だいぶん前にコピー本にした異世界ファンタジーの2ページ目です。
1ページ目は、一人称で書いた「殺しの依頼」を三人称に改稿したものです。
頒布し終わって久しいので、3ページに分けて、サイトに全文掲載することにしました。
第2話 花嫁の護衛
クルトが久しぶりに好条件の仕事を請け負ったのは、後味の悪い暗殺を果たしてから二十日ほどのちのことだった。
あのあと、避暑にいく一家の護衛を引き受けて、馬車で三日ほどの山間の町に行き、しばらくそこで過ごして戻ってきたとき、傭兵の斡旋人がその話を持ちかけてきたのだ。
その仕事とは、花嫁の護衛だった。王の末の妹、イライザ姫が隣国に嫁ぐのだという。
「イライザ姫? 行方知れずになっていたのではなかったのか?」
そう問い返してから、クルトははっと気がついた。
二十日ほど前に殺した若者の部屋で見た人物画。生成りの絹糸のような髪とたそがれどきの空のようなすみれ色の瞳を持つあの若い女は、国民に公開されているイライザ姫の肖像画に似ていなかったろうか。
イライザ姫は、二年前に前王が死去してまもなく、いずこともなく姿を消した。表向きは病気と発表されたが、彼女が行方知れずとなったのは国じゅうの公然の秘密だった。ことに傭兵たちは、姫を見つけた者には一万デュカの賞金を支払うという通達が国王の名でひそかに流されていたので、姫の失踪を知らない者はなかった。
姫の失踪は、長兄である国王と、王位を狙っているのではないかと噂の次兄との板挟みになっていたことと無関係ではあるまいと、もっぱらの噂だった。兄たちふたりのどちらにとっても、この美貌の妹は利用価値のある政略の手駒だったのだ。
姫が行方知れずとなったのは、次兄がひそかに隠したのだとも、娘の身を案じた母親の王大后が隠したのだとも、みずから隠れたのだともいわれているが、定かではない。
傭兵たちにとってはどうでもいいことだ。重要なのは、一万デュカの賞金だった。
一万デュカといえば、安宿に泊まって安酒場で食事をとるといった傭兵たちの一般的な暮らしなら、一年は遊んで暮らせる金である。そのため、しばらくは姫を捜すのに熱中していた傭兵もいたが、いつしかそれも立ち消えになっていた。
「見つかったんだ」と、斡旋人がクルトの問いに答えた。
「ほう。一万デュカを手にしたやつがいるのか?」
「いや」と言って、斡旋人が声をひそめた。
「せんだってあんたに仕事を依頼した大商人のロベルト、あいつが姫を隠していたのさ。やつがクビにした使用人が自殺して、そいつの部屋に姫の絵を描いた絵があったので、姫の居所がわかったのさ」
クルトが顔色を変えた。あの若者の部屋で見た肖像画の正体に、クルトはいまでははっきり気がついていた。同時に、あの若者を殺すように命じられた理由も。
おそらく姫はロベルトの館で注意深く隠されていたのに、あの若者はなんらかの拍子に姫の存在に気がついたのだ。 クルトのようすを見て、斡旋人もうすうす事情を察した。
斡旋人はロベルトにクルトを紹介したものの、具体的な仕事の内容を知らない。ただ、仕事の内容は傭兵本人に告げると言われて、やばい仕事だと察し、クルトにやばい仕事でも引き受ける気があるのかと打診したうえで紹介した。傭兵斡旋所には、そういった裏の仕事もときには入るので、それ以上の詮索はしなかったのだ。
だが、やばい仕事を紹介した直後に依頼人の元使用人が「自殺」をして、しかもその部屋から失踪した王妹の手がかりが見つかったとなれば、依頼内容もその理由も見当がつく。クルトの驚きようから、彼自身にすら依頼の動機が伏せられていたのだとも。
「気にするな。ロベルトの不運はやつの秘密主義が招いたのだ」
斡旋人は、クルトの顔色が変わったのを見て、自分の仕事がもとで依頼人が窮地に陥ったのを後味悪く感じているのだろうと解釈した。長年傭兵の仕事をしてきた者なら、たいていはそんなことをたいして気にとめないものだが、なかには非情になりきれない者もいる。クルトはそういうタイプだったかと、斡旋人は意外に思った。
だが、クルトは、ロベルトの災難などまったく気にしてはいなかった。
