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「あの騎士のこと、ほんとうにだれも知らないんでしょうかね?」
サラライナの市場を見て歩きながら、朱明羽が口を開いた。供も連れず平服姿の明羽と玄焔はすっかり周囲の雑踏のなかに溶けこんでおり、通りを行きかう人々も洛帝国の使節とは気がつかない。
「そうだな。知っていたとしても、ごく限られた者だけだろうな」
意味ありげな玄焔のもの言いに、明羽はけげんそうな視線を向ける。
「なにか見当がついておられるのですか? 沙蘭王が関係しているとか?」
明羽の問いには答えず、玄焔はもの思いに沈んでいる。重ねて問いかけようとしたものの、玄焔の思索をじゃまするのもためらわれて、明羽は口を閉ざした。
サラライナ王アムゴーカは、洛の使節たちを歓迎こそしなかったが、豪華な宿舎を用意し、酒宴をひらいて丁重にもてなした。だが、サラライナの手前で洛帝国の使節を脅かした謎の騎士を捕らえようという気はあまりなさそうだ。
「褐色の顔布とマントの騎士だ。本気で探しておるのか? かばいだてするとためにならぬぞ」
護衛隊長の嚇秀に詰め寄られても、サラライナ国の役人たちは当惑げに首を振るだけ。隠し立てしているというよりは、ほんとうに何も知らないように見えた。
玄焔は、ちらりとかいま見た謎の騎士の素顔のことを、洪金栄や嚇秀はむろん、明羽にも話していない。セウネイエー姫にまちがいあるまいという確信はあるが、少なくとも確かな証拠が手に入るまでは伏せておこうと思っている。もっとも、話したところでだれも本気にしないだろうが……。
あの騎士のことを、サラライナの民衆は何か知っているのではないか。そう思って、玄焔は、店をのぞきこんでは店主の商人に話しかけ、さりげなく謎の騎士のことに水を向けてみたのだが、収穫はさっぱりだ。
「褐色の顔布とマントの若い騎士? そういえば、そんな人をきのう見かけたな。捜し人かね?」
「いや、そういうわけではないが、何やら剣呑な雰囲気を漂わせていたので気になってな」
「そういえばそうだな。でもまあ、あの騎士が何かもめごとを起こしたという話は聞かないからね。だんなも心配性だね。他人ごとなのに」
その程度に注目していた者はいたが、ただそれだけだった。騎士の素性や素顔を知っている者はだれもいない。故意に隠しているとも思えない。
それでもサラライナ語のわからない明羽は、玄焔が店々の商人たちと話すのを、好奇心に目を輝かせて聞いている。玄焔は、街で交わした話の内容をそのたびに明羽に教えてやった。
「だが、さすがに王族の噂話となるとみんな口が堅いな」
玄焔は感嘆の声を漏らした。話の折々に、王族や重臣たちの人柄や人間関係などに水を向けてみたが、あたりさわりのないことしか話してくれない。王女ふたり、とりわけレアウレナエー姫の秀麗さに話が及ぶと、あきれるくらい雄弁に自慢しはじめるのだが……。
「沙蘭の国王って、そんなに怖がられているんでしょうかね?」
威厳はあったが温和そうな国王の風貌を思い出してか、明羽はけげんそうに首を振った。
「民の結束が固いのだろう。つねに周囲の強国に狙われている国だからな。それに、国王といい、王女たちといい、ずいぶん民に好かれているようだし」
「洛じゃ考えられませんね。でもまあ、あれだけ美人じゃ無理もありませんかね」
言いながら、明羽は、玄焔が背後にちらちら視線を向けているのに気がついた。
「どうしました?」
「あの若者、さっきから後をつけてくる」
玄焔の視線の先にいるのは、青い帽子に青いマント、青い顔布、腰に剣を帯びた人物である。顔布のために容貌はわからないが、背丈やきゃしゃな体型から推して、まだ少年と言ってよい年齢だろう。さりげなく道端の商人と話をしながらも、油断なく玄焔たちのほうを窺っている。
