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国賓用の寝室の豪華な寝台に腰をかけて、夜着姿の女が艶然と微笑んだ。王女たちの美貌を見たあとでは霞んでしまうが、それなりに美しい女だった。
玄焔は、なるべく好色そうに見える微笑を浮かべているが、そのじつ、女に向けた視線は冷やかで、女の表情や言葉の端々からできる限り多くの情報を読み取ろうと注意を集中している。女のほうも同じことだ。
最初、サラライナ人の通訳が、正使の洪金栄に夜伽の接待を要求されたからと言って女を連れてきたとき、玄焔は内心で舌打ちした。
洛帝国と違って、サラライナには賓客に夜伽の女性をあてがう習慣はないゆえ、洪の要求はきわめて屈辱的だろう。
だが、接待を辞退しようと口を開きかけたとき、玄焔は、通訳の背後に控える女のようすに興味をそそられた。
ほの暗い灯のもとでも、女にサラライナ人の血が薄いことは見て取れる。面長で平板な顔立ち、ややつり上がり気味の細い目は、洛人やサシャ人に多い容貌だし、髪も瞳もサラライナ人には珍しい漆黒だ。肌の色がやや濃いのも日焼けのせいだけではあるまい。何よりきわだっているのは、女の全身から漂うある種の雰囲気。殺気というほどあからさまではないが、隙を見せれば寝首をかかれそうな油断のなさだ。
夜伽を命じられて泣く泣く従っている女官とも、急ぎ招かれた街の娼婦とも見えぬ。
それで玄焔は、女を部屋に招き入れ、女が注いだ酒を飲むふりだけしてそっと床に捨てた。
ただの女官や娼婦ではあるまいという確信は、上着を脱ぎ捨てた女を抱きすくめたときにはっきりした。
柔肌とはとてもいいがたい筋肉の引き締まった腕。かといって、両の手は農夫や下働きの女のような荒れ方をしておらず、剣や弓の練習に励んだ者特有の蛸ができている。
妖しく媚態をふりまいていた女は、抱きすくめられた一瞬だけ、娼婦の仮面を忘れてぶるっと身震いした。が、すぐに、なまめかしく男の首筋に指を走らせはじめたから、それが嫌悪感ゆえの身震いだとは、玄焔でなければ思いつきもしなかっただろう。
「何だか……眠くなってきた……」
ためしにもの憂げな声でつぶやいてみると、女がほっと安堵したように緊張を解くのが感触でわかった。女はけげんそうなようすを見せず、薄明りの中で眠たげに目をしょぼつかせる玄焔を眺め、かすかにほくそえんだ。
(酒を飲まなかったのは正解だったな)
こぼした酒に何が入っていたのかはわからないが、なんらかの薬物がしこまれていたのに違いあるまいと、玄焔は推測した。
「旅でお疲れなのでしょう」
女は、探りを入れるようにサラライナ語でささやいた。
「何と……言っているのか……わからない」
玄焔が洛の言葉で答える。女はしばらくためらい、今度は洛語でささやいた。
「少しお休みになるとよろしいですわ」
「ああ……そうしよう」
洛語で話しかけられたことに玄焔が疑念を持つ気配がないのを見て取ると、女は、安心したように再び洛の言葉を口にした。
「気持ちをお楽になさいませ」
「……ああ……そうだな」
「洛はずいぶん広い国なのだそうですね」
「……そう……広い」
「華陽の都は、きっと美しい都なのでしょうね」
「……とても……美しい都だ」
「洛帝国の皇帝さまは、お偉い方なのですね」
「……そう……たいへん……偉大な方……」
「お子さま方にも恵まれておいでなのでしょう? 皇子さまは五人でしたわね?」
「……そうだ……五人」
「太子さまはどんな方?」
「……学を好み……武勇の誉れ高く……文武ともにすぐれた方」
「皇帝さまと太子さまは仲がよろしいの?」
「……もちろん……陛下は太子殿下をたいそう寵愛なさっておられ……信頼もひとかたではない。……太子殿下も……孝行な方で……陛下を敬愛しておられる」