斡旋人に言われるまでもなく、ロベルトの災難は本人のせいだとわかっている。
解雇した使用人に都合の悪いものを見られ、その使用人が絵を描くと知っていたのなら、人物画を見つけたら処分するようにとも依頼しておくべきだったのだ。もしアロンに絵を描く趣味があると知らなかったとしても、何のために彼を殺すのかをクルトに話し、姫の所在を示す手がかりがあれば証拠湮滅するように依頼しておくべきだったのだ。
それを怠慢ゆえか、またはクルトを信頼していなかったために話さなかったのだから、災難を招いたのはロベルトの自業自得といえる。
それにクルトは、依頼を実行して金を受け取ったとき、ロベルトに胃がむかつくほどの嫌悪と憎悪を感じたので、彼の悲運に同情もしなかった。
クルトが愕然としたのは、会ったこともないイライザ姫にふりかかった災難と、自分が殺した若者の心を思ったからである。
クルトはイライザ姫の護衛の仕事を引き受けた。哀れなアロンを殺したのが自分だとばれればまずいが、まずばれる心配はない。なんといっても条件のいい仕事だし、それにイライザ姫のことが妙に気になったのだ。
アロンがロベルトの館で垣間見たイライザ姫の姿に心を動かされたのは疑いない。でなければ、空想の世界ばかり描いていた者が、彼女の肖像だけ人物画を描くはずがなかろう。
では、姫はどうなのか? あの若者を知っているのだろうか? 自分の姿を見たばかりに命を落とした若者がいたことを知っているのだろうか? あの自分の肖像画のことを知っているのだろうか?
そう思えば、ときどき姫に目を向けずにはいられない。その視線は何度か姫の視線とぶつかり、クルトはあわてて目をそらせた。
「どうした? イライザ姫にひとめ惚れでもしたのか?」
いっしょに雇われた傭兵仲間のひとりがからかった。
「惚れるなら手に入る女にしておけ」
「そんなんじゃない」とクルトは答えたが、あまり強くは否定しなかった。イライザ姫に視線を何度も向けたのに気づかれてしまったのなら、ひとめ惚れと思わせておいたほうがいい。でなければ不審に思われてしまう。
「うわさ以上に美人だなと思っただけだ」
「まあな」と、相手も姫に視線を走らせた。
「眺めるだけならたしかに目の保養だ。色恋の相手としちゃ、あんまり好みじゃないけどな。身分違いは別にしても。おれはもっと生き生きした女がいい」
クルトは肯定も否定もしなかったが、内心で同感だと思った。夫婦になるとしても、一夜の遊び相手としても、イライザ姫のような生気のない女は、クルトにとっても好みではない。
とはいえ、生気がないのは無理もないとも思う。
生まれたときから、いつか政略の駒となる運命が決まっていて、それでも父王が生きていればそれなりに姫のためにも悪くない嫁ぎ先を選んだかもしれないのに、父王を早くに亡くしたため、ふたりの兄に政略の駒として奪い合いをされたのだ。
みずから身を隠したのか、次兄か母が隠したのかはわからないが、いずれにせよ、長兄である国王に見つかって即座に決まった嫁ぎ先は、亡き父王よりも年上で、愛妾を三人侍らせたほかに侍女たちにも手を出す好色と評判の男。王妃の座が約束されているとはいえ、とても幸せな結婚とは思えない。
生活の苦労を知らない王侯貴族の類に同情などしたことのないクルトだが、イライザ姫に対しては、すべての希望を放棄したかのような生気のない風情を目にしているためか、あの若者の描いた絵を目にしたためか、同情の気持ちを起こしていた。
クルトがイライザ姫に向ける視線は、姫自身も気がついた。男たちに称賛の目を向けられるのは子供のころから慣れているので、べつだん新鮮味はない。まして希望もなく兄王の意志のままに流されようとしているいま、男の賛美の視線がなんだというのか。相手が一介の傭兵ならなおのこと。何度か目が合っても気に留めず、そのまま忘れてしまっても不思議ではなかった。
にもかかわらず、イライザ姫がクルトの視線に気づき、関心すら抱いたのは、「もしや」という思いがあったからだ。
(あの人は、もしや、この絵を描いた人なのでは?)