「隊商かなんかの子供じゃないんですか。……いや、それにしちゃ、身のこなしに隙がありませんね」
危険な旅をする隊商は、自衛のために剣を帯びているし、戦いの訓練も積んでいる。だがそれにしても、目の前の若者は、まるで敵地の中に立っているかのように隙がなさすぎた。剣の使い手、それも相当な凄腕だろう。見たところ幼そうだから、よけい目立つ。
しばらく歩きまわりながら、玄焔と明羽はときおりちらちらと背後をふり返る。青に身を包んだ少年は、つかず離れずついてくる。
とちゅうで玄焔は、店先の商人と会話を交わしながら、唐突にいま来たほうをふり返ってみた。一瞬、数軒離れた店先でじっとこちらを見ていた少年と視線がぶつかる。が、すぐに少年は店の商品にと視線を移した。
「明羽、こちらを向かずに返事しろよ」
歩き出してからすぐに、玄焔が前方を見たままささやいた。
「え?」
反射的にふり向きかけて、明羽はあわててまた前を向いた。
「後ろの若者、こちらの唇の動きを読んでいる」
「え、でも、かなりの距離ですよ」
「遠目の利く者なら読み取れるだろう。わたしの目でぎりぎり読める距離だ」
玄焔がかなり遠目の利くほうだということを、明羽は思い出した。
「われわれは洛の言葉でしゃべっていますよ」
「星寧姫は洛語を解していた」
「え? 気づきませんでした。洛語のわかる沙蘭人はけっこう多いんでしょうか」
玄焔は無言だった。
「何者でしょう? まさか、きのうの……」
沙蘭の手前で出会った謎の騎士のことを思い出して、明羽は唾を飲みこんだ。
あの褐色の顔布の騎士も、剣は凄腕の使い手ながら体格は子供のようだった。その相似に明羽は緊張した。
「さあな。マントや顔布の色は違うが……」
気のない返事とは裏腹に、玄焔も緊張に表情を引き締め、いつでも抜けるように剣のつかに手をかけている。
そのままどのくらい歩いたろうか。背後に迫る殺気に、玄焔は剣のつかに手をかけたままふり返った。
「おい、待て!」
同時にサラライナ語の叫び声が上がる。少女のような声だ。それとも、まだ声変わりしていない年齢の少年か。
青に身を包んだ少年騎士の制止を振り切って、狂気に目を血走らせた男が剣を振りかざして玄焔に斬りかかった。見知った男である。鴻山砦から同行してきたサラライナ人の案内人。謎の騎士の襲撃を受けたあと、気が触れてしまったのを、引きずるようにサラライナまで連れてきて街路に放り出した男である。
玄焔が身を交わすと同時に、明羽が暴漢の背中に剣を振り下ろした。
「やめろ! 斬るな!」
「よせ、明羽」
背後の少年の叫びと玄焔の制止する声がほとんど同時に重なった。が、遅すぎた。明羽の剣が男の背中をなで払い、男は鮮血を飛び散らせながらその場に倒れ伏した。
「あっ」
我に帰ったように明羽が声を漏らす。尾行者に緊張していたときだったから反射的に斬ってしまったが、狙われた玄焔が剣の達人なのに対して相手は素人。殺すまでもなかったと気がついたのだ。
と、血だまりのなかで男が呷いた。玄焔の制止で、明羽の剣先はとっさに急所をはずしていたようだ。
男は狂気の宿った眸でなお玄焔を見据え、半身を起こそうとする。瀕死の重傷を負いながら、そのさまは、戦いに慣れた玄焔や明羽でさえぞくりとするほど鬼気迫るものがあった。
剣を手にしたまま食い入るように男を見守る明羽のようすは、周囲の者には、男にとどめを刺そうとしているように見えたようだ。
「やめろ! 殺すな!」
青づくめの少年が飛び出してきて、瀕死の案内人をかばうように立ちはだかった。
「何者だ? そいつの仲間か?」
明羽らしくもなく、声が緊張にうわずっている。が、少年はその問いを完全に無視して、明羽と玄焔をかわるがわる睨みつけた。
