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一行は、華陽の都の少し手前、龍陽の街で、サラライナに向かう一行と行き違うこととなった。王女たちと入れ違いに返還されることとなった王弟マヒリと、その花嫁として降嫁することとなった翠芳公主の一行である。
王女一行の宿と王弟一行の宿は隣接しており、双方ともに接見を望んだので、王女たちの宿泊する宿に場が設けられた。
接見の場には、レアウレナエーとマヒリのほか、セウネイエーと翠芳公主も同席した。女性は表立った場所に出ないという洛帝国の慣習からいって、翠芳公主の同席は異例中の異例である。
一段高い上座の席はレアウレナエー姫のために用意されており、セウネイエー姫はその斜め後ろに立ち、マヒリと翠芳公主は王女たちの前で臣下のごとく床に膝をついて額づいている。小国の王よりも、皇帝の側室のほうが上位。洛帝国の身分制度を如実に示す配置である。
皇帝の娘たる翠芳公主までが、このような臣下の礼を取らされていることに、レアウレナエー姫はいささか驚きながら、卓を囲んで四人で話せるような席を設けるよう、少し離れた壁際に立つ洛帝国の官吏たちに命じた。
護衛として控えていた武官たちは困惑して二人の文官を振り仰ぎ、文官二人は顔を見合わせ、セウネイエー姫とマヒリと翠芳公主のための椅子を用意させた。卓を囲んで対等のように話す場を設けるわけにはいかないが、一段低い場所に椅子を用意するぐらいはよかろうというのが、彼らなりの譲歩のようだった。
「叔父上」と、レアウレナエー姫がサラライナ語で呼びかけた。
「ご帰国がかないましたこととご婚約の儀、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
マヒリは、やはりサラライナ語で答えたあと、声を少し落とし、やや早口で言葉をつづけた。
「わたくしの帰国も結婚も、サラライナにとって必ずしも喜ばしくないこと、重々承知しています。未来の妻も同じく承知してくれています」
マヒリは翠芳公主に視線を走らせ、公主は顔を伏せたまま頭を下げた。命令で縁組を決められたふたりだが、どうやらここまでの道中で、話をして意思の疎通をはかる機会があったようだ。
「そのうえで申しあげておきます。洛の皇帝陛下は、わたしを兄王の世継ぎにと考えておられるようですが、わたしたちの子をサラライナの王にとは望んでおられません」
「というと?」
「あなたが陛下との間に男児をもうければ、その子をサラライナの王にと望んでおられます」
レアウレナエー姫は眉をひそめ、セウネイエー姫は嫌悪感で露骨に顔をしかめた。
「それで、叔父上。あなたは?」
レアウレナエー姫が訊ねた。
「まずあり得ぬことと申しておきますが、万一そのような事態になったら、どうされるおつもりですか」
「もちろん、あなたの御子に譲位いたしますよ。それが、自分と妻と子の命を守るためでもありますが、それだけでなく、王になりたいとも、王の父になりたいとも思っておりませんから」
「王位を望んでおられないのですか」
「はい。じつは、市井の民として、妻子と仲良くひっそり暮らすのが、わたしの望みなのです。幸いにも、その望みをわかってくれる伴侶と巡り合うことができましたからね」
マヒリが傍らの翠芳公主に目を向け、公主は幸せそうに微笑んだ。
「では、この縁組は、おふたりが望んでのことだったのですか?」
「まさか。人質にしろ、公主にしろ、自分が選んだ相手と縁組することはできません。すべては皇帝陛下のご命令です。ただ、幸運なことに、この旅に出立してから花嫁に会って話をする機会を得て、結果的に、わたしが望む縁組となりましたが」
「それはようございました。では、公主様は?」
「わたくしは、じつは、沙蘭国に嫁ぐようにと命じられたときから、不安ながらも、少し楽しみにしておりました」
意外な答えに、王女たちは目を丸くして公主を見つめた。