姫は肌身離さず大切にしている肖像画に目を落とした。
姫をロベルトに預けたのは、姫の実母でもある王太后だった。息子たちが野心に燃えて争っているうえ、それぞれ妹を政略の道具にしようと画策するのに心を痛めた王太后は、息子たちの頭が冷えるまでと思い、宰相の協力を得て姫をひそかに隠したのだ。
王家に生まれた女が政略結婚を逃れようもないのは王太后も承知しており、彼女自身も父親どうしの決定により結婚したが、それでも彼女の父は年齢の釣り合いや相手の人柄も考慮して、娘の幸せのためにもよかれと思った相手を選んでくれた。夫が生きていれば、やはりそうしただろう。それなのに、息子たちはまるで魚を釣るための餌のように妹を扱う。それも、国のためというより、兄弟どうしの諍いで自分が優位に立つために。
王太后は、娘への情愛とともに、息子たちの争いをこれ以上激化させたくないという思いもあって、姫を隠したのである。
むろん、イライザ姫のほうにも否やはなかった。兄たちのどちらともとくに仲がよかったわけではないが、とくに仲が悪かったわけでもなく、いちおう兄妹の情を持ってくれていると思っていたので、兄たちの態度に衝撃を受けていたし、長兄の勧める縁組も次兄の勧める縁組もいやだったのだ。
母の勧めに従って身を隠したものの、姫は自分の未来が暗く閉ざされているのを感じ、絶望と無力感にうちひしがれた。
いつか自分は、長兄に見つかってワラサ国の六十歳近くの老王に嫁がされるか、次兄に見つかって残忍と評判のカルキア国の王に嫁がされるのだろう。運がよくても、罪人のように隠れひそんで生涯を終えるしかない。
そんな無力感は隠れ家生活がつづくにつれて募り、イライザ姫は、生きながらにして死人のようになっていった。
だから、ついに長兄に見つかり、母の反対にもかかわらずただちにワラサ国への輿入れが決まったときも、姫は、とうとうこの日が来たのかと思っただけで、もはや怒りも抗議する気力も湧かず、他人ごとのように兄王の決定を聞いていた。
姫の心は眠っているのに等しかった。自分の身にふりかかるすべてが現実ではないように感じられていた。
そんな彼女の心をつかのま現実に引き戻したのは、一枚の板に描かれた肖像画だった。
両腕で抱えて持てるぐらいの板に描かれた肖像画。王宮には、大きな画布に等身大ぐらいの大きさに描かれ、りっぱな額縁に納められた肖像画があるが、それよりずっと小さくて粗末である。
だが、りっぱな盛装に身を包んで、つくられた微笑を浮かべた王宮の肖像画よりも、この小さな肖像画のほうが、姫にはずっとほんとうの自分らしく感じられた。
いや、ほんとうの自分とはいえない。イライザ姫は、おそらく自分が生気のない無気力そうな表情をしているだろうと知っていたが、絵のなかの自分は希望に目を輝かせている。
だが、その現実の自分とは異なる表情は、現実を無視して描かれたのではない。それは、苦労知らずの人間の幸福に満ちた笑顔ではなく、悲しみと絶望のなかから希望を見出だした者の表情と見えた。
これを描いた人は、自分の悲しみと絶望を知っていて、いつかこの絵のように希望を取り戻せるようにと願ってくれたのだ。
そう思うのは、この絵を渡されたときの兄王の言葉のせいかもしれない。
「この肖像画のおかげでおまえの居場所がわかった」
「肖像画?」
兄王が無造作に投げてよこした板を手に取りながら、姫は首をかしげた。
「いったいだれが?」
「描いたやつに心当たりはないのか?」
兄王が意外そうに言って、鼻で笑った。
「隠れているうちに男ができたかと思ったが、違ったようだな。あの男のひそかな片思いといったところか」
姫は驚いて、ほとんど関心を持たずに手に取った絵を改めて見直した。王宮にいたころにはいつも男たちの賛辞の言葉やあこがれの視線に包まれて暮らしていたが、いまの自分にひそかな思いを寄せている男がいるという言葉には、驚かずにはいられなかったのだ。