「この男は重傷を負っている。おまえたちに危害を加えることなどできはせぬ。どうしてもというのなら……」
少年が剣のつかに手をかけると、明羽も血糊に赤く染まった剣を構え直した。
「きさま」
「よせ、明羽」
玄焔は、顔を少年のほうに向けたまま、目配せで明羽を制した。
「王女を斬るわけにはいかない。あなたも、洛の使節に斬りかかったとあっては具合が悪いでしょう、星寧姫」
「え?」
明羽はもちろん、まわりの人だかりからも、あちこちから驚きの声が漏れた。玄焔は洛の言葉で話したのだが、周囲の人だかりのなかに洛語を解する者がけっこういたようだ。
少年と見えた人物は、つかのまためらい、青い帽子と顔布を脱ぎ捨てた。そこに現われたのは、まさしくセウネイエー姫その人。一同は、瀕死の案内人のことも忘れて砂色の髪の美少女を凝視した。
皆に案内人のことを思い出させたのはセウネイエー姫だった。
「だれか、早く医者を」
群衆に向かって一言叫ぶと、王女は、瀕死の男のかたわらに膝をついて抱き起こし、手にした青い顔布を包帯がわりに男の傷口に巻きつけた。
「しっかりなさい。あなたには何の罪も責任もないのだから」
男は、信じられないというようにセウネイエー姫の名を口に出した。
「お怒りでは……ないのですか? ……聖騎士さまは……お怒りに……なられたのに」
「違う。だれもあなたに怒る理由などない。あなたは巻きこまれただけ。巻きこんだりしてはならなかったのに」
案内人は、弱々しく、だがほっと安心したように微笑した。もう助かるまいということは、かたわらに立つ玄焔にも見てとれた。それは王女にもわかったようだ。
「しっかりして」
悲痛な声を上げると、セウネイエーは額に手を伸ばしかけた。額飾りに封印した力を、こんなに大勢の人間の前で、わけても洛帝国の使節の前で解き放つわけにいかないのはわかっていた。だが、それでも、思わず額飾りに手をやらずにはいられなかったのだ。
玄焔は、セウネイエー姫にそっくりの少女騎士が砂嵐を起こしたときのことをよく覚えていた。少女騎士が額飾りを取り外すと砂嵐が起こったのだ。その額飾りと、セウネイエー姫の額飾りは瓜二つ。 姫が額飾りをはずすと、今度は何が起こるのか? 玄焔は固唾を飲んで見守っていたのだが、それを確かめることはついにかなわなかった。安心したような微笑を浮かべたまま、案内人ががくりと頭をたれたからだ。
セウネイエー姫は亡骸を抱きかかえたまま微動だにしない。あまり長くそうしていたので、玄焔と明羽は、姫が泣いているのかと落ち着かなくなった。
だが、やがて面を上げたとき、夕闇色の瞳に涙はなかった。かわりに、刃のような視線を玄焔たちに向けると、案内人の亡骸を地に横たえ、ふたりの洛人を無視してまわりを取り巻く群衆に埋葬の指図をした。
案内人の息子と娘が王宮を訪れたのは、その二日後のことだった。
謁見室ではなく、王女たちの居間に通されたふたりは、部屋に入るなり思わず吐息をついた。部屋じゅうに色とりどりの衣装や織物が並べられているのも壮観だが、その中に立つ三人の高貴な女性の美しさは、どんな衣装も足元にも及ぶまい。
そのうちレアウレナエー姫とセウネイエー姫は、遠目に拝謁したことが何度かあったが、こうして近くで目にする美しさはまた格別だ。
いまひとりはサシャ国からの亡命者カウリンだったが、兄妹は彼女の名を知らない。
王女たちは、洛に旅立つための衣装選びと称して居間に集まっていたのだが、そんなものはほとんど名目にすぎない。実際には、いつ洛の使節が入ってくるかもしれぬ謁見室を避けてあれやこれやの打ち合わせをしており、一段落ついたところだった。だが、そうとは知らない少年と少女は、衣装選びの私的な時間を邪魔したと思い、恐縮している。
「王女さま、お願いがあってまいりました」