「ほかの皇子さま方は?」
「……二番目の暁王殿下は……ことに学問に秀で……幼少のころから博士たちも一目おくほどで……古書聖典に通じ……」
表面的なことを答えながら、玄焔は、自分の声が独特の節を持つように工夫するのを忘れない。聞き手を催眠状態に陥れる特殊な話術なのだが、薬物を用いるのとは違って、効き目が顕われるには時間がかかる。ことに、この女のように意志の強い人間は、何か動揺するようなことでもないと、なかなか術にはまりにくい。
質問が皇子たちのことから後宮の女たちのことへと移ると、話術の効き目が遅いのに業を煮やした玄焔は、かまをかけてみた。
「……今のところ……皇帝の寵がもっとも厚いのは……嵯柘(サシャ)太夫だ」
「嵯柘太夫? 嵯柘太夫とはだれだ? まさか、サシャ国のシウラン姫か?」
女の声が震えている。
(やはり、サシャ国からの亡命者か)
容貌から、もしやと思っていたのだが、予想通りだったようだ。
サシャ国、洛語で嵯柘国と呼ばれる国は、沙蘭国の北、洛帝国軍の常駐する鴻山砦にもっとも近い国で、現在は洛の属国となっている。七年前、洛の遠征軍に敗れ、事実上の独立を失ったとき、サシャ国から周辺諸国に亡命したとみられる者の数は多い。洛帝国軍は嵯柘国の支配権を手に入れ、国王を処刑し、王妃と王子ふたりと王女ひとりを洛に連行したことで満足して、亡命者たちの追求はしなかったのだ。
「シウラン姫……嵯柘夫人ではない……」
無表情を装いながら、玄焔が答えた。
「嵯柘太夫は……リクシュン王子……宦官になった……」
「何……?」
言われた意味がわからないというように、女は茫然とした口調で問い返したが、数瞬の間をおいて、ようやく意味を悟ったらしい。
「宦官? 宦官だと? リクシュン王子が?」
玄焔の期待以上に、女は動揺していた。
「皇帝の寵だと? どういうことだ?」
「リクシュン王子が……華陽の都に連行されたとき……後の憂いをのぞくために処刑すべきだと……いう声が高かった。……だが、王子は皇帝に恭順の意を示し……皇帝は……王子の美しさを惜しんで……誇りに固執して処刑されるか……幽閉の身で生涯を送るか……宦官となって洛宮廷に仕えるか……三つに一つ……選ぶ余地を与えられた。……王子は……宦官となる道を選んだ」
「そんな……」
愕然と見開かれた女の目から涙が流れ、嗚咽がもれた。王家とよほど親しい間柄だったのだろう。そう睨んだ玄焔は、事実に効果的な脚色をおり混ぜながら、話しつづけた。
リクシュン王子の決断に、やはり虜囚となっていた王妃が打ちのめされ、幼い末の王子を抱いてシウラン姫とともに池に身を投じたこと。だが、シウラン姫は命をとりとめ、兄王子の推薦で後宮入りしたこと。今では、兄妹とも、後宮での生活に慣れ、皇帝の寵を競って受け入れていること……。
動揺しきった女は、催眠効果をもつ特殊な抑揚の玄焔の話術に引き込まれて、その話しぶりが、薬物を盛られたにしては饒舌すぎることに気づいていない。
頃合いよしと見て、玄焔は、半眼に閉じていた目をかっと見開いた。女は、吸いつけられるように玄焔の瞳を凝視する。たとえ意識のすみでまずいと感じても、もはや目を逸らすことはできないはずだ。
催眠術の抑揚を用いたまま、玄焔はサシャ語で質問した。
「おまえの名前は?」
「カウリン」
「サシャ王家に連なる者か?」
「そうだ」
「どんな縁だ?」
「わたしの母は亡き国王さまの姪で、わたしはリクシュン王子の妃となるはずだった」
それほど身分高い者とは思っていなかったので、玄焔は驚いた。せいぜい、宮廷の忠実な侍女というあたりを予想していたのだ。
「だれの命令で私を探ろうとした?」
「わたしの一存」
「なぜだ?」
「王子の消息を知りたくて」
