2003年7月17日UP
ハウカダル暦321年雨の月16日
けさ、仕事に出かけたら、たいへんなことになっていた。羊が一頭、病気にかかってたんだ。この病気は子供のときに一度だけ見たことがある。前日まで元気に見えた羊が、急に立ち上がれなくなるんだ。
ほかの羊に病気がうつる心配はないけど、この病気になった羊を食べてはいけない。とくに内臓はけっして食べてはいけない。犬やブタなどに食べさせてもいけない。この病気の羊を食べた人間や家畜は、同じ病気にかかる危険があるんだそうだ。
おやじにそう教わった。吟遊詩人の歌で、この病気について歌ったのを聞いたこともある。
病気で動けなくなった羊を焼き捨てるのはもったいないと思った羊飼いが、その羊をブタ飼いに安く売り、ブタ飼いはブタのエサにその羊の内臓を混ぜた。そのブタの肉と血と腸でソーセージをつくって、冬のあいだ食べていたら、体が動かせなくなり、ものも考えられなくなって、死んでしまった……という内容の歌だ。
飼育場の人たちはこの病気のことを知らないみたいだったから、知っているかぎりのことを教えた。「けっして食べてはいけない。とくに内臓は食べてはいけない」って。
それなのに……。
学校の授業が終わったあと、気になっていってみたら、貧しい人々の食事として下げ渡したっていうんだ。
「やつらは、食うものがなければ飢えて死んじまうんだ。いつか病気になるかもしれないったって、あす飢えて死ぬよりはましってもんだろう?」
飼育場の監督はそう言ったけど、だめだ、そんなの。そりゃあ、あす飢えて死ぬよりは、ずっとあとで病気になって死ぬほうがましかもしれないけど……。病気の羊を食べたからといって、かならず病気になるとはかぎらないけど……。
でも、食うものに不自由しているからといって、あす飢えて死ぬとはかぎらないじゃないか。飢えている人たちだからといって、病気になるかもしれないようなものを食べさせてもいいなんて、そんなことはないはずだ。
以前に出会った子供たち。怒らせてしまったけど、彼らはおれの歌を聞いてくれた。あの子供たちが病気の羊を知らずに食べて、死ぬかもしれないなんて……。とても見過ごしになんてできない。
これは偽善かもしれない。病気の羊を取り上げたからといって、かわりに安全な食べ物を提供してやれるわけではない。それに、彼らはふだん野生のムグとか残飯なんかも食べている。それなのに、病気の羊だけ食べさせるのをやめたって、あまり意味がないかもしれない。じつのところ、おれが、彼らを見殺しにすることに耐えられないってだけかもしれない。
それでも、おれは、放っておけなくて、貧しい人々にスープを配っている場所を探した。
たぶん、彼らの居住区だろうと思って急いだら、広場と彼らの居住区の境界あたりで、偶然にもあのレイヴって少年を見かけた。
彼を見たとたん、おれは来てよかったと思った。ああいうはしっこい子供なら、飢えて死んだりはしない。おれのサイフをすったぐらいだからな。あのときは困ったし、盗みは悪いことだけど、飢えて死ぬよりはましだろう。いや、盗みをしなくたって、才覚のある子供なら、仕事を見つけることだってできるかもしれないじゃないか。
いまは食うに困っていても、なんとかやっていけるやつはやっていける。生きていれば道は開けるかもしれない。子供たちには未来があると思う。とくにこの少年のように生きのびる才覚がありそうなやつなら。
おれの姿を認めたら、レイヴは向こうに行きかけたが、必死に呼び止めたら立ち止まってくれた。ただごとじゃないと気づいたのだろう。
「スープを配ってる場所を知らないか? 病気の羊なんだ! 食べちゃだめだ! きみはまだ食べてないだろうね?」
「おれはそういうものは食わない」
レイヴは面食らったようだったが、すぐに事態を飲み込んでくれた。カンのいい子供だ。
「でも、そろそろ配る時間だと思う。場所はこっちだ」
先に立って走っていくので、ついていったら、ちょうどスープを配っているところに出た。行列ができ、数人がすでにスープの入った椀を手にしている。
「病気の羊をもらってきただろう?」と、おれは配る係の者たちに向かって叫んだ。
「危険な病気なんだ! 人に食べさせちゃだめだ」
レイヴも「食うな!」と叫んで、今にも食べようとしていた子供の椀を叩き落とし、子供が泣きだした。こぼれたスープには、肉切れのほか、内臓も入っている。やっぱり内臓まで使ったんだ。