まだ子供といってよい年ごろの少年は、レアウレナエー姫の前にひざまずいて奏上したものの、深い湖水の色の瞳に見つめられると、気後れして言葉を失った。
「あ、あの、王女さま、わたしたちも洛にお連れください」
兄より二つ、三つ年下と見える少女が、しどろもどろに口を出した。
「チムチャとサムピナといいましたね。そなたたちの父御のことはセウネイエーから聞いています。父御には気の毒なことをしました」
レアウレナエー姫の言葉に、兄妹は耳まで赤くなった。
父の悲報を知ってふたりが母とともに駆けつけたとき、セウネイエー姫はすでに立ち去っていたが、王女が父を看取ってくれたことは、居合わせた人々に聞かされた。父が裏切り者ではないと、王女が断言してくれたという話も聞いた。
そのため町の人々が亡き父やその妻子に向ける目は変わり、同情的になったものの、裏切り者という声が完全に消えたわけではない。
「王女さまはおやさしいからああおっしゃったが、あの男が洛人たちを案内してきたことに変わりはないじゃないか」
面と向かって言われたわけではないが、そういう陰口を耳にしたことがある。
兄妹自身、父が裏切り者だという思いを捨てきれずにいる。自分たちがその償いをしないかぎり、一家の名誉は回復しない。そう思いあぐねて王宮を訪れたものの、門前払いをされる覚悟はしていた。
だが、私的な部屋に通されて身近に拝謁を許されたうえ、世継ぎの王女にまで慰めの言葉をかけられて、ふたりはすっかり感激していた。
「お願いです。どうかわたしたちをお連れください。父の償いをして、名誉を回復したいのです」
チムチャが勇気を奮い起こして願い出たが、レアウレナエー姫の返事はすげない。
「その必要はありません。そなたたちの父御は何も罪を犯してはいません。旅人の案内をするのは案内人の仕事。父御はその仕事をしたまでのこと。父御が案内してきたのは使節であって、軍隊ではないのですよ」
「でも……。でも、父のせいで王女さまがたは困ったことに……」
「使節の要求が少々迷惑なものだったというのは、そなたたちの父御のせいではありません。そもそも使節たちの案内をできるのは、そなたたちの父御だけではありません。父御が断っていたとすれば、だれか別の者が案内してきたことでしょう。また、仮に父御が故意に使節団を迷わせようとして成功したとしても、別の使節が派遣されたでしょう」
「でも……」
「母御のこともお考えなさい。夫を失ったうえに子供ふたりに去られたのでは、母御がどれほど悲しむことでしょう」
「母の元には幼い弟と妹が残るから平気です」
「そういうものではないでしょう」
「お願いします。父の名誉を回復したいのです」
「回復するもなにも、先ほども申したように、そなたたちの父御の名誉はいささかも損なわれてはいませんよ」
「みんなそうは思ってはいません。口に出して謗られることはありませんけれど」
兄の言葉に妹のサムピナが口添えした。
「わたしたちだって、納得しきれていないのです。王女さまがたはおやさしくて、父をかばってくださいますが、ほんとうに父が聖騎士さまのお怒りを買わなかったのかどうか、確信がもてないのです」 「サラライナの聖騎士は罪なき者を罰するようなことをしない」
横からセウネイエー姫がきっぱりと言いきった。
「あなたたちのおとうさまに罪はない。ただ巻き込まれただけよ」
父の狂気と死の原因となったのがセウネイエーの起こした竜巻だとは知らないチムチャとサムピナは、王女が父を弁護すればするほど、下々の者に対する彼女の優しさに感じ入るばかりだった。そのようすを見て取ると、セウネイエーは何と言っていいかわからず口をつぐみ、かわりに姉王女が子供たちに訊ねた。
「それで、そなたたちはどうしたいのですか」
「近所の人たちや親戚や友人たちにもわかるように、はっきりした形で父の名誉を回復したいのです。母や弟妹たちのためにも。自分自身が納得するためにも」