「それにしては、洛の皇帝陛下や皇子殿下たちのことを執拗に聞いていたな。なぜだ?」
「レアウレナエーさまたちの好意に報いたかったから」
カウリンの言葉を、玄焔はまるまる鵜呑みにはしなかった。たしかに、術にかかった者は当人が真実と信じるところを話す。だが、それは必ずしも真実とは限らない。虚偽を真実だと信じこんでいたり、術にかかる前に、虚偽を真実と思いこむように自己暗示をかけていたりすれば、当人も自覚しないまま偽りを口にすることもある。
薬物を盛ろうと企んだことが発覚した場合に備えて、命令した者の名を口には出さないように暗示をかけておいたというのは、いくらなんでも考えすぎだと思われたが、一方で、セウネイエー王女ならそれぐらいやりかねないという気もする。
いずれにしろ、これ以上追及するのはむだだ。玄焔は質問を変えた。
「セウネイエー姫は超自然的な力を持っているのか?」
「何?」
「セウネイエー姫は竜巻を起こせるのか?」
「起こせるわけがない」
(あの力は秘密にされているのか?)
竜巻を起こした騎士と姫は別人かもしれないという可能性も考えないでもなかったが、まずそういうことはあるまい。
「セウネイエー姫は、剣が強いのか?」
「とても強い」
「どのくらい?」
「この国に、男でも女でも、姫より剣の強い者はひとりしかいないと聞いた」
「そのひとりとは?」
「聖騎士さま」
「聖騎士は実在するのか?」
「皆はそう言っている」
「見た者がいるのか?」
「いるらしい」
「だれだ?」
「チェルダム国と戦った兵士たち」
「それは、九年前にチェルダム国がサラライナに侵攻しようとしたときのことだな」
その話なら、玄焔は、鴻山の砦にいた少年時代に聞いたことがある。サラライナの危機にどこからともなく聖騎士が現われて、チェルダム軍を追い払ったとかいう話だった。玄焔の父をはじめ、砦にいた洛の武将や兵士たちは、作り話だと言っていたが……。
「そのとき、聖騎士がサラライナ軍に加勢して活躍したというのは事実なのか?」
「事実だと聞いた」
「その後、聖騎士を見たものはいないのか?」
「聞いたことはない」
「噂でも、聖騎士に関する話が流れたことはないか?」
「洛帝国の使節団の前に聖騎士さまが現れて行く手を阻まれたとか、怒りをあらわされたとかいう噂なら聞いた」
もうそんな噂が広まったのかと、玄焔は舌打ちした。おおかた、兵士たちが話しているところを、洛語を解するサラライナ人に聞かれたのだろう。それとも、この女かまた別のにせ娼婦が、いちはやく兵士たちに接近して聞き出したのかもしれない。
ともかく、九年前の戦いの時なら、セウネイエー姫はせいぜい八、九歳。その後、聖騎士が一度も姿を現していないというなら、姫と聖騎士はまず関係あるまい。
(九年前に活躍したのなら……)
少年の日に、砂漠で賊に襲われていたところを助けてくれた少年騎士のことを、玄焔はふと思い浮かべた。あれはたしか、チェルダムとサラライナの戦いから、一年とたっていないときのことだった。あの騎士なら、聖騎士だとしても驚きはしないが、今となっては、わざわざ知る必要のないことだ。
(待て、セウネイエー姫といっしょに、もうひとりいたのではなかったか)
竜巻に巻き上げられたときに見たような気がした二つの人影のことを、玄焔は思い出した。
「セウネイエー姫といつも行動をともにしている騎士はだれだ?」
「さあ?」
「では、姫といちばん親しい人物は?」
「レアウレナエー姫さま」
「ほかには?」
「父王さま、侍女で乳姉妹のナムナエー、わたし、宰相さま、……」
その後、女は、謁見の間に臨席していたサラライナの高官数人の名を連ねた。どう考えても、姫といっしょにいたと思えそうな人物はいない。いちばんありそうなのはカウリン自身だ。
