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レアウレナエー姫の輿入れ行列は、華陽の都に到着する直前、騎馬の一団に行く手を阻まれた。
とはいっても、王女たちはふたりとも御簾を下ろした輿に乗っているので、外の様子はよくわからない。輿が急に止まったことや馬のいななき、物音、話し声などから推測するのみだ。
賊かと思ったが、賊ではないと、まもなくわかった。サラライナから供をしてきた護衛兵や侍女たちの誰何する声に続いて、洪金栄の「巌王殿下」という呼びかけが聞こえたからだ。
「お戯れはおやめください。いかに皇子殿下といえども、陛下の元に向かう輿入れ行列の行く手を遮るなど、無体でございます」
「ふん。噂だけで陛下を篭絡した美女とはどのようなものか、見てみたいと思ったまでよ」
「お戯れを。このような路上で、陛下より先に花嫁の素顔を見ようとは、皇子殿下といえども許されることではありませんぞ」
「偉そうだな、洪金栄。誰に向かって言っているのだ? たかが役人の自分のほうが、皇子の俺より上だとでも思っているのか」
「めっそうもない。ただ、私は、花嫁を陛下の元まで送り届ける役目を負っておりますゆえ。その途中で不手際があれば、私の首が飛びます」
正使はかなり困っているようだが、皇子は意に介さない。
「ふん。臆病なことよ。べつに花嫁に危害を加えようとしているわけではない。もちろん、花嫁を奪おうとしているわけでもない。いかに美女との噂が高かろうが、俺は女などに興味はないからな」
その声を遮るように、別の騎馬隊が近づいてくる気配があり、叱咤の声が上がった。
「何をしておるか! 無法にもほどがあるぞ」
「おや、兄上」
「皇太子殿下」
巌王と呼ばれた皇子の声と洪金栄の声が重なった。
「後宮入りする花嫁への無体は、皇子といえども許されない。昔、それで破滅した皇子もいたことは知らぬわけではあるまい」
「もちろん存じておりますとも。われらの大叔父のことですからな。夫人として後宮入りする途中の花嫁を奪って逃げ、謀反人として討伐されたという伝えですな。俺には当てはまりませんな。俺は花嫁を奪うつもりなどない。女など、欲しいと思っていませんからね」
「欲望がなければいいというものではない。輿入れ行列の妨害自体が不敬行為になると申しておるのだ。いい加減にしないと、弟といえども、わたしにもかばいきれんぞ」
「兄上にかばわれることなど期待しておりませんよ。かばう気などありますまいに。心にもないことを」
嘲笑しながらも、皇子は引くことにしたらしい。いななきとともに騎馬の一隊は立ち去り、皇太子が輿に向かって呼びかける。
「麗蓮妃さまには弟が恐ろしい思いをさせまして、申し訳ございませんでした。無礼者は立ち去りましたゆえ、安堵して旅をお続けくださいませ」
そう言って皇太子の一隊も立ち去り、輿入れ行列は再び出発した。
後宮に着いた王女たち一行は、出迎えた洛人の侍女たちにまず湯浴みを勧められた。レアウレナエー姫は皇妃たち用の浴室で、セウネイエー姫は来客用の浴室で湯浴みをし、そのあと侍女たちも、数人同時に入れる侍女用の浴室を交替で使って、さっぱり身ぎれいにすることができた。
サラライナから同行してきた護衛兵たちとは離れたままだが、案内役の侍女たちによると、彼らはそれなりのもてなしを受けているということだった。
驚いたことに案内役の五人の侍女たちは、片言程度ならサラライナ語を話すことができた。五人のうち二人は、もともと挨拶程度のサラライナ語を知ってはいたが、あとの三人は、王女たちの到着前に速攻で学んだということだった。
王女たちには、これは意外だった。洛帝国の人間のほとんどは周辺諸国を見下していて、他国の文化に興味がないと思っていたのだが、そういうわけでもないようだ。
レアウレナエー姫にあてがわれた居所は、まるで小宮殿のように広くて豪華だった。数人並んで横になれそうなほど広い天蓋付きの寝台のある主寝室のほか、くつろいで過ごすための居間、来客を迎えるための居間、予備の寝室五部屋、侍女たち用の部屋六部屋が設けられていた。
