ことさら妻に冷淡にふるまっていたヘルマンだが、じつのところは、妻への愛情が冷めたわけではなかった。むしろ、妻の心のうちがつかめないぶん、出口のない想いは心のうちで黒い炎となって狂おしく燃えさかり、そんな自分の心をもてあまして、意地になっていたのだった。
だから、シギュンに恋人ができたらしいと知ったときには嫉妬に燃え、相手がクルト王子らしいとわかってからはなおさら苦しんだ。
社交嫌いで、バーハラの都に住むのをいやがってヴェルトマーの領地に引きこもり、王宮の舞踏会にも出たがらないシギュンが、クルト王子と出会い、六つも年下の若者と恋に陥るとは、まったくもって皮肉な話だ。
意地になって妻に冷淡にふるまっていただけに、誇り高いヘルマンには、自分の心をさらけだして妻をなじることはできなかった。いや、それ以前に、妻をなじることによって、妻の心変わりを決定的に知ってしまうことを恐れ、懸命になって自分の耳を塞いでいた。
もとより、主君であるクルト王子を、面と向かってなじることもできない。
だが、それならなにごともなかったように妻に接することができるかというと、そうはいかない。 妻と顔を合わせれば、その不実を問いただすようなことはしなくても、刃のごとき痛烈な言葉が口をついて出る。その言葉の端々から、自分の不義が夫に気づかれたことは、勘のいいシギュンなら察していたかもしれない。
それで、シギュンを追い詰めてしまっただろうかと、ヘルマンは恐くなった。
今となっては、妻を愛しているのか憎んでいるのか、わからなくなってしまっていたが、永久に失ってしまうのは耐えられない。
恐怖に心臓をわしづかみにされたかのような面持ちの父の傍らで、同じぐらい青ざめた顔のアルヴィスは、母の身を案ずる言葉を懸命に飲みこんでいた。
アルヴィスは、年令のわりにおとなびた子供だった。もともと利発な子供だったし、ヴェルトマー家の後継ぎとして期待をかけられて育ったこともあったが、それだけではない。幼いながらに両親の不和を感じ取って、自分がふたりをつなぎ止める役割を果たそうと、ずっと懸命につとめてきたために、自分の感情を表に出すより、父の意に添おうとする習性が身についていた。
無言でがたがた震えている息子の怯えに気がつき、ヘルマンは、自分とよく似た赤毛の頭をそっと抱き寄せた。
同じファラの血を濃く引く者どうしの連帯感が、怯えきった父と子を温かく包み込む。
この神族の血がなせる連帯感がなければ、ヘルマンはわが子を憎んでいたかもしれない。
実際、ヘルマンは、アルヴィスがごく幼いころ、子供をひとりしかもてないと言い張る妻に悩み、この子さえいなければと思い詰めて、わが子の細い首に手をかけたことすらあった。
だが、手を触れたとたん、ファラの血の絆が呼び覚まされて、その手に力をこめることはできなかった。
もとより、わが子に対する父親らしい愛情もあれば、妻とうまくいかないのは息子のせいではないという、理性的な認識もある。
以来、アルヴィスは、ヘルマンの心のうちで、妻との仲を終わらせたものではなく、かつては妻も自分を愛していたという唯一の証、妻とのあいだをつなぐ、か細いが唯一の絆となったのだ。
そんなファラの血のなせる連帯感をせめてもの慰めとして、妻を、母を失うかもしれないという不安と恐怖のなか、父親と息子は、無言で身を寄せあい、震えていた。シギュンが服用した薬物というのがどのようなものであったかは、ヴェルトマー城に到着してすぐにわかった。青ざめた顔で眠る妻のかたわらに駆けつけたのち、侍医が、アルヴィスに聞こえないところで、ヘルマンにそっと告げたからである。
「シギュンさまが飲まれたのは堕胎薬です。もちろん、わたくしが調合したものではありません。民間の薬師から手に入れたものと思われます。そういう闇ルートの堕胎薬はたいへん危険なのです」
ヴェルトマー家付きの医師の言葉に、ヘルマンは愕然とした。もう長いこと、シギュンと寝所をともにしたことはなかったからだ。
だが、医師はそういうことは知らない。ヘルマンがヴェルトマーの領地に帰ることは、年に数回はあったので、ヘルマンが腹の子の父であることに何の疑念ももたず、言葉をつづけた。
「お妃さまは、なにやら妙な迷信を信じておられるようで、自分はふたりめの子供を産んではならないと、うわごとでおっしゃっておられました。それで、お子を堕ろそうとなされたのだと思います」
ヘルマンはあいまいにうなずいた。妃が夫以外の男の種を宿したなど、もちろん、他人に知られてはならない。
「それで、妻は助かるのだろうな?」
「はい。母子ともに無事でございます」
「母子ともに? 堕胎薬を飲んだのだろう?」
「それが……。ふしぎなことに、お子もご無事です。お子は、なにやらふしぎな力で守られておるようですな。ファラの血が守っておられるのでしょう」
「あ、ああ、そうだな。ファラの血が守ったのだろう」
うなずきながら、ヘルマンは、その子がほぼまちがいなくクルト王子の子で、だとすればクルト王子の第一子になるということに気がついた。
子供を守っているのは、おそらく、ヴェルトマー家に受け継がれるファラの血ではない。バーハラ王家に流れる聖者ヘイムの血だ。
聖戦士の血を濃く引く者は、それぞれの世代にひとりだけ。このさきヘルマンに何人の子が生まれようが、ファラの血を濃く引き、聖痕をもつのは、アルヴィスひとりだけだ。シギュンの腹の子は、仮にヘルマンの子だったとしても、ファラの血を少ししか引いていない。その薄いファラの血に、それほどたいした力があるとは思えない。
一方、クルト王子はまだ若くて独身で、子供をひとりももうけていないはず。少なくとも、聖痕のある子供は生まれていないはずだ。
聖戦士の家系では、ふつうの王侯貴族と違って、聖戦士の血を重要視する。もしも聖痕をもつ子供が生まれていれば、たとえ嫡出の子でなかったとしても、ないがしろにされることはない。ましてヘイムの聖痕をもつ者は、いつかロプトウスがよみがえることがあったとき、それに対抗できる唯一の魔法ナーガの使い手なのだ。母の身分がどんなに低かろうが、バーハラ王家に引き取られ、公表されていることだろう。
だとすれば、シギュンの腹の子は、クルト王子の第一子で、ナーガの後継者に相違あるまい。その子を死なせることは許されないと、ヘルマンは思った。
聖戦士の血を引く者にとって、ナーガの後継者を守ることは、あらゆる私情に優先させるべき義務だ。たとえ、その子が妻の裏切りによってできた不義の子であろうとも。結果として、妻を奪われることになろうとも。
妻がナーガの後継者を生めば、まずまちがいなく、クルト王子のもとに召されることになるだろう。事実はどうあれ、ナーガの後継者は、不義の子であってはならないのだから。夫と離縁し、王子と再婚したのちに身ごもった……という体裁が整えられるだろう。自分は甘んじてそれを受けるしかない。
王子にしてやられた、とヘルマンは思った。王子が故意に意図したことかどうかはわからないが、結果として、名実ともに妻を奪われてしまう。シギュンのほうは、堕胎しようとしたところをみると、それに思い至らなかったのだろう。
アルヴィス皇帝一代記みたいな長編の第一話のはずだったのに、第一話さえ完成せずにほったらかし……。
続きを読みたいという物好きな方はゲストブックにリクエストをどうぞ。ひょっとすると書く気を起こすかもしれません。