逃げ出した神の伝説・その2

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大昔出した立川の個人史1冊目「虹の都フーリア」に収録していた異世界ファンタジーの2ページ目です。
頒布し終わって久しいので、3ページに分けて、サイトに全文掲載することにしました。


 
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  夕闇が垂れこめるなかを出発したサシャの魂は、災いの神の破壊の跡をたどって一晩じゅう飛びつづけた。神官たちへの激しい怒りのために我を忘れて、暗闇にも恐怖を感じない。
 わたしは人質だ、とサシャは患った。今までもずっと人質だったのだ。人間は神に花嫁を与えて愛させるようにしむけ、その花嫁の命を楯にすることで、神を地底に封じつづけてきたのだ。
 無力な生き物ゆえの自衛手段とはいえ、人間たちのなんとと惨く狡猾なことだろう。それにひきかえ、エデシュ神は、いつでも逃げることができたのに、花嫁として与えられた人間の娘を救うために、敢えて地下に留まっていたのではないか。
 そう思うと、身勝手な人間たちのためにふたたび神を囚われの身にするのは、理不尽な気がしてきた。
 それでもサシャは、エデシュ神を捜し、再び封じなければならない。まだ死にたくはないし、神がサシャの命の危険を承知のうえで逃げ出したのかどうか確かめたい。今まで囚われの身に甘んじていた神が、ついに自由のためにサシャを見殺しにしようとしているとは思いたくない。
 神の愛を確信しているサシャは、初めのうち、エデシュ神はすぐに戻ってくるに違いないと思っていた。が、夜が明けるころまで飛んでも、神の軌跡は神殿から遠ざかっていくばかりだ。
(わたしの体が神殿に残されていることに、エデシュは気づいていないかもしれない)
 ふいにサシャは、そう思いついた。サシャの魂が神殿を出たのを知ったとき、神は、サシャがひとりだけ先に逃げ出したのだと思いこんだのではないだろうか。それなら神は二度と戻って来るまい。

 夜が明けそめるころ、本当に殺されるかもしれないという恐怖に身震いするサシャの魂に、ふいにだれかが呼びかけた。荒れ地と化したエデシュ神の軌跡の縁に、緑の髪の女神が立っている。
「わたしは森を治める者」と、女神は語りかけた。
「そなたは《災い》の巫女であろう? エデシュのおかげでわらわは迷惑している。この惨状を見るがよい。早々に《災い》を地下に連れ戻してもらわねば困る」
  怒れる森の女神に謝ってから、サシャは思わず訊ねた。
 「エデシュは自ら好んで災いをもたらすわけではありません。彼が幸福に暮らせる場所は、どこにもないのでしょうか」
「愛があれば幸福であろう? そのための巫女ではないか。それとも、そなたはもう《災い》に愛を与えることができぬのか?」
 暗に、おまえはもう人質の用をなさぬのかと言われたような気がして、サシャはむっとなった。
 人間たちだけでなく、同じ種族の神でさえ、巫女を人質に取ってもエデシュ神を地下に封じようと望んでいる。森の豊穣を守る女神と災いの神では、相反するのはしかたがないが……。サシャはエデシュ神がかわいそうになった。
 森の女神と別れたあとで、サシャは、河の神や野の神などに出会ったが、みな、災いの神が早く封じられることを望んでいた。サシャでさえ、自分の命を救うために、エデシュ神から束の間の自由を奪おうとしている。戻ってくれないと神官たちに殺されると言えば、エデシュ神は、サシャのために自ら神殿に戻るだろう。神の愛を利用しようとしていると思うと、エデシュ神が哀れで、サシャは自分自身にさえ腹を立てた。
 そのころ、災いの神エデシュは砂漠にいた。一目見た時から、エデシュ神は砂漠が気に入った。砂漠では、森や野を治める神々のうっとうしい呪岨の声を聞くことはない。それに何よりも、どこまでもつづく大地の果てしない広大さとぎらぎらとまぶしい太陽の輝きは、神殿の地下にはなかったもので、神をすっかり魅了した。
 それでもエデシュ神は、最初の日没のころまでは、すぐに神殿に戻るつもりでいた。サシャの声に誘われるように神殿を抜け出したものの、サシャが神殿に体を残しているだろうと、すぐに気がついた。
 太陽が地平線に沈み、たそがれがあたりに垂れ込めると、神はサシャの身が心配になり、帰途に就こうとした。
 そのとき、ふいに笑い声がして、エデシュ神は傍らに一柱の女神が立っているのに気がついた。
 くるぶしまで届く金色の長い髪、赤銅色の肌、豊満な肢体の美しい女神を、災いの神は驚いて見つめた。
「やっと気がついたのね。あまり楽しそうだから、声をかけそびれたわ」
「あなたは何者なのだ? わたしが怖くはないのか?」
「怖い? どうして? あなたはこんなに美しいのに」
「森の女神も野の神もわたしを恐れた。わたしは災いの神だからな」
「わたしは砂漠の女神イフェ。この砂の世界を治める者に、災いの神を恐れる必要はないわ」
 イフェ神は屈託のない笑い声を立て、エデシュ神は、何百年ぶりかで同族に出会ったことを知った。森の女神も野の神も、しよせん災いの神とは相反するもの。だが、この砂漠の神はエデシュ神と共通する性質をもつ、まったき同族だった。
 女神は災いの神の白い頬に手を伸ばした。
 あまりにも長いあいだ同族の存在を忘れていた二柱の神は、互いを欲し、融合した。人間の巫女との融合では味わえぬ種類の快楽に、エデシュ神はサシャのことをしばらく忘れた。そしてひとときの融合のあとでは完全に忘れ去っていた。
 エデシュ神は知らなかったのだが、イフェ神は忘却をも司る神だったのだ。砂漠を旅する人間がイフェ神のささやきを聞くと、水が欲しいということ以外、故郷も家族も自分の名もすべてを忘れて歩みつづける。ときには歩くことも忘れ、もうろうとした意識のうちに命を落とすこともあると言われている。
 同じことがエデシュ神の身にも起こっていた。あるいはイフェ神は、人間の娘でありながら美貌のエデシュ神に深く愛されたサシャを妬んだのかもしれない。
 ともあれ、災いの神は、神殿のこともサシャのことも思い出さぬまま、一晩じゅう金色の髪の女神と過ごしたのだった。

