逃げ出した神の伝説・その1

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大昔出した立川の個人史1冊目「虹の都フーリア」に収録していた異世界ファンタジーです。
頒布し終わって久しいので、3ページに分けて、サイトに全文掲載することにしました。



        1

  切り立つような断崖を背にして建てられた石造りの岩窟神殿の前に、神官たちに付き添われ、七人の着飾った娘たちが立っている。「神の花嫁」と呼ばれる巫女の候補者として選ばれただけあって、美しい娘ばかりだ。
 誇らかな笑みをたたえた娘たちの中で、ただひとり、顔を強張らせ、神殿をにらみつけている娘がいる。黒い髪と茶色の瞳の勝ち気そうな娘で、名はサシャという。美貌のゆえに選ばれたのだと信じて疑わぬ娘たちのなかで彼女だけが、自分たちは売られたのだと気づいていた。
 サシャは幼いころに両親を亡くし、遠縁の猟師の一家に身を寄せていた。サシャが巫女候補に選ばれたのと引き換えに、猟師は数枚の金貨を手に入れた。他の六人も、身寄りがないか、あるいは家族の愛よりもパンの方が大切なほど貧しい家の娘たちだった。
 神殿に祀られているのは荒ぶれる災いの神エデシュである。神に外を出歩かれては災いが撒き散らされるがゆえに、人々は神を崇め、壮麗な神殿を築いたのだった。神を神殿に封じ込め、外に出ようという気を起こさせないように、神に仕え、神をなだめる花嫁の巫女を選ぶ儀式が今から始まろうとしている。
「これはいけにえじゃないの」
 サシャがつぶやくのを聞きとがめて、神官たちがじろりとにらんだ。
 サシャとて、猟師の家に戻りたいわけではない。養家では、子供のころから肩身の狭い思いをしてきたし、こき使われもした。猟師の息子たちの好色な視線も不愉快だった。いつか出て行くつもりをしていたが、巫女になるなどまっぴらだ。いくら猟師の家を出て、食べ物の不自由のない生活が約束されていても、一生を神殿の薄闇に閉じ込められて暮らす気にはなれない。金貨と引き換えに売られたと知っているだけに、サシャの憤りは倍加していた。
 それに、七人の中に、エデシュ神の気に入る娘がひとりもなければ、花嫁を与えられなかった神の怒りを静めるために七人とも殺されることになっている。そんなことは何百年もの昔に一度あったきりだというが、それこそ本物のいけにえだ。
 七人の娘を促して表神殿の広間に入ると、神宮たちは、エデシュ神の坐す奥神殿につづく扉に向かって祈りを捧げた。この神殿には神の像はない。奥神殿につづく扉の脇に祭壇があるだけだ。災いの神は、はるか昔から地下に封じられており、あまりにも恐ろしい姿なので、巫女以外の者が神の姿を知れば災いがふりかかると言われている。
 神官たちは、祭壇で神に捧げるいけにえの羊を屠ると、呪文のような祈りの文句とともに扉を開いた。凶暴な獣のあぎとのように見える奥神殿への入り口を前にして、誇らかだった娘たちの顔に初めて恐怖がよぎった。
 神官たちに追い立てられ、娘たちは緊張と不安に震えながら奥神殿の暗黒の中へと足を踏み入れる。
 天然の洞窟を利用して造られた奥神殿の通廊は、曲がりくねった下り坂となって、果てしなく続いている。神官たちの持つ松明を頼りに、暗黒の通廊を下へ下へと進むうちに、娘たちの聞から、すすり泣きがもれ始めた。
 どれほど下ったろうか。一行はかなり広い部屋にたどり着いた。神官たちが地上へと戻っていき、暗闇の中に七人だけが取り残されると、幸せとは言えない境遇からの逃避と安楽な生活を夢見て巫女になりたがっていた娘たちは、すっかり気が変わっていた。
 今夜巫女を選ぶのは、ここよりもさらに地下深くに封じられた災いの神。だれもが、神のお眼鏡にかないませんようにと切実に願っていた。だが、ひとりも神に気に入られないと七人とも殺されてしまうゆえ、娘たちはみな、心の底で他の娘の不運を望んでいた。
 目が慣れてみれば、この部屋はまったくの暗闇というわけでもない。石の壁に生えたヒカリゴケの明かりで周囲がぼんやりと見てとれる。娘たちはひとところに集まって、心細げに震えている。
「何とか逃げ出せないものかしら」
 サシャがつぶやくと、娘たちが泣き声で口々に答えた。
「すぐに見つかるわ」
「みんな殺されてしまうわよ」
 神殿の前では、新しい巫女の誕生を待って、神官たちが一晩じゅう祈りを捧げているはずだ。たしかに逃げるのは難しい。
「わたしたちは七人よ。神官よりも頭数は多いわ。殴って気絶させて逃げるのよ」
 サシャの言葉に、今度はだれも答えない。すすり泣きだけが周囲の静寂を破っている。そのすすり泣きもいつしか聞こえなくなっていった。
「ちょっと、みんな、眠っちゃったの?」