「わたくしの母は、じつは沙蘭国の出身なのです。母の住むオアシスの村が蛮族の賊に襲われたときにさらわれ、転売されながら、流れ流れて洛帝国の後宮の下女となり、皇帝陛下のお手がついて、わたくしが生まれたのです」
「まあ。都から離れた小さな村では、時としてそのように、賊に襲われて若い娘や子供がさらわれることがあります。王家が守り切れなかったその女性は……、あなたのお母君は、いまどうされているのでしょう?」
「わたくしを生んだことによって、妃の末端にあたる『嬪』となりました。このたび、わたくしがこの降嫁の任を受けたことにより、その上位の『細君』に昇格いたしました」
「ご健在ですか?」
「はい」
「不幸な境遇ではないのですね」
「はい。わたくしを生み育てることができて幸せだったと、口癖のようによく申しておりました」
「ああ、では、あなたが遠くに嫁がれることになって、嘆かれたでしょうね」
「ええ。でも、別れは淋しいけれど、わたくしの幸せを祈ることができるから、自分も幸せだと申しておりました。わたくしの幸せを、サラライナの神々と聖騎士さまに祈っている。わたくしにはきっと聖騎士様のご加護があると、繰り返しておりました」
サラライナでは、神々への信仰に負けず劣らず、国や人々の危機に際して現れるという聖騎士への信仰が強い。故郷の村からさらわれた少女も、さぞかし聖騎士の救いを祈ったことだろう。だが聖騎士は現れず、少女は遠い洛帝国の後宮まで売られていったのだ。
「母君はお心が広くて強い方ですね。聖騎士が助けに現れることがなかったのに、それを恨むこともなく、娘御に聖騎士の加護を祈っていらっしゃる」
「恨むなんてとんでもありません。聖騎士様は命がけで人々を助けてくださるのですもの。人々を救おうとして命を落とした聖騎士様もおられると聞きましたもの。聖騎士様が助けに来てくれなかったから恨むなんて、とんでもないことです」
レアウレナエー姫は、もの問いたげな視線を叔父に向けた。
これまで何人も現れた聖騎士たちのなかには、戦いの果てに命を落とした者もいたのは史実。それは、王家には伝えられてきたが、国民に公表されてはいない。だから、叔父が婚約者に話したのかと思ったのだ。
それを察して、マヒリが口を開いた。
「わたしが公主様にそのような話をしたのではありませんよ。公主様の母君が子供のころに聞かされた話だそうです」
「はい」と、公主が言葉を継いだ。
「母の祖母が子供のころに村が敵の襲撃で戦場となったことがあり、そのとき曾祖母は聖騎士様に命を救われたのですが、戦いが終わった後、聖騎士様は瀕死の状態で見つかり、そのままお亡くなりになったのだそうです。母はその話を幼い頃から聞かされ、危機に陥っても、みだりに聖騎士様だけに頼ってはならぬ。まず、自分で危機を脱する努力をしなければならぬと教えられて育ったのだそうです」
王女たちは頷いた。危機に陥ったときに、自力で危機を脱するためにできるかぎりの努力をするというのは、サラライナに限らず、砂漠の民の子供たちが幼い頃から教えられることである。砂漠で迷って水が尽きれば渇いて死んでしまうし、砂の中には蠍のような危険な生き物が潜んでいることもある。砂漠はつねに危険と隣り合わせなので、砂漠の民は、幼いうちから自衛能力を育んでいく必要があるのだ。
「それでもさらわれてみれば、聖騎士様の救いを夢見ずにはいられなかったそうですけれど。でも、それよりも自分で自分を救う努力をしなければと思い、売られていく先々でその地の言葉を必死で覚え、芸事ができたほうが有利だと思えば、異国の楽器や踊りを見様見真似で覚えたのだそうです。聖騎士様のご加護を祈り続けていたおかげで、絶望することもなくがんばれて、行き着いた先が場末の娼館ではなくて洛帝国の後宮であったのだと、そう申しておりました」
「りっぱな方ですね。お心が強く、深く、やさしい方であられる」
「まことに」と、マヒリも同意した。
「公主様の母御にお会いしたことはありませんが、頭が下がります。わたしは、情けなくも、洛帝国に赴かねばならぬと決まったとき、サラライナの王子でありながら、道中のどこかで聖騎士様が助けに来てくださらないかと思い、母にそう言って叱られました。聖騎士様は命がけで人々を助けるのだから、おまえのその甘えた性根は、聖騎士様を殺すことになりかねないのだと、そう言って頬を叩かれました」