   サシャが災いの神の軌跡をたどって砂漠へと行き着いたのは、太陽が中天高く昇るころだった。
 そこでサシャは神の軌跡を見失った。草も生えぬ砂漠では、災いの神が通る前も通った後も変わりがない。サシャは神の姿を求めて、二日と二晩さまよった。
 とうとう最後の日になって、サシャは神の行方を知った。青い宝石のようなきらめく水面のオアシスで、青い髪に青い肌の美しい子供の姿をした水の精霊たちが、サシャの問いに口々に答えたのだ。
「ぼくたちの主、砂漠の女神イフェさまの新しい恋人が、災いの神さまに違いない」
「夜のように黒い髪、塩のように白い肌のとても美しい方だと、イフェさまは自慢していらしたわ」
「でも、オアシスにはお連れできないとおっしゃってた。災いの神さまなら当たり前だ」
 サシャは、ようやくエデシュ神を見つけたという安堵よりも、嫉妬と怒りに駆られて、美しい精霊たちに詰め寄った。
「砂漠の女神さまはどこにお住まいなの?」
「この砂漠全部がお住まいさ」
「でも、たいていは、このずっと先の一枚岩にいらっしゃるよ」
 精霊たちの指さす方に行くと、砂漠の中に巨大な平たい岩が突き出ているのが見えてきた。岩の上に並んで座っているのは、金の髪の美しい女神と恋しいエデシュ神。
 女神は、ふわりとサシャの前に降り立つと、豊満な肢体を誇示するかのように胸をぐいと反らせて言った。
「人の子の魂よ、何の用でわが寝所を訪れる?」
「エデシュ神をお迎えにまいりました」
 サシャの答えに、女神は高らかな笑い声をたてた。
「わたしの恋人は、おまえなぞ知らぬと言っている」
 かっとなるサシャの前にエデシュ神が降り立ち、じっと見つめた。
「わたしはおまえを知っているような気がする。おまえは誰なのだ?」
「本当にわたしを覚えていないの?」
 悲痛なサシャの思いを感じ取って、エデシュ神は動揺した。イブェ女神が横合いから口を出す。
「人の子と神はまったく異なる存在。理解しあうことなどできはしない。エデシュ、その娘は、人間どものために、あなたを地底深くに閉じこめようとしているのよ」
 女神の言葉はほとんど真実だった。サシャは返す言葉を失って黙りこみ、エデシュ神はもの問いたげにサシャを見つめる。神の視線から逃げ出すように、サシャの魂はその場を飛び去った。