侍女たち用の部屋は、主寝室に面した二部屋は比較的ゆったりしていて寝台二つで、居間に面した四部屋は、同じぐらいの広さに寝台四つ。上位の侍女は寝室に面した部屋に、その他の侍女は居間に面した部屋に控える造りになっているようだった。
そのほか、庭に突き出すようにして、回廊でつながった排泄用の小部屋も二部屋設けられており、一つは皇妃と来客用、もう一つは侍女たち用だと説明された。 「夕餉の前に、女官長が、この後宮について詳しく説明いたします」
案内役の侍女がそう告げた通り、しばらくすると、女官長が供をひとり連れて訪れた。
年のころは三十代後半か四十前後といったところか。衣服は、華やかな侍女たちの衣装とは対照的に渋めの色合いだが、上等の品とわかる。若くはなく、化粧も控えめだが、凛とした美しい女性だった。
「女官長の景寿杏と申します」
「レアウレナエーです」
挨拶しながら、レアウレナエーは女官長に椅子を勧め、卓をはさんで向かい側の席に自分も座った。セウネイエーも、姉の目配せでその隣に座り、カウリンはふたりの背後に立ち、他の侍女たちはさらにその背後に控えた。
「長旅でお疲れのところ、夕餉の前にお時間を取らせてしまい、申し訳ございません」
「いいえ、とんでもない」
「明日は皇帝陛下にお目通りいただきますので、その前に、この後宮についてなど、多少お話しておいたほうがよいと思いまして」
「ぜひお聞かせください」
「まず、後宮の妃嬪の位や人数についてですが。正妻にあたる皇后様は別格として、妃嬪の最上位にあたる皇妃様は定員三人。麗蓮妃様は、この『皇妃』に当たられます。その下の『夫人』は定員十六人。その下の『細君』は定員六十四人。その下、妃嬪の最下位にあたる『嬪』は定員二百五十六人」
目を瞠っている王女たちに、女官長は、苦笑とともに説明した。
「これはあくまで定員です。いかに洛帝国の皇帝陛下といえども、一度にこれ以上の人数を妻にするわけにはいかないという、そういう決まりがあるのです。実際に定員いっぱいの妃嬪をもった皇帝陛下はほとんどいらっしゃいません」
ほとんどいないということは、少なくともひとりはいたということだ。王女たちも侍女たちもその事実を察したが、もちろん口には出さない。
「それに、『細君』や『嬪』のなかには、一度しかお渡りのない方、一度もお渡りのない方もおられます。官吏や商人や村長などが一族の娘を差し出してきたとき、『細君』や『嬪』とするのが慣例ですし、後宮の下女や妃嬪の侍女などに皇帝陛下のお手がついて、『細君』や『嬪』となったものの、それ一回きりということもございますから」
「手を出しておいて、それ一回きりで放置? ひどくないですか」
セウネイエーが思わずつぶやいた。口を挟まないようにしようと思っていたのだが、翠芳公主の母についての話を思い出してしまったのだ。
女官長は苦笑とも微笑ともつかぬ笑みを浮かべた。
「それが後宮というところでございますわ。皇帝陛下もたいへんなのです。皇妃様方や夫人の方々は、他国の王女だったり、皇族の姫君や有力貴族の令嬢だったりいたしますから、あまり長くお淋しい思いをさせないように、気を遣わなくてはなりませんもの」
つかのま沈黙が流れ、レアウレナエーが話題を変えた。
「それで、現在、後宮には何人ほどいらっしゃいますの?」
「皇后様はご健在でいらっしゃいます。皇妃様は、麗蓮妃様を含めて定員いっぱいのお三人様です。夫人は十三人、細君は三十人、嬪は九十八人です。お付きの侍女は階級によって定員が定められており、皇妃様の場合は定員二十人です。輿入れのときお連れになった侍女は何人でいらっしゃいますか」
「十人です。妹は別としてですが」
「もちろん、妹君は侍女と別枠です。十人なら、ちょうどよろしゅうございました。後宮の決まりで、お連れになった侍女は定員の半数に抑えていただき、あとはこちらで手配することになっておりますの。そうしないと、何かご用がありましたとき、後宮の諸々がすぐにわからず、不便ですもの」
それは表向きで、実際には監視だろうと、王女たちは内心で思ったが、もちろん口には出さない。