「おまえはきのう、我々がサラライナに着くよりしばらく前、都の外に出たか?」
「いいえ」
それなら、カウリンではないことになる。玄焔は、質問の方向を元に戻した。
「セウネイエー姫が常の人とは違うというような噂はあるか?」
「もちろん常の人とは違う。王女殿下だ」
「いや、そうではなく……、王女だという以外には?」
「衣装や宝石には興味を持たれず、いつも男のようななりをしておられる」
「ほかに何か、常の生まれでないことをほのめかすような噂は?」
「ご生誕まもないときに、シャシュ神殿の巫女にするようにと、巫女長さまから申し入れがおありだったと聞いたことがある」
「巫女に? なぜだ」
「たぶん、亡き母王妃さまが天女さまだったからだろう」
「天女? どういうことだ?」
「くわしくは知らぬ。天から下られた方で、いながらにして、遠くのできごとを知ることができたという」
(では、あれは母親から受け継いだ力なのか)
天女というのは、洛帝国で神仙とか仙人とか呼ばれる人々のことだろうかと、玄焔はいぶかった。洛帝国では、西方の山々のどこかに常人離れした力を持つ神仙たちが住むとか、ふつうの人でも厳しい修業を積めば仙人になれるのだとか、古くから言い伝えられている。現に、神仙だと称して皇帝に取り入っている者や、巷で評判になっている者も大勢いる。だが、そういう者たちは、玄焔の知るかぎりでは、ひとり残らずまやかしか狂人だ。
玄焔は、神仙伝説など今まで本気にしたことはなかった。だが、セウネイエー姫に常人離れした力があるからには、母親にも同じような力があったとしてもふしぎではない。
「王女たちの母親が天女だというのは、サラライナ人がみんな信じていることなのか?」
玄焔が念を押すと、意外な答えが返ってきた。
「王女殿下おふたりともの母君ではない。天女と言われていたのは、セウネイエー姫さまの母君だ。その方を天女だと信じていない者も多い」
「王女たちは異母姉妹なのか?」
「そうだ」
「レアウレナエー姫の母というのは?」
「最初の王妃さま。サシャ国の王女で、絶世の美女とうたわれたリーレンさまだ。亡き国王さまの姪御で、わたしの母のいとこにあたる」
術にかかりながらも得意そうな声からすると、カウリンにとって、サラライナに嫁いだ遠縁の王女がよほど自慢なのだろう。
「では、その王妃はどうなったのだ?」
「レアウレナエー姫さまがお小さいころに亡くなられた」
「セウネイエー姫の母王妃が嫁いできたのは、その後のことか?」
「そうだ」
「その後添いの王妃を天女と信じていない者がいると言ったな? では、その者たちは、二度目の王妃をどう思っているのだ?」
術が効いているにもかかわらず、カウリンは答えるのをためらった。セウネイエー姫の母の悪口を口に出すことに、かなりの抵抗があるのだろう。術が解けてはまずいから、質問を替えようかと玄焔が考えたとき、カウリンは口を開いた。
「平民の娘か他国から売られてきた奴隷ではないかと。身分低い娘を王妃にしては反対が起こるが、かといって妾妃にするにはしのびず、天女だということにしたのではないかと言っている」
洛使節がセウネイエー姫を留学させるようにと求めたときのサラライナの廷臣たちの態度を、玄焔は思い出した。美しく才気に富む王女が連れ去られようとしているわりに、廷臣たちの反応は鈍すぎた。
「では、レアウレナエー姫が世継ぎの位を降りても、セウネイエー姫が世継ぎになるには、反対する者が何人もいるわけだな」
「たぶん」
これは、洛帝国にとっては多少なりとも好都合な情報だった。
レアウレナエー姫が洛の皇妃になっても、サラライナの重臣たちのあいだでは、世継ぎには王弟マヒリではなくセウネイエー姫を望む声がほとんどだろうと予想していたのだが、マヒリの即位を支持する者も意外と多いかもしれない。
