ると、目をそらすことができなくなくなった。こんな美しい若者をいちどとして見たことがない。村の若者にはだれにも惹かれたことのないフィゼルだったが、夕風の神にはひとめで恋におちた。
「どちらへ行かれますの?」
フィゼルの問いに、夕風の神はまっすぐ前方を指差した。
「あちらへ」
「行く先を聞いていますのよ。どちらの村へ行かれますの?」
「さあ」
夕風の神は首をかしげた。ほんとうに知らなかったからだ。
「行けるところまで」
「お急ぎですの?」
「いいや」
「では、わたしといっしょにきてくださいませんか」
フィゼルは手をさしのべ、夕風の神はその手を取った。何も尋ねなければ、ためらいもせぬ。ひよこが親鳥について歩くように、神は娘についていった。
娘は野を横切り、林を抜け、小さな湖の畔にと神をいざなった。
「お名前は何とおっしゃいます?」
「夕風の神」
フィゼルは笑った。本気にしてはいなかった。
「大胆な方ね。神さまに叱られますわよ」
夕風の神は、フィゼルの言っている意味がわからなかった。ただ、娘が楽しそうに笑っているのを見てまねをした。
フィゼルは、この美しい若者がますます気に入った。神を冗談の種にするとは、小心な村の若者たちとはなんという違いだろう。
娘は草の上に腰をおろし、隣にすわるよう、若者を促した。美しい若者の顔をほれぼれと眺めると、夕闇の色の髪に手をのばす。
「ふしぎな色の髪ね。こんな髪の人、見たことないわ」
小さな子供が親の真似をするように、夕風の神はフィゼルの真似をして、娘の茶色の髪に手をのばした。フィゼルが夕闇色の髪をなでると、神も娘の髪をなで、娘が手にした髪に口づけると、神も同じようにした。
フィゼルは夕闇色の髪から手を離し、神の白い頬に触れた。神も真似をして、娘の陽に焼けた頬に触れる。
「あなたの肌はずいぶん白いのね」
夕闇に消え入りそうなほど繊細な輪郭をいとおしげになぞりながら、フィゼルが言った。
「それに、亦ちゃんの肌より柔らかくてきれいだわ。まるで、真昼の太陽に焼かれたことがないみたい」
「真昼は知らない。太陽はわたしの父なのだが」
よく意味のわからない冗談だと思いながらも、最高神たる太陽をも畏れぬ若者の大胆さが好ましくて、フィゼルは微笑んだ。それを見て、神も微笑を返す。
美しい微笑に引き込まれるように、フィゼルは腰を浮かせて顔を近づけ、色素の薄い唇の上に口づけした。しばらくそうしてから身を放し、美しい顔に怒りやとまどいが浮かんではいまいかと、おそるおそるのぞきこんだ。
神にはフィゼルの行為の意味はまったくわからなかったが、今までと同じように真似をした。顔を近づけて唇を重ねると、娘の顔をのぞきこむ。
真似をしてみせただけだとは、フィゼルには思いもよらぬ。相手も積極的なことに勇気づけられて、フィゼルは神の白い手を取り、自分の胸元、衣服の下へと導いた。夕風の神は、フィゼルに導かれるまま、草の上に娘と折り重なるように横たわり、彼女が望むとおりのことをした。神にはわけのわからぬことだったが、気にしてはいなかった。
それからどのぐらい、抱き合ったまま横たわっていたろうか。幸福に酔いしれ、まどろんでいたフィゼルは、ふと肌寒さを感じて目を覚ました。いつのまにか日はとっぶりと暮れ、美しい恋人の姿はどこにも見当たらぬ。
「薄情な方。黙っていっておしまいになるなんて」
夜の訪れとともに神の命が絶え、夜闇の中に消えていったことなど、フィゼルが知ろうはずはない。恋人の冷たさを思って、フィゼルは泣いた。
そのあと長いあいだ、夕風の神がフィゼルの村の近くを通りかかることはなかった。夕風の神が地上に降り立つ場所は決まっておらず、歩く道筋も決まっていないゆえ、広い地上でたまたま同じ場所を通りかかるということは、そうしょっちゅうあることではなかったのだ。