「それで? どうすれば父御の名誉を取り戻せると思っているのです?」
「王女さまたちのお役に立ちたいのです。お役に立って、聖騎士さまが祝福して下さるようなことができれば……と思っています。わたしたちに何ができるかはわからないのですが」
レアウレナエーは深いため息をついた。
「そなたたちは洛語が解せるのですか」
「はい」
兄妹は同時に元気よく叫んだ。
「では、わたしがもうよいと言うまで、洛人の前で洛語がわからぬふりができますか」
ふたりは当惑げな表情になったが、チムチャがすぐに事情がわかったというふうに目を輝かせた。
「つまり、間諜みたいなことがやれるかってことですね。やれます! ぜひ、やらせてください!」
「そんなたいそうなことは必要ないのです。ただ、洛人たちが、そなたたちに言葉がわからぬと安心して話しこんでいることがあっても、口をはさんだり言葉がわかるそぶりを見せたりせずに、会話を聞き取ることができればよいのです。ただし、言葉がわからないふりというのは、あんがい難しい。洛人たちがわたしたちやサラライナの悪口を言っていても、腹を立てているところを見せてはならないし、興味のある会話を耳にはさんでも、好奇心や驚きを表に出してはなりません。聞き耳を立てるのに熱心すぎるとあやしまれるでしょうから、欲張ってもいけません。できますか?」
「できます」
「やってみせます」
どうやら希望が叶えられそうだと察して、チムチャとサムピナは口々に叫んだ。そんな子供たちに、姉姫は重ねて問いかけた。
「剣は使えるのですか?」
「使えます」
「得意です」
セウネイエーが異議を唱えようと口を開きかけたが、レアウレナエーはそれを制し、少年と少女に向きなおった。
「侍女も従者も、わが身を守れる者しか連れて行かぬことになっています。そなたたちの腕のほどをあとでだれかに試させましょう。剣の腕しだいでは、洛への旅の供に加えてもよいけれど、状況によっては、洛に着きしだい、折り返して戻ることになるやもしれませんよ」
「なぜです? なぜ、ずっとお供してはならないのですか?」
「わたしは後宮に入るのだから、男の従者は連れて行けぬし、若すぎる侍女を連れて行くのも避けたいのです。セウネイエーも、サラライナ人の従者や侍女をどれだけ手元に置けるかわかりません。護衛の兵は折り返しサラライナに戻ることになろうし、侍女たちの多くも、いずれ返されることになるでしょう」
しょげかえったふたりに、王女は言い添えた。
「それに、危険な任務を頼むことが出てくるやもしれませんよ。たとえば、サラライナ王あての秘密の手紙を運んでもらうというようなことを。それでもよいのですか?」
レアウレナエーの言葉に、兄妹はたちまち目を輝かせる。
「はい。王女さまたちのためなら、この命も惜しくはありません」
「わたしもです」
言い募る兄妹の言葉を、レアウレナエーが遮った。
「それではいけません。それなら連れてはいけません」
とまどったような表情の子供たちに、世継ぎの王女は諭すように言った。
「命を捨てては任務をまっとうできません。自分の命を粗末に扱うものに、大切な仕事は任せられません」
兄妹は束の間ためらい、それからうなずいた。
「わかりました」
「任務をまっとうするために、自分の命を大切にします」
「わたくしが言いたいことは少し違うのですが」
姉王女は眉根を寄せながらも、うなずいた。
「まあ、いいでしょう。中庭でお待ちなさい」
命じられてふたりが退出したあと、セウネイエーとカウリンが、合点がいかないという視線を世継ぎの姫に投げかけた。
「ねえさま、あの子たちには危険すぎます」
「皆が納得しますまい。同行を願い出て許されなかった者が何人もおりますのに」