とはいっても、たとえセウネイエー姫の母方の血筋に疑問を持つ者でも、洛の息のかかった王弟よりも、素性の知れぬ女を母に持つ王女のほうがはるかにましだと考える可能性は高いのだが……。
「一部とはいえ、重臣たちに妹姫を軽んじるところがあれば、王や王女たちにも隔意が生じるのではないか? 王やレアウレナエー姫がセウネイエー姫を軽んじたり、セウネイエー姫が姉姫を妬んだりすることはないのか?」
「ない」
カウリンは断言した。
「レアウレナエー姫さまとセウネイエー姫さまはたいへん仲がよろしいし、陛下はセウネイエー姫さまを世継ぎの姫以上に慈しんでいらっしゃる」
カウリンの言葉を聞き流しかけて、玄焔は、ふと気になったことを訊ねた。
「世継ぎの姫以上に? それは、王が世継ぎの姫よりも妹姫のほうをかわいがっているという意味か?」
「そうだ。陛下はセウネイエー姫さまにはおやさしいが、レアウレナエー姫さまには少々冷たい」
と、そのとたん、玄焔は背後に激しい殺気を感じた。とっさに女を突き飛ばし、横に転がる。寝台のわきに膝をつき、戸口をふり返ると、薄明りの中にふわりと長い髪がなびき、ほとんど足音も立てずに、何者かが走り去った。が、玄焔が急いで廊下に飛び出すと、人影はもうどこにも見当たらない。
部屋に戻ると、今のはずみで術が解けたらしいカウリンが、茫然とその場に突っ立ち、意識をはっきりさせようとするかのように頭をふると、寝台に手を伸ばして、今しがた人影が投げつけたものを拾い上げた。
玄焔は、カウリンに飛びつくと、女の手からそれをむしり取った。短剣でも投げつけられたかと思ったが、ただの耳飾りだ。高価そうな品だが、持ち主の見当をつけられそうな紋章の類いはいっさい入っていない。
「これに心当たりは?」
玄焔がサラライナ語で訊ねると、とっさに返事しかけた女は、はっとなって玄焔を睨みつけた。
「おまえ、サラライナ語が……」
「そちらこそ、洛語が話せるのだろう?」
「わたしに何をした?」
玄焔は冷笑しただけで先の問いを繰り返した。
「だれか、いまさきこれを投げつけたのだ。これに心当たりは?」
「知らぬ。わたしのものでないことは確かだ」
女は早々と落ち着きを取り戻し、冷笑を返した。
「おまえを見初めた女官か娼婦が妬いて投げつけたのではないのか? おまえは洛人にしては見目よいほうだからな」
「なるほど。ほんとうに知らないか、聞いてもむだかのようだな。では立ち去るがよい。それともつづきをやりたいのか」
玄焔の視線に、カウリンは自分の夜着姿に目を落とし、玄焔を睨みつけると、手早く衣装を身につけて立ち去った。
翌朝、カウリンは、他の使節たちの寝所に赴いていた女たちに、副使の部屋に行った者がいるか訊ねてみた。間諜の役割りもこなせる女たちばかりで、それぞれ疑われることなくさまざまなことを聞き出してはいたが、副使の部屋を探りにいった者はいないという。
まさかと思って王女たちの居間を訪れ、侍女たちをさがらせてから、昨夜のことを口にした。
「耳飾りを投げたのなら、わたしだけど」
セウネイエー姫が怒っているようすもなく答えた。
「副使が油断ならないことはわかっていた。他の使節たちと同じように考えないほうがいい。それで気になってようすを見にいったの」
「術らしいものをかけられていたあいだのことは何も覚えていないのです。副使に何かまずいことをしゃべったでしょうか?」
「それほどまずいことじゃない」
セウネイエー姫の答えにも、カウリンは安堵しなかった。レアウレナエー姫にけげんそうなようすがまったくないところを見ると、昨晩のことは姉姫も知っているとみえたからだ。重大と考えなければ、わざわざ姉姫に報告するはずがない。