 サシャは砂漠に横たわり、日没を待った。魂だけなので、砂の熱さも大気の暑さも感じない。生身の旅人にとっては暴君ともいえるぎらつく太陽も、死の国に赴いては二度と浴びられぬと思えば狂おしいほど慕わしい。本能的な死への恐怖と、神殿の地下などよりもまったき闇の死の国に行かねばならないという絶望と、エデシュ神に忘れ去られた悲しみ、それに奇妙なことに、エデシュ神に惨い仕打ちをせずにすんだことへの安堵の混じった思いが、サシャの魂を浸していた。
 ふいにサシャの傍らに、エデシュ神が現れた。サシャは、信じられないというように神を見つめる。
「人の娘よ」
 神が呼びかけた。
「おまえは、わたしを地底に閉じ込めるために来たのか?」
 幻覚でないと気づき、サシャは跳ね起きて頷いた。
「何のために?」 神が訊ねた。
「わたしのために」
 エデシュ神は当惑げに眉をしかめて言った。
「おまえはわたしに敵する者ではない。親しく近しい者のはず。おまえの魂はわたしと共鳴し、おまえの悲しみはわたしを呼び寄せる。おまえは何者なのだ? わたしは恩い出さねばならぬ」
 記憶の底に沈み忘れられたはずの絆に引き寄せられるように、エデシュ神はサシャにぴたりと寄り添った。二つの魂は互いを求め、一つに溶け合った。長い融合の時のうちに、サシャのあらゆる思い、すべての記憶が神に流れこみ、イブェ女神の忘却の魔法を打ち砕いていく。
 何もかも恩い出し、サシャのおかれた苦境をも知ったエデシュ神は、驚いてサシャから身を離した。
 そのとき西に傾いていた太陽が完全に地平線に没し、突然サシャが悲鳴を上げた。神殿に残してきた体との絆が完全に断ち切られ、命を失ったことを、サシャは激しい苦痛のうちに知ったのだった。
 エデシュ神が博然と見守るうち、一陣の疾風とともに、死の馬にまたがった死の精霊が現われ、馬上からサシャの魂をつかみ上げて走り去った。


        4

 一瞬のうちにサシャが死の精霊に連れ去られるや、エデシュ神はすぐさま後を追いかけようとした。怒りそのものと化した災いの神の行く手に砂漠の女神が立ちふさがり、呼びかける。
「愛しいエデシュよ、どこに行くの?」
「死の国に。死の神に頼んで、サシャを返してもらいにいく」
「ばかなことを……。ひとたび死の国に入った人間は二度と生き返れない。それが死の国の掟。あの娘は人間なのよ。しよせん、わたしたちとは違う、死すべき生き物ではないの」
「サシャはまだ若い。自由を望んでいながら、ついに自由を得られなかった。死の国の虜囚となるには早すぎる。サシャを助け出さねばならぬ」
 なおも引き留めようとするイフェ神をふり払い、エデシュ神は死の国を目指した。死の国の馬は速く、とっくに姿を見失っていた。が、もともと災いと死は兄弟のようなもの。エデシュ神は馬の軌跡をたどることができた。
 地の底深く、この世ならぬ死の国へと降りていくと、死の神ウパシュ自らエデシュ神を出迎えた。
「久しぶりだな、《災い》よ」
 死の神が呼びかけた。
「そなたは小賢しき人間どもの手によって封じ込められたと思っていたぞ」
「ごたくはけっこう。わが巫女を返してもらいたい」
「そなたを封じ込める人の娘を何ゆえに取り戻したがる? 死者を生き返らせることができぬくらい、知っておろうに……」
「サシャは巫女。魂が体を離れることに慣れている。生きた体なくして地上に留まることもできよう」
「なるほど」
 ウパシュ神は苦々しげな笑いを浮かべた。
「まったくそなたは災いの神よ。死の国にまで災いをもたらすと見ゆる。そなたの巫女はここにはおらぬわ」
 そう言うと、死の神は、背後に控える従者たちに合図をした。まもなく、当惑げな災いの神の前に死の精霊が馬をひいて現れた。死の国の馬は黒い翼が片方へし折れ、死の精霊は右腕に傷を負っているようだ。
「そなたの巫女のしわざよ。災いの神に仕える間に魂が人並みはずれて強くなったと見ゆる」
 死の神の言葉に、エデシュ神は驚いて言った。
「では、サシャは逃げ出したのか?」
 死の神が頷く。
「人の魂はみな、命を失って体から切り離されれば、死の精霊に抗うことなどせぬというのにな。死の国での安息よりも、亡霊となって人に恐れられることを望むものなど、《災い》の巫女ぐらいのものよ」
 エデシュ神はすぐさま地上へと上り、サシャを探した。神が歩いた後には、見るも無残な破壊の後が残され、人々の嘆き、野や森の神々の怒りの声が聞こえた。だが、災いの神は気に留めることもなく、何日もサシャを探して旅をした。