そうして改めて絵を眺めると、その絵を描いた人は、たしかに自分を暖かい目で見てくれたのだと感じた。それは、いままで自分を賛美したどの男たちにも感じなかった確信だった。
しかし、その人とどこで出会ったのか、姫にはよくわからなかった。
ロベルトの屋敷では、投げやりな気持ちになるにつれてあまり用心深くなくなり、窓辺に座ってぼんやり外を眺めたり、だれもいないと思って月夜の庭を散歩したことが何度かあった。そのとき館の使用人のだれかに姿を見られたのだろうか。
姫の推測は当たっており、アロンという使用人が彼女の姿を目にしていた。
通いの庭師だったアロンは、姫がどこのだれかを知らないまま、その美しさと悲しみに心を動かされ、その姿を幾度となく探し求めては板に描いた。さらに、姫がどこのだれで、どういう事情でそれほど悲しげなのか知りたいと思い、主人のロベルトにたずねたため、解雇されたうえに、自殺に見せかけて殺された。
姫の所在を隠すための殺害だったが、皮肉なことに、そのためにかえって姫の肖像画が役人の目にふれ、ロベルトの館が捜索されることになったのだ。
だが、そんなことは、もちろんイライザ姫は知らない。それに、どこのだれがこの絵を描いたのかも、その人がどうなったのかも、姫は兄王に聞きそびれた。茫然と絵を見つめているあいだに兄王は部屋を出ていき、そのあと一度も会っていないからだ。
漠然と、姫は、この絵を描いた人はもう生きていないのではないかと思っていた。この絵が兄王の手に渡り、いまここにある以上、その可能性は高い。
そう感じていながらも、姫は、この絵を描いた人にどこかで生きていてほしいとも願っていた。それがはかない望みだと思いながらも。
そんなときに、自分をときおりじっと見つめている護衛兵がいたので、もしやと思ったのだ。
そんなことはありえないと思いながらも、イライザ姫は、旅の何日目かの昼食のとき、肖像画を胸に抱きかかえて馬車の外に出た。クルトと呼ばれているその護衛兵がどんな反応を示すか、確かめたかったのだ。
絵が描かれている面を自分のほうに向けて抱きかかえれば、周囲の者には、ところどころに絵の具の飛び散った古ぼけた板にしか見えない。
だが、クルトの視線はその板に釘づけになっている。それが自分の思っているとおりのものか確かめたがっているようにも、期待しているようにも見えた。その様子から、彼がこの肖像画を知っているのは明らかだった。
イライザ姫は、侍女に命じてクルトを呼び寄せ、侍女を下がらせた。周囲の者たちの視線のある戸外とはいえ、侍女は、荒くれ者の傭兵を姫のそばに残して下がることに躊躇したが、命令とあればしかたがない。少し離れた場所から姫とクルトの様子を見守っている。
姫もそれは気にしない。ただ、会話を聞かれたくなかっただけだ。
「この絵を知っていますね?」
姫の問いに、クルトはつかのま返答に詰まった。あの若者を殺したことがばれただろうかと内心でひやひやしたが、まったく知らないふりをすればかえってあやしまれるのはわかりきっている。
クルトがうなずくと、姫は重ねてたずねた。
「この絵を描いたのはあなたですか?」
予想外の問いに、クルトは虚をつかれた。
「え? ……違います」
クルトが本気で驚いているのがわかったので、姫は落胆した。
「そうですか……。でも、この絵を描いた人のことは知っているのですね」
「ええ、まあ……」
「それはどういう人なのですか? あなたと親しかったのですか?」
クルトは返答に困った。まさか、自分が殺したとはいえない。
「親しくはありません。用事で彼の部屋を訪ねたことが一度あるというだけの関わりなので、彼の顔と、アロンという名と、たくさんの絵を描いていたことしか知らないのです」
