闇のなかを、一台の馬車が全速力で先を急いでいた。 青ざめた顔で馬車に座しているのは、赤毛の貴公子と赤毛の男の子。同じ炎のごとき髪、独特の炎のごとき瞳、どこか似通った面差しから、父親と息子だろうということは容易に想像がつく。 貴公子のほうは、年のころは三十代前半ぐらいだろうか。細面の顔は、苦悩と心配のために青ざめ、やつれはてているが、よく見ればなかなかの美男子である。 父に似て利発そうな顔立ちの少年は、父の厳しい表情から事態の深刻さを感じ取って、「母上はだいじょうぶでしょうか?」という問いを必死で飲み込み、泣きだしそうな顔で窓の外の闇に目を向けている。 父子は、グランベル王国でも屈指の名家にして、魔法戦士ファラの血を引くヴェルトマー公爵家の当主、ヘルマン卿と、七歳になる長子のアルヴィスであった。 ふたりは、領地のヴェルトマー公国を離れ、王都バーハラに滞在していたのだが、そこで、本宅のヴェルトマー城に残してきた公爵夫人シギュンが倒れ、命も危ういとの知らせを受け取ったのである。 幼いアルヴィスには、母は急病で倒れたと説明してあったが、妻が倒れたのは病気ではないということを、ヘルマンは知っていた。 「薬をお飲みになって……」と、早馬を乗り継いで駆けつけた使者は、疲労で息も絶え絶えにそう告げたのだ。 妻が自害をはかったのかと、驚いたヘルマンは使者を問い詰めたが、使者は、奥方が危険な薬を口にするに至った事情までは知らなかった。奥方が薬物のために命が危ういとわかった時点で、急いでヴェルトマー城を飛び出してきたからである。 何が起こったのかと、馬車に揺られながら、ヘルマンは考えていた。 シギュンは、手ずから摘んだ野の草でお茶をいれるのが好きだったが、薬草の扱いに長けていたので、毒のある植物を誤って飲んだということはまず考えられない。
もしも新婚のころそのままに睦まじい夫婦仲であれば、ヘルマンは、なによりも先に、ヴェルトマー公爵夫人の地位を狙う者のしわざではないかと疑っていたことだろう。
ヴェルトマー家は、聖戦士の血を引く家柄のうちでも、バーハラ王家に継ぐ名家であり、その名家の正夫人の地位を望む貴婦人、娘や妹をヴェルトマー公爵夫人にと望む野心家の貴族は数多い。彼らのうちのひとりが、シギュンの殺害を企てたとてふしぎではない。
だが、今、ヘルマンは、別の可能性を考えていた。シギュンが自害をはかったのかもしれないという可能性を。
ヘルマンとシギュンは、うまくいっていなかった。彼は、バーハラの館に住まわせた愛妾とのあいだに、アゼルという子まで生まれており、妻の元へはめったに帰っていない。
とはいえ、ヘルマンが妻を愛していないというわけではない。むしろ逆で、七歳の子の母とは思えない、少女のような初々しさを残す美しい妻を、狂おしいほどに愛していた。
だが、ヘルマンには、妻の考えていることはさっぱり理解できず、どう接していいかわからない。はたして愛されているのかどうかも、ここ数年は自信をもてなくなっていた。それで、ひたすら自分を頼ってくる従順な愛妾に、逃げ道を見いだしていたともいえる。
彼が求婚したとき、最初、シギュンは拒んだ。
「わたしは村から出て暮らすことを禁じられています。それが村の掟で、もしも破れば、恐ろしいことが起こると言われているのです」
彼は気にしなかった。田舎にありがちな迷信か、でなければ、滅ぼされた王侯貴族の末裔とか、正妃に追い出された王侯貴族の妾腹の姫とか、そういった事情があるのだろうと思ったのだ。
盛衰の激しいアグストリア諸侯国連合の滅んだ国の姫か、でなければ、ヴェルダン王国の廃絶された小領主の姫かもしれない。
もしそういった素性の姫で、ごく幼いころに国を追われたのなら、本人に出自が知らされていないというのもありそうなことだ。
そしてヘルマンのほうは、もしも彼女がそういう素性の娘だったとしても、ただの迷信深い村の村娘だったとしても、べつにかまわない。素性の知れない娘を妻にするのでは、両親は反対するかもしれないが、説得してみせると、内心で心を決めていた。
それぐらい強く、彼は、このどこか浮き世離れした少女に魅了されていたのである。
「村を出てはいけないなど、そんなものは迷信だ。万一そなたの身に恐ろしいことがふりかかるなら、わたしは全力でそなたを守ろう。わたしにはそれだけの力があると思う」
真心こめてかき口説くうち、シギュンは心を動かされたようすで、ついに求婚に応じた。
「わたしが幸せでいることはとても大切なことだと、みんないつも言ってくれていました。だから、きっと、あなたとともにいくことを許してくれるでしょう」
そう言ったものの、シギュンは、村人たちを説得する自信がないようで、村には戻らず、そのままヘルマンについてきた。
彼が半ば予想していたとおり、両親はシギュンを正妻として迎えることに反対し、愛妾の地位にとどめておいて、正妻には身分の高い貴族の姫を迎えるようにと説いた。が、シギュンを熱愛していたヘルマンは、彼女をそのような不安定な地位におくことをよしとせず、また、彼女以外の女性と結婚する気にもなれず、両親の反対を押し切って、彼女を正妻としたのである。
だが、そうまでして結婚したのに、ふたりの心は、それからまもなくすれ違いはじめた。
ヴェルダンの森の隠れ里で隠者のような生活をしていたシギュンは、はじめ、夫に聞いた華やかな社交界に興味を示したが、舞踏会に一回出席しただけで、すぐに音をあげた。
何人もの令嬢があこがれていたヘルマン公子が、蛮族の地といわれるヴェルダンの田舎娘と結婚したというので、皆が向ける羨望と嫉妬と侮蔑と好奇心の混じった視線に、シギュンは耐えられなかったのである。
ヘルマンには、これは妻のわがままと映った。
公子時代のうちはともかく、父が死んで、家督と国王近衛隊司令官の職を受け継ぐと、王宮の社交界を無視するわけにはいかなかったので、妻が社交の場を避けようとするのは、妻の務めを果たしていないように感じられたのだった。
さらにアルヴィスが生まれると、シギュンは、夫婦の営みをも避けようとするようになった。
「わたしは子供をひとりしか生んではならないのです。そのような定めに生まれついたのです。けれども、あなたへの愛は、嫁いできたときからいささかも褪せてはおりません。それではいけませんか?」
怒ったヘルマンが強引に関係を求めると、シギュンは、抵抗らしい抵抗はしなかったが、思いつめたような顔で悲しげにすすり泣いた。
そんなシギュンを、ヘルマンはもてあました。かつては精霊のように神秘的で純朴と映っていた彼女の性質は、迷信深い田舎者と映るようになり、妻に対する愛情は褪せていった。少なくともヘルマン自身は、自分の妻への愛は褪せたものと思っていた。
それで、もともと華やかなことの好きだったヘルマンは、妻を伴わずに舞踏会に出かけては、多くの女性たちと浮き名を流すことになった。
あげくは、妻をヴェルトマーの領地に残したまま、バーハラの別宅に愛妾をおき、アゼルという息子までもうけたのである。