「おっしゃってください。何をしゃべったのでしょう?」
「あなたの素性」
それは、カウリンも予期していたことだった。リクシュン王子が宦官になったと聞かされて動転したところまでは覚えている。
「ほかには?」
「あとはたいしたことはない」
セウネイエー姫が明確な答えを避けたことで、カウリンは不安になった。それを察してレアウレナエー姫が口をはさんだ。
「カウリンがすべて知りたいと思うのは当然のことですよ。わたしも全部を聞いてはいません。くわしくお話なさいな」
それでようやく妹姫は、玄焔がカウリンから聞き出したことをくわしく話しはじめた。とはいっても、玄焔が妹姫に超常的な力がないか探ろうとしていたところは大部分省略した。この部分は王女たちにとってとくに重要だったから、姉姫にはすでにくわしく話してあったし、カウリンにさえ秘密にすべき問題だったのだ。
いきおい話の中心は、セウネイエーの生母の身分に関する噂になる。カウリンは蒼白になった。
「わたくしがそんなことを……」
「別にたいしたことではないけれど」
セウネイエー姫が言ったのは本心からだった。幼いころには心ない噂に傷ついたこともあった。噂自体よりも噂に込められた悪意に動揺したものだが、それはすでに過去のことだ。セウネイエーは、自分の生母が奴隷女でも村娘でもなかったことを知っていたし、もともと身分の貴賎にこだわらないたちだったから、たとえほんとうに母が奴隷の身分だったとしても気にしなかったろう。それに、姫自身の人気が成長とともに高まるにつれて、いつしか生母の素性をとやかく言う者は少なくなっていた。
だが、カウリンはひどく衝撃を受けていた。
「わたくしがそんな非礼なことを……。もしや、まだほかにも?」
セウネイエー姫はためらった。さっきのように、カウリンの気持ちを思いやったためだけではなく、ほんとうに口にしたくはなかった。だが、董玄焔が聞き出した内容を姉姫に正確に伝えておく必要があると思いなおした。
「おとうさまがおねえさまに対して少し冷たいと言っていたわ。それで全部よ」
「そんなことまで……」
愕然とするカウリンに対して、レアウレナエー姫は表情ひとつ変えずにしばらく考えこんでから口を開いた。
「別に副使に聞かれたからといって困るようなことではありませんね。副使のほうもそれほど気に留めてはおらぬでしょう。気に留めてくれたほうがむしろ都合がよいのですが」 けげんそうなカウリンに、レアウレナエー姫は説明した。
「父王の愛情をめぐって、あるいはセウネイエーの生母の素性をめぐって、わたしたち姉妹のあいだに溝があると副使が思いこんでくれたとしたら、なにかと好都合です。わたしたちの行動に関して判断を誤ることが出てくるでしょうから。だが、副使はそのような短絡思考をするたちではないと思います。わたしたちのあいだに溝があるかもしれないという可能性は考えるかもしれないけれど、そう思いこむことはないでしょう」
レアウレナエー姫の言葉を聞いているうちに、カウリンは、国王が自らの娘に隔意を抱く理由が少しはわかる気がした。
父王が、強い信頼で結ばれた王女ふたりのあいだに入りこめずに疎外感を抱くのも、その疎外感が、感情をはっきり表に出しやすい妹姫を前にしたときよりも、つねに冷静な姉姫に対したときに表面に出やすいのも、無理からぬことかもしれない。
が、そんなことよりも、いまは気にかかることがある。
「董玄焔にしてやられたのはわたくしの不覚です。けれど、姫さま、お願いです」
カウリンがみなまで言わぬうちに、レアウレナエー姫はお願いの内容をくみ取った。
「カウリン、そなたの素性を知られた以上、洛帝国には行かぬが賢明でしょう。母国の王子や王女のことは、亡き者と思ってあきらめたほうがよい。とはいっても、それではそなたの気持ちはおさまらぬのでしょうね」