 サシャの呼びかけにも、周囲はしんと静まりかえっている。
「あきれた。よくこんな時に眠れるわね。みんな、なんて神経が太いの」
 不安を打ち消すように、サシャはわざと陽気な声を上げたが、相変わらずだれも答えない。みなの眠りに何か超自然の力が働いていると、サシャはうすうす気づきかけた。 「もうたくさん。わたしは逃げるわよ」
 言い捨てると、サシャは、手探りとヒカリゴケの明かりを頼りに出口を探した。まもなく壁と同じ石材で造られた扉を見つけ、押し開けて部屋を出たが、そのとたん、足元の段差に気づかず前のめりになった。
 あやうく転びかけたとき、だれかがサシャの体を受け止めた。
 驚いたサシャの顔のすぐそばに、ヒカリゴケのかすかな明かりに照らされて、闇に溶け込むかのような黒い髪にふちどられた若い男の顔がほの白く浮かび上がった。この世にこれほど美しい男があろうかと驚くほどの若者の美貌と、まっすぐ見つめる黒い瞳に、サシャは頼を赤らめた。
「あなたはだれよ? 何でこんなところにいるの?」
 サシャの問いに、若者は返事に困ったように微笑した。
「ここは災いの神さまの神殿よ。見つかったら大変だわ。さっさと逃げるのよ」
「逃げられない」
「何言ってるの。殺されるわよ」
 よく考えてみれば、災いの神エデシュででもなければ、こんなところにいるはずはないのだが、若者の悲しげなほど繊細な美しい顔立ちは、サシャの頭の中で、恐ろしい災いの神とは結びつかない。神殿の奥に迷いこんだ旅人に違いないと、サシャは思いこんだ。
 若者はそっと手を伸ばし、サシャの頼に触れた。若者の美貌に魅せられていたサシャは、抗うことも忘れて彼を見つめた。若者の魂がサシャの魂に触れ、差し招いた。若者の魂の凍りつくほどの孤独と、孤独よりも深い悲しみに、サシャは打ちのめされ、こんなふうに人の魂と魂がじかに触れ合うことのふしぎさにさえ考え及ばなかった。
 若者の魂はサシャの魂を欲し、導かれるままに、彼女の魂はするりと体を抜け出て若者についていった。魂の抜け出た後の体はその場に残されたのだが、サシャは、自分の魂が体を離れたことにも、若者もまた体を持たぬ魂だけの存在であることにも、まったく気づいていない。しだいに地下へと下っていることへの疑念さえ、サシャの念頭には浮かばない。サシャは、ただ若者の悲しみを癒すことだけを考えていた。
 いつしかサシャと若者の二つの魂は、互いを欲し、融合した。互いの孤独と愛と悲しみ、快楽と怒り、魂のすべてが一つに溶け合い、かつて味わったことのない至福の時の後に、サシャは若者のすべてを理解した。
「ペテンだわ」
 闇の中で身を起こし、サシャが言った。いまやサシャは若者の正体を悟っていた。
「わたしは人間だと言った覚えはない」
 言い伝えとは違って美しい災いの神エデシュは、心外そうに答えた。
「神さまだとも言わなかったわよ。これで、わたしは一生囚われの身になってしまったわ」
「わたしは人間の一生の何百倍ものあいだ地下に封じ込められている。好きでこんな暗い所に住んでいるのではない」
「わたしを巻き添えにしなくてもいいじゃないの」
「花嫁を差し出せと、わたしのほうから人間に要求した覚えはない。おまえを花嫁に選ばなければ、七人とも神官に殺されただろう」
「ほかの娘を選ぺばよかったのに」
「七人のなかでわたしの精神と共鳴したのはおまえだけだ。ほかの娘では巫女は務まらぬ」
 サシャは不機嫌そうにぷいと立ち上がると、ふり返りもせずに元の部屋に戻っていった。
 部屋の中央に自分の体が横たえられ、六人の娘と松明を掲げた神官たちが取り囲んでいるのを見ても、サシャは驚かなかった。エデシュ神に導かれた時、自分の魂が体から抜け出したのだと、今ではサシャは知っていた。
 サシャの魂は横たわった体にすっと引き込まれた。サシャが目覚めて起き上がると、神官たちが深々と頭を下げてひざまずき、娘たちは安堵と同情と畏怖の入り混じった視線を向ける。巫女選びの儀式は終わったのだ。
 神官と娘たちが立ち去ったのち、サシャは、先ほど神に導かれたときの感覚を思い出そうとした。
 言い伝えでは、神に導かれてひとたび体から離れるこつを覚えた巫女の魂は、次から自力で体を離れることができるようになると言われている。少し時間がかかり、ぎこちなくはあったが、サシャの魂はふたたび体から抜け出し、エデシュ神のもとへと降りていった。
 サシャはもう神を許していた。神の孤独と愛、悲しみと怒り、魂のすべてを共有し、至福の時をともに過ごした後で、憎むことなどできなかった。美貌の災いの神もまた、サシャが心底から怒ってはいないことをとっくに知っており、花嫁を出迎えた。少なくともそこには、サシャが村の人間たちからは決して得られなかった、確かな魂の粋があった。