毎夕生まれ変わる夕風の神は、むろんフィゼルのことなど覚えてはおらぬ。フィゼルのひとときの恋人であった夕風の神と、新たに生まれ変わった夕風の神とでは、同じ神にして別の生を持つ別の神でもあったのだから、当然のことだった。
だが、フィゼルのほうは、ひとときの恋人であった美しい若者のことを忘れることができなかった。村の男たちからの求愛はすべてはねつけ、夕刻になると、かの美しい人がふたたび通りかからぬものかと、かつて恋人と出会った村はずれをさまよい歩いたり、湖の畔にたたずんだりした。
そうして何日、何十日が過ぎたろうか。ある日、フィゼルは、ふたたび恋しい人の姿を目にした。前と同じ夕闇色の髪に夕闇色の衣。だが、声をかけることはできなかった。顔なじみの村娘が、かの人の腕に自分の腕をからませ、べったり寄りそって歩いていたからだ。
ふたりはフィゼルのすぐ前を通りすぎた。フィゼルの姿に気づいた娘は、誇らしそうな笑顔を向けると、ますますべったりと連れの腕に寄りかかった。
夕風の神もフィゼルの方をゆっくりとふり返る。美しい面がこちらを向くのを、フィゼルは期待を込めて見守った。
(わたしを見て。そうしたら、こんな娘なんて放りだして、わたしの方にきてくれるわね)
だが、フィゼルの期待は裏切られた。ふり向いたかつての恋人の表情には、再会の喜びも、驚きも、他の娘に目移りしたうしろめたさも認められなかった。ただ、行きずりの見知らぬ人に向けるような視線を投げかけただけだった。
最悪の反応に、フィゼルは凍りつき、茫然とふたりを見送った。
それからもフィゼルは、何度か夕風の神の姿を見かけた。かつての恋人は、たいていだれかといっしょだった。娘のこともあれば、若者のこともあった。もっと年のいった男や女のこともあった。べたべた寄り添っている者もいたし、つつましやかに隣を歩いている者もいた。
夕風の神と出会うたび、フィゼルの胸は高鳴ったが、もういちど話しかけようとは思わなかった。彼がひとりでいるときでさえ、話しかける気にはなれなかった。
かつての恋人は、そしらぬふりをするぐらいならまだしも、まったく彼女のことを覚えていないように見える。そんな冷淡な男に泣いてすがったり怒ったりするのは、彼女の誇りが許さなかった。
だが、ある日の夕暮れ、ついにフィゼルの憤りは頂点に達した。よりによって、かつてふたりで過ごした思い出の湖の畔で、夕闇色の髪の美しい若者が村の若者とともに横たわり、かつてフィゼルにしたのと同じようなことをしているのを目にすると、見て見ぬふりはできなくなった。
フィゼルが息を詰めて見つめていると、やがてふたりは並んで横たわったまま動かなくなった。フィゼルはふたりに近寄った。村の若者は寝息を立てていたが、夕闇色の髪の若者は眠ってはいなかった。
夕風の神は身を起こし、フィゼルを見つめた。繊細な面立ちと神秘的な夕闇の瞳の美しさは記憶にある以上だった。思うさま罵り、頬の一つもぶってやろうと、怒りにまかせて近づいたフィゼルだが、いざ間近にすると、罵りの言葉は声にはならなかった。目の前の若者はあまりに美しすぎ、神秘的すぎて、いかなる罵倒の言葉も似つかわしくないように思え、怒りさえもが萎えしぼんだ。罵りの代わりに、自分でも思ってもいなかった言葉が口をついて出た。
「わたしは美しい?」
「美しい」
ためらうことなく、夕風の神は答えた。
とはいえ、夕風の神は、フィゼルの意味するところをほんとうに理解したわけではない。ひとときの命しか持たず、ひとときの記憶しか持たぬ夕風の神には、その短い生のあいだに出会う人間の数は限られている。ゆえに、人間の美醜の規準を知らぬ。まして、神に人間の美醜はたいして意味を持たなかった。
だが、夕風の神は、短いがゆえに己れの生を愛していた。短い生のあいだに出会うすべてのものを愛していた。そして、傍らに眠っている最初に出会った人間は、夕風の神を美しいと誉めたたえ、幸福そうに微笑んだ。ゆえに神は、幸せなことを人間は「美しい」と表現するのだろうと思っていたのである。