「たくさんの絵……。では、その人、アロンが描いたのはわたくしだけではなかったのですね」
姫の声音が少し沈んだ。
「いいえ。肖像画はあなたの絵だけでした。あとは、幻想的で美しい、どこか見知らぬ世界を描いたような絵でした」
そのとたん、姫の表情がつかのま輝いたのにクルトは気がついた。
「で、アロンというのはどのような方でしたか?」
「どのような……といわれましても……」
会ってすぐに自分の手で殺した若者だけに、ほとんど相手を知らないし、そのときのことを思い出すのも、姫に語るのもつらい。
困惑しながらも、クルトは思い出せるかぎりのことを話した。
「若い男です。年齢は知りませんが、見た感じではおれよりだいぶん年下で、でも姫よりは年上でしょう。髪は栗色で……。少し話しただけでも、お人好しで、世渡りがへたで、だまされやすそうな男だとわかりました」
ほめているのかけなしているのか、クルト自身にもわからなかったが、姫はその言葉をいいほうに受け取った。
「心の清らかな、とてもよい方だったのですね。……それで、その方はどうなさっているのでしょう……?」
訊ねてから、イライザ姫は後悔した。もしもアロンというその人がこの世の人でないなら、それを知りたくはなかったのだ。
クルトのほうでも、姫に事実を告げられないと感じていた。
自分が殺したことはもちろんだが、あの若者が死んだことを、とてもこの姫には告げられない。死人のように生気のないこの姫にとって、会ったこともないあの肖像画の描き手の存在が唯一の心の支えかもしれないのに。
「わかりません。彼を訪ねたのはそれ一度きりで、そのあと会っていないのです」
クルトは半分だけ真実の苦しい嘘をついた。姫はそれ以上追求しなかった。
あと二日ほどで目的地に到着するという夜、イライザ姫は脱走した。
行くあてはない。アロンという若者に会ってみたいという気はあったし、ここから逃げ出せば会えるかもしれないという望みもあったが、それだけが脱走の目的というわけでもなかった。
そもそも、アロンの居場所も、生きているか死んでいるかさえ、姫は知らないのだから、探しようはない。
それでも、姫は確かな決意を持って脱走した。
(アロンは、わたしが希望を見いだすのを願ってくれた。わたしは希望を見いだした)
自由になるという希望、自分の意志で生きるという希望だ。
それがきわめてはかない希望であることを、姫は知っていた。綿密な将来の計画があるわけでもなければ、身を立てるすべを持っているわけでもない。どこにいけばいいのか知っているわけではない。破滅と隣り合わせの危険で無謀な希望だ。
それでも姫は、安全な絶望より、危険な希望を選んだ。投げやりに、流されるままに過ごしてきたこれまでの人生の反動で、一生分の勇気をふるい起こして、生まれてはじめての冒険に乗り出したのである。
当座の生活費とするために装身具類を皮の袋に詰められるだけ詰め、肖像画は絹のベールに大切に包んで、胸に結びつけている。背中に背負おうとも思ったのだが、それが腕のなかにあれば勇気づけられるような気がして、体の前に結びつけたのだった。
しゃにむに草をかきわけて、どのぐらい歩いただろうか。
姫はふいに足を踏みはずした。暗くて、崖にさしかかったのに気づかなかったのだ。
とっさにつかまろうとして差し伸べた手はむなしく宙を切り、姫は夢中で肖像画を抱き締めた。
翌朝、イライザ姫の不在がわかると、一行は周辺をくまなく捜索した。草を踏みしめた跡が見つかり、跡をたどって崖下で姫の遺骸を発見したのは、日が高く昇ってからである。
おとなしくてしとやかな姫がどうしてこのような行動に出たのか、一行にはわからなかった。大切そうに抱きかかえているものが粗末な肖像画という理由はさらにわからなかった。
クルトにさえ、姫の死が自害なのか事故なのか判断がつきかねた。