        2

 サシャの生活は、今までとは打って変わった幸福なものとなった。猟師の家で厄介者扱いされて育つうちに培われた孤独と悲しみは、エデシュ神との魂の交わりによって癒された。恋に恋する年頃の娘らしい漠然とした憧れは、神の美貌と、魂が交わるときの甘美な喜びによって満たされた。
 かつて孤児のサシャを蔑んだ村人たちは、今ではなくてはならない存在としてサシャを敬い、上等な食べ物を運んでくる。猟師一家や村人たちに対する怒りと反感さえもが、美しい神との甘美な生活のうちに、しだいに忘れ去られていった。
 サシャは変わったと、村人たちのだれもが思った。巫女候補になったときには、こんな不信心な娘では神の怒りを買うかもしれぬと危ぶまれたほど反抗的だったサシャだったが、今では、神々しいほどの威厳をもつ優れた巫女に変貌を遂げている。巫女の役目を忠実に果たすサシャのうちに、巫女になるのを頑なにいやがったときと変わらぬ自由への渇望が根強く潜んでいることに、村人たちはだれも気づかなかった。
 サシャは、自分の思いを心のなかに押し込め、エデシュ神にも語らなかった。表神殿を自由に歩きまわり、テラスに立って外を眺めることができるだけ、まだしもサシャのほうが神よりも恵まれているといえる。地底の暗黒の中に何百年も封じ込められた神に外の世界への憧れを語るのは、残酷なことに思えたのだった。
 だが、毎日のように魂が融合する相手に心の底を隠すのは不可能だ。サシャとエデシュ神の魂が一つに溶け合うたびに、サシャの外世界への渇望は神に伝わり、神のうちに、何百年もの間にあきらめと化していた解放への願いと、封じ込められていることへの怒りが呼び覚まされた。
 サシャとエデシュ神の自由への渇望は、魂と魂の交わりのたびに影響しあい、相乗効果となって、ますます強くなっていく。サシャはこのうえなく危険な巫女だった。
 サシャが抑圧された自由への願望を満たす方法は、ただ一つだけあった。サシャの身は神殿に閉じ込められており、外に出ようとすれば、表神殿に住む神官たちに阻まれるだろうが、魂だけならだれにも知られずに出ていくことができるはずだ。
 サシャはその可髄性に気がついたが、実行に移すのをためらった。自分ひとりだけ望みを果たすのは、神への裏切りのように思えたのだ。たとえ一時的にでも災いの神を外に出してやるわけにはいかないのだから。
 だが、とうとうサシャが誘惑に負ける日が訪れた。
 ある日の神との融合のあと、サシャの魂は、いつになく激しい外世界への渇望に衝き動かされた。
(ほんの少しのあいだだけ。すぐに戻ればかまやしないわ。どうせだれにもわからないのだもの)
 サシャは、自分の体を残したまま神殿の外にさまよい出ると、久しぶりの外界にわくわくしながら、生まれ育った村とは反対の方向へと駆けて行った。魂だけで実体がないので、いくら駆けても少しも疲れない。ふと気がつくと、いつのまにか苗に浮き、風に乗って漂っている。森も野も陽光もすべてが心地よく、サシャはむさぼるように自由を楽しみ、巫女の職務を忘れ去った。
 そのころ、神殿では、エデシュ神がサシャの不在に気づいていた。サシャと魂が融合したとき、いつになく激しい自由への渇望に心を揺すぶられていた神のもとに、不用意に放たれたサシャの魂の叫びが届いたのだ。
(ほんの少しのあいだだけ。すぐに戻ればかまやしないわ。どうせだれにもわからないんだもの)
 サシャは知らなかったのだが、石の扉にも神殿にも災いの神を封じる力はなかった。神の妻たる巫女だけが、今までずっと、神を地下に引き留めていたのだ。その巫女が神を誘うような言葉を残してどこかに行ってしまったのである。
 エデシュ神は、サシャの後を追うように神殿の外に出た。深い喜びが神の心を満たし、神殿はすでに過去のものとして神の意識から遠のいた。サシャのことさえ記憶の片隅に追いやり、神は去って行った。