「まずは、本日お湯殿などのお世話をさせていただいた五人が、麗蓮妃様付きの侍女となります。ほかにも必要に応じて増員させていただきますわ」
「増員は必要ないと思います。合わせて十五人もいれば充分です。こちらでも手配してくださるとは存じませんでしたから、多めに連れてきましたもの」
「そうですか。もし、もっと必要でしたら、おっしゃってください。こちらで手配した者で、もしお気に召さない者がいれば、交替させますから、それもおっしゃってください」
「とんでもない。五人とも気の利いた人たちばかりですもの。何も問題は起こらないと思いますわ」
「そうおっしゃっていただけるとありがたいです」
「ところで、後宮では、侍女のほか、女官や下女も働いているのですよね。服装などで見分けることができるのでしたら、知っておきたいと思います。何か服装などの決まりごとがあったりするのですか」
「女官は、帯にこのような紋章の入った帯留めをして、同じ紋章の入った短剣を携えております」
女官長は、自分の帯留めと短剣を見せた。見ると、お付きの女官も同じ帯留めをして、同様の短剣を携えている。
「衣服は、侍女は華美な服装を好み、女官は渋めの服装を好む傾向がありますが、はっきりした決まりがあるわけではありません。下女は粗末な身なりをしていますが、細君や嬪の侍女と下女を衣服で見分けるのは難しいですわね。もっとも、侍女たちはおおむね主人のそばに控えていることが多いですから、皇妃様が細君や嬪の侍女を目にすることはほとんどないでしょう。そもそも細君や嬪を目にすることも、あまりないと思いますよ」
「そうなのですか。妃嬪でも女官でも下女でも、身分を問わず、わが母国や周辺の友好国出身の方がおられましたら、息災で暮らしているのか、会って安否を確かめてみたいと思うのですが。なにしろ、戦乱や賊の襲撃などで行方知れずとなった者が何人もいると耳にはさんでおりますので、こちらにいるとわかればひと安心です」
「まあ、なんとおやさしい。確かに、西方出身の者は何人もおりますわ。わかる限り、おいおいご紹介いたしましょう」
「ありがとうございます」
「それはそうと、こちらに来る途中、巌王殿下の無礼なふるまいに遭われたとか。さぞ怖い想いをされたことでございましょう」
「聞こえてきたやり取りで、賊の類ではないとわかりましたから、さほど怖くはございませんでしたわ」
「あの方は、姜夫人をご生母とされる皇子様です。あ、わが国には、読みは同じく『おうじ』でも、二種類ございますので、まずそこから説明いたしましょう」
女官長は帯に挟んだ袋から懐紙と筆を取り出すと、「皇子」「王子」と書いた。
「ご生母が皇后様か皇妃様か夫人であればこちら」と、「皇子」の文字を指す。
「皇位継承権を持つ方々です。こちらの皇子様方のなかから皇太子が選ばれます。もちろんご生母の階級や年齢順による優先順位はございますが、最終的には、能力や人柄や人望なども考慮に入れて、皇帝陛下が決定なさいます。現在の皇太子殿下は、皇后様のご長子です。皇太子殿下を含めて、皇子様は六人おられます。皇子様は成人なされますと領地を賜り、統治するようになります。そうすると、『王』の敬称で呼ばれることもあります」
そのあと女官長は「王子」という文字を指した。
「こちらは細君か嬪をご生母とされる方々です。現在、十一人おられます。皇帝陛下の男の御子といえども、皇位継承権はありません。ご生母が夫人に昇格して、ご自身も『皇子』となった場合は別ですが、前例はわずかです。今の皇帝陛下の御子にはひとりもございません」
「では女の御子様は? 敬称の使い分けとかございますの?」
「いいえ、公主様は、ご生母の身分を問わず『公主』様です。現在、嫁がれた方も含めて十九人おられます。後宮に住んでおられるのは六人ですけれど」
こういった説明を終えて女官長たちが退室するとまもなく、厨房担当の女官と下女たちによって料理が運ばれてきた。酒で味付けした肉料理、香辛料で味付けした魚料理、鶏肉を乳で煮込んだ料理、穀物を蒸した料理など、王女たちの膳は量も品数も多い。侍女たちの部屋に運ばれた食事も、王女たちの食事に比べれば質素で品数が少ないとはいえ、数品目の料理がたっぷり供されて、道中泊まった宿の料理などに比べて格段に豪華だった。