「この目で確かめるまでは。お願いです」
「危険は承知の上ですね」
「我が身に降りかかる危険ならば。咎められることがあれば、姫さまがたには類が及ばぬように身を処するつもりです」
「その心配はしていません。危険なのはそなたの身です。おそらくそれも大丈夫だろうと思うけれど」
しばらく思案したのち、レアウレナエー姫はふたたび口を開いた。
「わかりました。カウリン、そなたを連れていくかどうかは、出立までに使節たちのようすを見て判断します。そなたほど頼りになる侍女はめったにおらぬし、たぶんそれほどの危険はないと期待しているのですが」
「副使はわたしの素性を他言せぬと思われるのですね」
「それは、副使が自分の能力を人に隠そうとしているか、それとも隠すつもりがないかにかかっています。そなたの素性を人に話そうとすれば、どんな手段でそのようなことを聞き出したのかも話さなければなりません。あのような術が使えることを正使たちに隠しているのならば、おそらく他言せぬでしょう。サシャ国の遺臣の娘が今さら王子と王女の安否を確かめようとしたところで、洛にとって危険と判断するとは思えませんからね。それなら、自分の能力を隠しておくほうを選ぶでしょう。そういう期待はできますが、しかし先入観は禁物です」
「わかりました」
カウリンが退出すると、レアウレナエー姫は妹姫に向き直った。
「返事は保留にしたけれど、できるならカウリンを連れていきたい。彼女のためだけでなく、むしろわたしたちのために。あれほど頼りになる侍女はめったにいないし、本当に危険にさらされているのは、カウリンよりも、セウネイエー、あなたなのだから」
「わたしの秘密を副使は他言するでしょうか。もし他言したとしても、わたしが砂嵐を起こしたなど、そう簡単にはだれも信じないと思いますが」
「それはむろんだけど、もっとも危険な人物に秘密を知られているということを忘れてはなりません。それに、そなたの身を脅かすのは洛人だけでなく、自分自身でもあるということを忘れないように。力を使ってはいけません。絶対に。あの力は、使えば使うほどそなたの命を縮める。そなたの亡くなったお母さまがそうおっしゃったのですよ」
レアウレナエー姫は、妹姫の肩に手をかけ、菫色の瞳をのぞき込んだ。
「これだけは約束して。洛に行ってもあの力は使わないと。自分の命に関わるような場合でもないかぎり」
こんなときの姉には抗がいがたく、セウネイエー姫はとまどった。が、すぐに姉の言葉を言い直した。
「約束します。わたしたちの命に関わる場合以外は」
これだけは、譲るつもりは毛頭なかった。
「それにしても、董玄焔という名前……」
レアウレナエー姫は考え込むように口に出した。
「ずっと以前、洛人の少年が単身サラライナを訪れたことがありました。あの少年は、たしかゲンエンと名乗っていたように思うのだけれど」
セウネイエーは驚いて姉を見た。
「ほんとうですか?」
「昔のことなので自信はありません。記憶違いかも。偶然同じ名前なのかもしれないし……」
ずばぬけて記憶力のよいレアウレナエー姫だが、あまりにも昔のことだ。しかも、その少年と出会ったころ、レアウレナエー姫は今ほど洛語に堪能ではなかったし、洛人の名前は、サラライナ人からみればどれも似たりよったりに思える。たしかに、その少年の名がゲンエンだったと言いきる自信はない。それに、ゲンエンというのは、洛ではありふれた名前なのかもしれない。 セウネイエー姫は、姉の言葉で、遠い記憶をまさぐってみた。たしかに、幼い子供のころ、洛の少年がひとりで砂漠を渡ってサラライナまでたどり着いたと、宮廷じゅうで話題になっていたことがあったというかすかな記憶はある。だが、その少年の名まで覚えていなかった。