それは事実だった。王女たちのそば近く仕える侍女たちは、ほぼ全員が同行を願い出たが、レアウレナエー姫はほとんどの侍女の同行を認めなかった。王女たちそれぞれの乳母や乳姉妹でさえ例外ではなかった。
かわりに姉王女は、王宮に仕える女戦士たちから志願者を厳選して、侍女に仕立てた。それを不服に思っている古参の侍女たちが、飛び入りの市井の民、それも子供を連れていくと知って、黙っているはずがない。
だが、レアウレナエー姫は気にするようすもなく微笑した。
「すべてはあの子たちの剣の腕しだいですよ。自衛能力が乏しければ連れては行きません。カウリン、そなたがあの子たちの腕を試してくれますか?」
セウネイエーとカウリンは、なおも何か言いたげではあったが、ふたりとも、世継ぎの姫がいちど決めたことをかんたんに覆すような人ではないことをよく知っている。
カウリンは一礼すると案内人の子供たちの待つ中庭へと向かった。彼女が遠くに立ち去った頃合いを見計らって、レアウレナエーは妹に向きなおった。
「あのふたりから目を離さないように」
「というと?」
「あの子たちの目的は、少なくともいまのところ、わたくしたちの役に立って自分たち一家の汚名をはらそうということだけで、他意はないでしょう。だけど、何かのきっかけで、正使を殺して父の敵を討とうとか、ばかなことを考えないともかぎりません」
セウネイエーは、はっと息を飲んだ。
「そんな……。それならどうして、連れて行くなんて約束なさったんです?」
「だめだと言えば、あの子たちは、ふたりだけでわたしたちの後を追ってくるでしょう。でなければ、供のなかに紛れこむぐらいやりかねませんよ。それぐらいなら、いっしょに来ることを許して、目の届くところに置いておいたほうが安心です」
レアウレナエーが人の心のうちをはかり、行動を予測するさまを聞いていると、セウネイエーは、姉にも自分と同じ超自然的な力があるのではないかという気がしてくる。
姉の読みがはずれたことは、セウネイエーの知るかぎりめったにない。だが、それは超自然的な力によるものではない。姉は相手の表情やしぐさからその心のうちを推し量るのだと、セウネイエーは知っている。ただ、他の者が真似をしようとしても、なかなか同じようにはいかないだけだ。
「危険なのに。わたしのせいだ」
姉の前でしか言えない言葉を、セウネイエーはつい口に出してしまう。
「そうではない。わたくしもあの場にいましたが、案内人のことまでは気がまわりませんでした」
慰めの言葉を口に出したが、ほんとうの慰めにはならないことは、レアウレナエーにはよくわかっている。セウネイエーの起こした竜巻が、ひとりの民を狂わせ死に至らせたことは、紛れもない事実なのだから。
そのうえ、男勝りと評判の妹姫には、ふつう以上に感受性が強く傷つきやすい一面がある。ことに、封印された力が関わっているときには。姉姫しか気づいていない妹姫のもろさは、封印された力の代償なのだ。
セウネイエーの秘密を知らぬカウリンは、中庭へと急ぎながら、王女たちの意外な甘さをいぶかっていた。
長年そば近くに仕えてきた侍女たちにさえ、洛に連れては行けぬときっぱり言い切ったレアウレナエー姫が、あんな子供たちのわがままをあっさり許したのも解せなければ、子供たちの父が殺されたときにたまたま居合わせただけのセウネイエー姫が、まるで自分の責任のように彼らのことを気にかけるのも不可解だった。
カウリンの知っているかぎりでは、レアウレナエー姫は、しとやかで優しくはあるが、反面、果敢な決断力を秘めた女性だし、セウネイエー姫は、たしかに民たちにも分けへだてなくふるまう気さくな姫だが、けっして無益なことをくよくよ気に病むたちではなかったはずだ。
納得がいかないだけに、中庭に着き、チムチャとサムピナに対したとき、カウリンは少々意地の悪い気分になっていた。