   表神殿の神官たちは、サシャの魂がそばを通っても気づかなかったが、災いの神の逃亡はすぐにわかった。災いの神が通ったとたん、神殿の外の花や草が帯状に枯れていったからだ。
 事態を察してあわてた神官たちは、巫女の姿を捜して奥神殿に駆けつけた。
 神官たちの騒ぎをよそに、遠く離れた野原では、サシャが自由を満喫していた。この喜びをエデシュ神にも与えてやりたい。そう思うと、サシャの心は少し痛んだ。が、何といっても解放感のほうが大きい。太陽の光を存分に楽しんでから帰途についたサシャは、神殿のそばまできてようやく異常に気がついた。
 神殿のまわりの花や草木が枯れている。広い帯状になって村の方向へとつづく赤茶色の不毛地帯を呆然と眺め、サシャは、神の逃亡に気づいたのだった。
 神殿の前には、村人たちが大勢、不安そうにたたずんでいる。災いの神が解き放たれたことを知って集まったのだろう。
 急いで表神殿の広間に入って、サシャはその場の光景に驚愕した。美しい村娘が七人、巫女候補の豪華な衣装に身を包んで震えている。祭壇の上にはサシャの体が横たえられ、傍らには神官たちが立っている。ひとりの神官の手には、いけにえの羊や鶏を神に捧げる時に使われる宝刀が握られている。
 宝刀の意味するものに気づいて、サシャの魂は声にならぬ悲鳴を上げた。
 神官がサシャの体の上に宝刀を振りかざした。娘たちは小さな悲鳴を上げて思わず目を覆う。
 サシャの魂は夢中で体の中にすべり込み、祭壇から転げ降りた。宝刀は、勢いあまって祭壇に突き刺さり、神官たちは驚いてサシャを見つめる。さっきまで自分の心臓があった位置に突き立つ宝刀を見て、サシャの額からどっと冷や汗が噴き出した。
「な、何をするのよ! わたしを殺す気?」
 サシャが神官たちにくってかかると、宝刀を手にした神官が答えた。
「おまえは巫女の資格を失った。エデシュさまが坐所から出られたのは、おまえへの愛が失せたからだ。お怒りを鎮めるためには、神さまに疎まれた巫女をいけにえとして捧げ、新しい花嫁を選ばねばならぬ」
「そんなことをしても、神さまはお戻りにならないわ」
「お気に召す花嫁を与えられれば、お戻りになるだろう」
「神さまはわたしに満足なさっている。わたしをとても愛して下さっている。それでも、何百年も閉じ込められていたら、少しぐらい外に出たくなるのはあたりまえでしょう」
「お出になられては困る。エデシュさまの歩かれた跡は、草木も畑の作物も枯れ、人には災いが降りかかる。そうさせないのが巫女の務めではないか」
「だから、巫女のわたしがエデシュさまを連れ戻しに行こうとしているんじゃないの。それなのにわたしを殺したら、災いの神さまは永久に外を歩きまわるわよ。いいえ、それだけじゃない。最愛の妻を殺された神さまの怒りってものを想像してみるのね。あんたたちは皆殺しにされるわよ」
 自分の命がかかっているだけに、サシャは必死でまくし立てた。サシャの脅かしに神官たちは動揺したようだ。互いに顔を見合わせ、ひそひそと相談してから、最も年老いた神官がおもむろに口を開いた。
「そなたの言葉は真実かもしれないし、苦しまぎれの言い逃れかもしれぬ。そなたに三日三晩の猶予をやろう。その間にエデシュさまを連れ戻すがよい。ただし、行かせるのはそなたの魂だけだ。体はここに残して行かねばならぬ。もし、三日後の日暮れまでに神さまを連れ戻せねば、そなたの命は絶たれるだろう」
 サシャは怒りに頼を紅潮させて老神官をにらみつけると、無言で祭壇から宝刀を引き抜いてその場に放り出し、再び壇上に身を横たえた。


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