「まあ、そのようなことがあったのですか」
「はい。恥ずかしながら、そのときまで、わたしは、聖騎士様も命がけなのだと考えもしませんでした。いえ、そのときでさえ、母に叩かれた驚きと、人質となる不安と、だいじに思われていない子だから人質にされるのだというひがみ根性で頭がいっぱいで、母が怒った理由がゆるゆる心にしみたのは、一晩経ってからです」
幼いときのことではあるが、子供だったのだから仕方がないとは、マヒリは思わない。王族であれば、幼いからという言い訳が許されないことだってあると、今のマヒリは思っている。実際、そのとき彼は、サラライナと洛帝国の外交を担って旅立とうとしているところだったのだ。
王女たちもそれはわかっているので、よけいな慰めを口に出しはしなかった。
「おかげで、わたしは、それまで片言しかわからなかった洛帝国の言葉を必死で覚え、留学生として勉強すると同時に、皇帝陛下や皇族や高官の方々にサラライナが敵視されないよう努めてまいりました。世継ぎの王女殿下を後宮に迎えようなどという暴挙を止めることができませんでしたのは、まことに力不足でございましたが」
マヒリは深く頭を下げた。
「このたびの会見を願い出たのは、ひとつにはそれを詫びたかったからでございます。そして、もうひとつには、どうしても伝えておかなければと思ったからでございます。わたしの忠誠心がサラライナと兄王陛下と、そして世継ぎの君であるあなたの上にあるということと、そのうえでなお、洛帝国を敵に回してはならないと忠告しなければと思ったのです」
「洛帝国に心酔しているからではなく、恐れているがゆえの忠告ということですか」
「はい。洛帝国には、非情な面、横暴な面もございますが、大国としての矜持ゆえに、懐が深い面もございます。その矜持を尊重して、友好的な姿勢を示すことが、サラライナの安泰のために最善の策と思うのです。今回の縁組にお怒りだとしても、早まってはなりません」
「わかりました。真摯な忠告として受け止めておきます」
マヒリは心配そうな表情をしたが、ともかく、会見は終了した。
「叔父上は良い方でしたけど」
姉の部屋に戻って、姉とカウリンとの三人だけになったとき、セウネイエー姫が言った。
「洛帝国をずいぶん恐れていらっしゃいますね。ひどい扱いをされているのに、友好的な態度をとれなんて」
「叔父上の助言は、あながち間違ってはいません。洛帝国は、敵に回すには強大すぎる。叔父上に限らず、大国で人質として育てば、敵に回すのを避けようと考えるのは自然なことです」
「それはそうですけど」
セウネイエーとてサラライナの史書は一通り読んでいるので、洛帝国の人質となっていた王子が帰国して王となったときには洛帝国寄りの政策、キオグハンの人質となっていた王子が帰国して即位したときにはキオグハン寄りの政策をおこなっているという史実は知っている。洛帝国もキオグハンも、それを見越して、周辺諸国から人質を迎えると、厚遇すると同時に自国の強大さを見せつける。逆らえば破滅、恭順すればだいじにしてくれるという認識を植えつけるのだ。
だから、マヒリの助言は当然の言葉ではあるのだが、マヒリと翠芳公主に好感情を覚え、感動すらしたあとに、洛帝国に敵対しないようにと言われたことで、セウネイエー姫はもやもやした気分になっていたのだった。
レアウレナエー姫にもその気持ちはわかる。
「叔父上は洛帝国の皇帝に依存も心酔もしていない。叔父上の忠誠心は洛帝国にではなく、サラライナに向けられている。それは信じてもよいでしょう。もちろん、いずれはサラライナよりも妻子のほうが大切になるでしょうが、それは懸念するようなことではありません」
セウネイエーは頷いた。たしかに、あの叔父がサラライナに害をなすとは思えない。そして、いずれ叔父にとって最も大切なものが妻子になるというなら、それは喜ばしいことだと思われた。