「わたしを愛している?」フィゼルがさらにたずねた。
「愛している」
彼女がたずねたのと同じ意味においてではなかったが、ベつに偽りではなかった。
「では、その人は?」フィゼルは、神の傍らに眠る若者を指さした。
「愛していない?」
「愛している」娘の問いの真の意味がわからぬまま、神は答えた。
フィゼルは顔を赤らめた。怒りよりもむしろ、屈辱のゆえだった。
「わたしよりも?」
意味がわからず、神は首をかしげた。
娘はますます顔を赤らめ、衝動的に衣をその場に脱ぎ捨てた。
「このわたしとその人と、同じほどの魅力しかないの? わたしの方が美しいとは思わないの」
黄昏のおぼろな光の中に均整のとれた裸身を惜しげもなくさらし、フィゼルは神の手をとった。
「ほんとうに覚えていないの? わたしのことを?」
フィゼルは神の手をおのが唇にあて、それから胸のふくらみに押しあてた。
「ここでわたしと過ごしたことも?」
娘の言うことは神には理解できなかったが、望むところは理解した。きょう生まれて最初に出会った人間とのかかわりから、夕風の神は、人間が神に求めるものを、彼なりにわかったと思っていた。
そこで、夕風の神は、フィゼルを抱き寄せ、先に出会った若者にしたのと同じことをした。
その物音で、眠っていた村の若者が目を覚ました。目の前に繰り広げられる光景に、若者は驚き、つづいて腹を立てた。
若者とフィゼルは互いに罵りあい、どちらを選ぶのかと、夕風の神に詰め寄った。
そうしているうちにも、太陽は地平線の下へと沈んでいく。夕風の神は、短い夕刻の終わりを悟って静かに目を閉じた。
太陽が完全に没し、最後の光が失われるとき、夕風の神はその場にくずおれた。驚いて抱きとめた若者と娘の腕のなかで、神は、闇の中に溶け込むようにして消え去った。
フィゼルと若者は、茫然とその場に立ちつくした。日が沈んだとはいえ、月明りで間近のものなら見える。美しい恋人が、どこかへ立ち去ったのではなく、ほんとうにかき消えたことははっきりしていた。
そうして、そのときになってはじめて、恋仇の男女は悟ったのだった。自分たちの争いの的であった美しい恋人は、ほんとうに神、夕風の神だったのだ、と。
それからほどなく、若者とフィゼルは結婚した。あの夜、ふたりが愕然と立ちつくしているときにたまたま通りかかった村人が、ふたりの仲を誤解して、村の噂になったゆえでもあったし、互いに、美しい恋人のことを忘れたいがゆえでもあった。
まもなく、ふたりのあいだに男の子が生まれた。茶色の髪と茶色の瞳は母親譲りだったが、はかなげで美しい顔立ちは、父親にも母親にも似ていなかった。成長していくにつれ、ますますそれがはっきりしていった。
この子は道で目にした美しい旅人に似ている。村人たちの中に、そう言いだす者がいた。不義の子、といっとき噂が流れたが、すぐに立ち消えた。興味本位の噂など、このやさしく美しい子供には似つかわしくない。村人すべてにそう思わせるものが、少年にはあった。
そのうえ、よくない噂を否定するかのように、少年の父親はこよなく息子を愛していた。母親は言うまでもなかった。夫婦は掌中の玉のように息子を慈しみ、息子が遊びに熱中するあまり日が暮れても帰らないことでもあれば、はたで見ていておかしいほどに心配した。
村人の幾人かは、息子が闇の中に溶けて消えるとでも思っているのかと、失笑した。ほんとうに両親がその通りのことを恐れているのだと、わかるはずはなかった。一家の仲むつまじさを、村人たちはうらやみ、ほほえましく思っていた。仲のよい父子、仲のよい母子、仲のよい夫婦。たしかにその通りであったから、美しい少年の両親の心の奥深く、つねの夫婦、つねの親とは異なる感情が秘められていることに気づいた村人は、ついにひとりもいなかった。