 そのころサシャは神殿に戻っていた。こんなふうに命を絶たれた理不尽さへの怒りに駆られて、死の精霊に傷を負わせて逃げ出した後、サシャは、自らの体に引かれるように、神殿に戻ったのだった。
 胸の傷も生々しく、祭壇の血だまりの中に横たわる自分の亡骸を見て、サシャの全霊は怒りに震えた。サシャは、神官や村人たちに怒りをたたきつけてやりたいと望み、復讐を欲した。
 己れの存在を知らせようというサシャの意志のままに、サシャの魂は、祭壇のまわりに集まっていた神官や村人にも見えるようになり、恐ろしげな悲鳴が上がった。
 サシャがぐるりと見回すと、神官や村人たちは悲鳴を上げて後ずさった。本当は走って逃げ出したいのだが、恐怖のために足がすくんで走れないのだ。
 サシャの視線が血まみれの宝刀を持った神官の上に止まった。神官は、蛇ににらまれた蛙のようにサシャから目を離せぬまま、恐怖に目を見開いた。
「わたしが怖いの? わたしを平気で殺したくせに、復讐されるのは恐ろしいのね」
 嘲るようにそう言うと、サシャは神官に向かって一歩踏み出した。手を伸ばせば届くはどのところまでサシャが歩み寄ったとき、がたがた震えていた神官はすさまじい悲鳴を上げて、死の国に逃げ込もうとするかのように、己れの胸に宝刀を突き立て事切れた。
 けたたましい女の悲鳴が響きわたり、とたんに金縛りの呪縛が解けたかのように、他の神官や村人たちは、わっと叫んで逃げ出した。
 サシャは、神官の亡骸に手を伸ばすと、怯える魂をむりやり死体から引き離した。死してなおサシャの怒りから解放されなかったと知った神官の魂は、サシャの魂の放つ怒りと憎悪のすさまじさに恐怖し、すくみ上がった。
 と、ふいに黒い翼の馬に乗った死の精霊が疾風のように現れ、神宮の魂を担ぎあげると馬を止めた。馬はサシャを見て、翼を傷つけられた時の痛みを思い出したのか、怯えたようにいなないた。
「死の精霊よ、わたしを連れていくつもり?」
 精霊の黒い目を見据えて、サシャが訊ねた。怯えきった神官がひしと死の精霊に取りすがる。精霊はまっすぐサシャを見つめて口を開いた。
「怒れる娘よ、安らぎが欲しくば共に死の国に来るがよい。安らぎを拒む魂をむりに連れていくことはせぬ」
「だれが行くものですか。わたしを殺した者たちがみんな地上でのうのうと生きているというのに。あの連中を死の国に連れていけばいいのよ。わたしがあなたの仕事を増やしてあげる。わたしの命を奪った者たち全員に復讐してやるわ」
「人間に復讐するには殺せばよかろう。だが、災いの神にはどうやって復讐するのだ?」
 死の精霊の言葉に、サシャは意表をつかれ、精霊を見つめた。言葉もなく立ち尽くすサシャの前で、死の精霊は馬を駆って疾風のように立ち去った。
(死の精霊は、わたしの怒りを消そうとしている)
 サシャは思った。
(わたしの死の原因をつくったのは、たしかにエデシュかもしれない。でも、わたしを手にかけたのは人間ども。憎むペきは人間どもよ。わたしはエデシュを憎んではいない。だから、死の精霊は、エデシュの名を持ち出せば、わたしが怒りをそがれて安らぎを求めると思ったのに違いない。死の精霊は、わたしが自分から死の国に行こうとするように仕向けているんだわ。そんな手に乗るもんですか)
 そう考えると、サシャは、逃げた神官や村人たちを追って村へと向かった。
 サシャに追いつかれた人々は、死せる巫女の魂が放つ怒りと憎悪に堪えきれず、ある者は自ら命を絶って死の国に逃げ込み、ある者は狂気の中に逃げ込んだ。そのなかを死の精霊が忙しげに行き交い、時おりサシャに迷惑そうな視線を向ける。
 なかでも神官たちは最もサシャの憎しみを受け、ほとんどが命を落としたが、ただひとりだけが運よく逃げのびて、神通力を持つと名高い聖者の庵にたどり着いた。