係の男たちにつかみかかって、「やめろ!」とわめいたら、なぐり倒された。
「病気の羊がどうした! そんなのはいつものことだ! こっちは毎日こいつらの食いもんを調達するのに、どれだけ苦労してると思ってるんだ!」
「きょうは羊が丸一匹手に入ったんで、たっぷり肉や内臓が入っている。それをふいにして、いつもの肉がちょっぴりのスープのほうがいいかどうか、そいつらに聞いてみろよ」
男たちにつられて行列のほうを見ると、並んでいる人々はとまどっている。
「若いの」と、行列の中から声が上がった。
「そいつを食ったら、すぐに病気になるのか? 確実に死ぬのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど。でも、将来……」
「わしらには将来なんぞない。老い先短いし、長生きなどしてもしかたがないし、だいいち、ほどこされるものを食わねば飢えて死ぬだけだ」
「じゃあ、子供たちは? 今は飢えていても、生きる道が開けるかもしれないだろ?」
「そういやそうだ。子供だけはずそう」
別の男が叫んだ。その声には、子供のことを心配しているというより、分け前がふえることを喜ぶような、ずるそうな響きがある。
その響きを察したのだろうか。「いやだ!」という子供の声が上がった。
「おいらも肉が食いたい」
「ばかやろう!」とレイヴがどなった。
「病気になるような肉を食うぐらいなら、市場でまともなのをかっぱらえ」
「なんてこと言うんだ」と、配給係がレイヴになぐりかかり、レイヴはそれをすばやくよけた。
逆上した配給係は、腹立ちまぎれに、地べたに転がったままのおれをなぐったり、蹴飛ばしたりした。別の配給係も加勢に加わって、反撃できないまま、やられっ放しで気を失ってしまった。なぐられているあいだに、「このガキ!」「もう放っとけ」という声と、おれのほかにもだれかがなぐられているような音がした。
気がついたら、さっきのところから離れた木陰に寝かされていて、なぐられたところに水で湿らせたぼろ布が当てられていた。
「気がついたかい?」と、年配の女性が顔をのぞきこんだ。以前にここにきたときに話をした人のような気がするが、自信はない。
配給係たちはすでにスープを配り終わって帰っている。十人ほどの人がおれのまわりに集まって顔をのぞきこんでいたが、レイヴの姿は見当らない。
「レイヴって子は?」
「あんたを助けようとしてだいぶんなぐられたけど、先に気がついていっちまったよ」
そうか、あいつ、助けようとしてくれたのか?
「あの肉、みなさん、食べたんですか?」
「あたしたちは食べたよ」と、先ほどの女性が言った。
「年寄りたちはおおかた食べた。病気になったなら、なったでいい。こんな暮らしで、べつに長生きしたいとも思わないからね」
聞いているうちに、悲しくなって涙が出てきた。
「同情はよしとくれ。この年まで生きられただけ、まだ、あたしらはましなほうなんだから。ここで生まれ育った子供たちにも、あたしらぐらいの年まで生きていてほしいと思うよ。あたしらよりましな暮らしができるかどうかわからないけど」
「そうそう」と、別の年寄りもうなずいた。
「だから、感謝してるよ、知らせにきてくれて。子供や若い者には、食べなかった者もだいぶんいたしね」
つまり、食べた者もだいぶんいたってことだよな。危ないとわかっていて食べたってのが悲しいし、悔しい。食べるのをやめた人が何人かいたってのだけがまだしもの救いだ。いや、ほんとうに救いといえるのかどうか。食べるのをやめた人たちは、きょう、すきっ腹をかかえて過ごさなければならないのだから。
ハウカダル暦321年雨の月17日
けさ、仕事場にいったら、クビだと言われた。きのう、広場の端っこでレイヴに「病気の羊」とか叫んでたのが、一般の人々の耳にも入って、ちょっとした騒ぎになったらしい。病気の羊を一般に売ったと思った人が何人かいたみたいだ。
「慈善用にまわしただけで、一般には売っていないって、何人に説明したと思ってやがるんだ! 好待遇で使ってやってたのに、うちの信用をつぶしやがって」
監督はそう言って怒ってたけど、そもそも病気の羊を人に食べさせようってほうが、信用をなくす行為だよな。いくらタダ同然の安値で払い下げたっていっても。抗議にきた人たちは、慈善用と聞いて納得したんだろうか?