王女たちの食事に続いて、侍女たちも交替で食事を終えてしばらく経ったころ、厨房担当の女官と下女たちが食器を下げに来て、食後に何か飲みたくなった時のためにと、香草茶の茶葉や湯の入った容器を置いて帰った。
せっかくだからと香草茶を飲みながら、レアウレナエーが洛人の侍女たちに向かって言った。
「先ほどの女官長殿との話を聞いていたと思うが、わたくしたちは、サラライナや近辺の国から、攫われるなどしてこの国に来た人がいたら、消息など知りたいと思っています。あなた方にサラライナ語を教えたのは、どのような方なのかしら」
「わたくしは祖母に教わりました」と、最も年長と見える趙梅花と名乗った侍女が言った。
「祖母は沙蘭国出身で、龍陽の街の商人に売られ、奴婢から妾となった人です。わたくしが幼い頃に亡くなったので、沙蘭国語を教わったといっても、片言程度なのですが。もしも生きていて、祖国の王女様がこのように攫われた人のことを気にかけておられると知れば、どんなに感激したことでしょう」
言いながら、梅花は涙ぐんだ。なつかしい祖母を思い出すとともに、彼女自身が感激していたのだった。洛帝国では、高貴の姫君が下々の者の安否をこのように気に掛けることはまずない。少なくとも、彼女の知っているなかにそのような貴婦人はいなかった。それだけに、麗蓮妃の気遣いは、稀有なことと思われたのだった。
「わたくしは、身内に沙蘭国出身の者がいるわけではございませんが」と、別の侍女が言った。
「この後宮に上がってまもなく、沙蘭国出身の嬪にお仕えするようになりました。いまは細君となり、祥細君と呼ばれているお方です。もちろん、ふだんは洛語をお使いですが、公主様がおられまして、ときおり公主様に沙蘭語を教えておられました。それを身近に聞いていて、片言程度ならわかるようになったのです」
「まあ、その祥細君とおっしゃるのは、ひょっとして翠芳公主様のお母君では?」
「え? 翠芳公主様にお会いになられましたか?」
「ええ。龍陽の街でお話しする機会を得ました。婿殿となったわが叔父と心を通わせるようになって、お幸せそうでしたよ」
「ああ、よかった。遠くに嫁ぐことになってどんなに心細かろうと、心配しておりましたの。それを知れば、祥細君もどんなに喜ぶことでしょう」
「ええ。お伝えして差し上げて。わたくしも、祥細君には一度お会いしたいと思っておりますの」
そういった話のあと、レアウレナエーは話題を変えた。
「ところで、先ほどの女官長殿の話で、ひとつ気になっていることがありますの。女官長殿には聞きそびれましたが」
「はい。なんでございましょう?」
梅花が、何でも答えようという気満々の返事をした。
「皇帝陛下は侍女や下女にもお手をつけることがあるということでしたが」
「ああ、ご不快でございましょうね」
「いえ、そうではなく。わたくしの侍女たちのなかには、そういうことにはまだ幼すぎる者もいます」
レアウレナエーがサムピナと董春華にちらりと視線を走らせた。
「皇帝陛下には、このような幼すぎる者にも手をつけようとなされたことはございますか」
あけすけな質問に、梅花は虚を突かれたが、それほど真剣に心配しているのだろうというのは察した。
サムピナと董春華も青くなった。先ほど女官長の話を聞いていた時には、美人の侍女や下女の話なのだろうと、漠然と想像して、自分たちの身に及ぶかもしれない危機とは思っていなかったのだ。
「わたくしの知っている限りでは、ございません。つまり、わたくしがこの後宮に仕えるようになってからの十数年間にはございませんでした」
当事者のふたりも王女たちも、とりあえず内心でほっとした。が、油断はできない。なにしろ、他国の若い世継ぎの王女を名指しで強引に所望するような皇帝なのだ。年を取っていても好色だと思ったほうがいいだろう。サムピナや董春華ができるかぎり皇帝の目に触れることがないように気をつけようと、王女たちも侍女たちも考えたのだった。