 神官の訴えを聞いて、聖者はすぐさまエデシュ神を祀る村へと出発した。神官の道案内で、聖者が到着したときには、生き残った村人たちは散り散りになって逃げ出し、村は無人と化していた。
 逃げ遅れた者を残らず屠り去っても怒りの静まらぬサシャの魂は、うまく逃げおおせた者への復讐を求め、隣の村に向かおうとした。
 村を出ようとしたとたん聖者たちの姿を見つけ、サシャは、まだ逃げ遅れた者がいたのかと訝った。すぐに片方が取り逃がした神官と気づき、怒りにかっと燃え立ったが、すぐに、もうひとりが臆病な神官や村人たちとは異質な存在だと悟り、危険を感じて身構えた。
「死せる娘よ。ここはおまえのいるべき場所ではない」
 聖者の呼びかけにサシャが答える。
「わたしのいる場所はわたしが決める。おまえに指図されるいわれはない」
「おまえは死の国に行かねばならぬ」
「いやだと言ったら?」
「ならば、地上で害をなせぬように、おまえを地下に封じ込めるまでだ」
 そう言うと、聖者は、超自然の力を秘めた太古の祈りの言葉を唱えながらサシャに触れた。激しい怒りのために強大になっているとはいえ亡霊にすぎぬサシャの魂は、歌とも呪文ともつかぬ太古の言葉に込められた魔力にたちまち圧倒された。抗うこともできぬまま、サシャの魂は、エデシュ神の神殿の中へと聖者に引きずられていく。
 聖者は、奥神殿のさらに奥、エデシュ神の坐所だった地底にサシャを押し込め、巫女選びの儀式に使う部屋から地底へとつづく石の扉を太古の祈りの言葉によって封印した。
 念のために奥神殿と表神殿の境の扉をも封印したとき、聖者は、ふいにまがまがしい気配を感じ取ってふり向いた。そこに立っていたのは、美しき災いの神エデシュ。神秘の力をもつ聖者には、常人には見えぬ神の姿が見える。亡霊のサシャを封じた聖者だが、亡霊と神とでは格が違う。災いの神には手も足も出ない。
 畏怖に青ざめる聖者に、エデシュ神が口を開いた。
「常ならぬ力をもつ人間よ、サシャの魂はどこにいる?」
「この扉の向こうに」
 聖者がかすれた声で答えた。
「では、扉を開けよ」
「できませぬ。扉は封印いたしました。封印の効力が薄れるのは数百年の後。それまでは、この扉の封印は、亡霊にも、肉体を持たぬ神にも、人の父母より生まれた人の子にも解けませぬ。美しきエデシュよ、あなたにも私にも、かの娘を出してやることはかないませぬ」
 エデシュ神の無表情な顔に、一瞬、痛みとも悲しみともつかぬものがよぎった。
「美しきエデシュよ、すべてはあなたが神殿を去ったことから始まったもの。巫女はあなたに去られた科によって死に、村に災いをもたらした科によって地底に封じられたのです。あなたが望むなら、村人たちは、あなたのために新しい神殿を築き、新しい巫女を捧げるでしょう」
「巫女が殺された今となって、何ゆえに再び地底に留まらねばならぬ理由がある?」
 エデシュ神は、冷たい眼差しを聖者に向けて言った。
「わが巫女が科によって地底に封じられたと言うなら、そなたは、不運な娘の魂を地底に追いやった科によって、死の国に封じられるがよかろう」
 そう言うなり、エデシュ神は聖者の額に触れ、立ち去った。
 超自然の力を持つ聖者は、災いの刻印を押され、生まれて初めて恐怖に打ち震えた。だが、聖者の恐怖は、神殿を出て、不安におののきながら待っていた神官に声をかけたとたんに終わりを遂げた。
「安心なされ。巫女の亡霊は二つの扉で封じ込めた。だが……」
 そう言ったとたん、神殿の上から崩れ落ちた石材が聖者の頭上に落ち、聖者はふいの災難のために絶命した。
 驚きと恐れのあまり腰を抜かした神官は、しばらくがちがち震えていたが、自分には災難がふりかかるようすがないので、やがて落ち着きを取り戻した。聖者の災難は偶然だったのだと自分に言い聞かせて、神官は、散り散りになった村人たちに知らせるペく去って行った。


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