まあ、ともかく、クビっていわれりゃ、ほかにどうしようもない。未払いの給料も払ってもらえなかった。信用をなくした賠償だとかいわれて。
悔しいなあ。かわりの仕事を見つけなきゃ。
ハウカダル暦321年先見の月3日
いきなり王様に呼び出された。わけがわからなくて、行ってみたら、どうもあの飼育場の監督と慈善スープの配給係に訴えられたらしい。
罪人にされてしまうなんて思ってもいなかったので、すくみあがってしまった。ホープの父親、あの貧しい村で領主に逆らって処刑されたっていう伯父のことが思い浮かぶ。まさかあれで処刑されるなんてことはないだろうとは思ったけど。
でも、王様からの呼び出しというところが恐い。シグトゥーナのいざこざは、この町の行政官が裁判をおこなうことになっているはずだ。わけがわからなくてびびってしまった。
王様は、監督と配給係の申し立てを聞いたあと、おれをしかるべく取り調べるといって、彼らをさがらせた。
王様は、グンナルって名前で、おれの村の領主さまの甥にあたられる。まだ二十二歳のはずだけど、やっぱり王様だからなのかな? 威厳のある人だ。
「おまえのいう病気について説明せよ」
命じられて、知っているかぎりのことを話した。とはいっても、実際に見たのは一回きりだから、知っていることなんて限られているんだけど。
「ほう、歌が残っているのか。それは聞いたことがない。吟遊詩人をめざしているのだったな。それなら歌ってみよ」
この命令には驚いた。王様の前で歌を披露するってのは、吟遊詩人にとってかなりの名誉のはず。それをまだ学生のおれが命じられるとは思ってもいなかった。
でも、だれも驚いているようには見えなかった。ほんとうに驚いていなかったのか、表に現さなかっただけかはわからないけど。
宴席などで歌うのとは事情が違って、王様はおれの歌を聴きたいんじゃなく、羊の病気についての歌を知りたいんだから、おれがまだ学生ってのは問題じゃないのかもしれない。
ともかく、竪琴を渡されたので、羊のこの病気について、知っているかぎりの歌を歌った。とはいっても三曲だけだけど。
「ふむ。伝染病のように広がりはしないし、すぐに発病するとはかぎらないが、ひとたび発病すればかならず死に至るのだな」
「はい」
「なれば、止めようとしたのは正しい。貧しい者たちにスープとパンを与えることにしたのは、病気で死なせるためではない」
驚いたことに、王様は、病気の家畜は慈善用にも使わないよう配給係に言い聞かせると約束してくれた。しかも、侍従に命じていくばくかの金の入った袋をくれたうえ、失った仕事のかわりに、王宮の羊の飼育場で毎朝仕事をさせてもらえることになった。
前の職場よりほんの少し遠いけど、働く時間は以前と同じで、給料は二倍だ。
今の王様は若いが希代の名君主だという噂を聞いたことがあったけど、ほんとうだったんだな。
先代の王様が亡くなったとき、その王弟殿下たち、つまりグンナル王様の叔父君たちが、まだ少年だったグンナル様の即位を認めず、自分たちが王位につこうとなさった。でもうちの村の領主さまは、甥であるグンナル様の味方をしたとも聞いた。それもわかるような気がする。今の王様は、きっと少年のころから、りっぱな王様になれそうな人だったんだろう。