チムチャとサムピナのほうは、剣の試験をするのが王女の部屋にいた侍女と知って驚き、少しがっかりした。てっきり、屈強の兵士が相手をしてくれるものと思っていたのだ。
だが、はじめにチムチャが、つづいてサムピナがカウリンと練習用の木剣を交え、試験が終わったときには、互いの評価は一転していた。
カウリンは、少年と少女が、剣の使い手とまでは言いがたいながら、なかなか筋がよく、そこそこ練習も積んだらしいと認めるに至っていたし、チムチャとサムピナは、この美しい衣装をまとった王宮の女官が、相当な使い手らしいと気がついていた。
「いちおう基礎からできているようだな。だれに習った?」
「近所の人です。王宮の兵士をしていたことのある人で、とても強いんです」
兄の返事に、サムピナがおずおずといい添えた。
「でも、あなたのほうが強いわ。こんなに強い女の人がいるなんて。わたし、女の子はいくら練習してもそんなに強くなれないよ、っていつもみんなに言われていて、ずっと悔しかったんです」
「ばかなことを。サラライナには女兵士が何人もいるし、わたしの知っているかぎり、セウネイエー姫さまより強い男などおりはせぬ」
カウリンは高らかに声を上げて笑った。それまで堅苦しいくらいとりすましていた人の笑い声に、チムチャとサムピナは驚き、この戦士のような女官がますます好きになった。
王女たちの出立の用意が整ったのは、洛の使節団が到着してからわずか二十日後のことだった。最初、サラライナ側は、婚礼の準備に時間がかかるからと、使節を先に送り返そうとしたのだが、無理とわかると、驚くほどの熱意で支度を急いだのだ。国王や重臣たちは、王女たちの出立をなるべく遅らせたいようすだったが、レアウレナエー姫の考えは違っていた。
「横暴な洛の使節たちに、民たちはずいぶん迷惑し、不安にも思っているようです。どうせいつかは出立しなければならないものなら、さっさと準備して、早く彼らをサラライナから追い出したほうがよいでしょう」
レアウレナエー姫の言葉そのものは洛の使節たちに伝わらなかったが、姫が出立を急いでいるという事実は伝わり、正使の洪金栄をはじめとする洛の役人たちを喜ばせた。
「なんといっても栄えある洛帝国の皇妃。姫も喜んでおられるのだろう」
董玄焔はそうは思わなかったが、口には出さない。
やがて出立するばかりとなった王女たちの一行を前に、洛の使節たちは唖然とした。輿らしきものは見当たらず、旅装姿の侍女たちばかりか、レアウレナエー姫までが当然のように砂鳥の背に横座りになったからだ。セウネイエー姫にいたっては、兵士のようないでたちで砂鳥にまたがっている。
「輿は使われぬのか?」
正使の洪金栄の問いに、カウリンが答えた。
「流沙を渡るのに輿は危険ですゆえ。それに、輿を使うと日数が倍はかかります。水もない砂漠ゆえ、むだに日数を費やさぬがよろしいかと」
侍女たちはみな洛語を解するのだが、表向きは、侍女頭のカウリンだけが洛語を話せるということになっている。洪は鼻先で笑った。
「女、わしは麗蓮姫さまに訊ねておるのだぞ。通訳もせずに自分で勝手に返事するとはな。沙蘭の侍女は分をわきまえぬ」
「流沙を渡るに輿を使わぬ理由など、サラライナの者なら子供でも知っておること。姫さまに通訳すれば、そちらが恥をおかきになるだけ。それでもかまわぬというなら、喜んで通訳いたしましょう」
レアウレナエーのほうをふり向きかけたカウリンを、洪があわてて止めた。
「もうよい!」
いらだたしげに、洪はカウリンから顔を背け、護衛隊長の嚇秀に出立を命じた。
王宮を出て都の正門に向かう一行を、都の人々は涙にくれながら見送った。その悲嘆の涙は、いずれ洛の正史に、「沙蘭の民人、王女の栄誉に涙を流して歓喜する」と記されることになるだろう。が、それはまたのちの話である。