暗い近未来人の日記−営業所・その2

 日記形式の近未来小説です。主人公は社会人一年生。
あくまでフィクションですから誤解のないように。
なお、ここに書かれた内容は、実在の政府や団体や個人とはいっさい関係ありません。

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2021年1月19 日UP

  2093年9月1日

  今日からN営業所の勤務だ。徒歩で十分ほどの通勤に慣れていたものだから、行くだけで疲れちゃった。通勤ラッシュって、こんなに疲れるものなんだ。マナーの悪い人に何人も出くわしたし。
 まず、最初に乗る路線。乗ったときには、座席は全部ふさがっているけど、つり革は半分ぐらい空いているという程度の混み方で、ラッシュというほどじゃなかった。でも、乗換駅が近づくにつれ、だんだん混んできた。
 そういうとき乗ってきた背の高い男の人、つり革をつかんでいるわたしの手と顔の間に自分の腕を差し入れるような形で、つり革が下がっているパイプ(名称よくわからない)をつかんだ。で、その勢いに驚いてつり革を離したら、その男の人、当然のように、それまでわたしが手にしていたつり革をつかんだのだ。
 おかげで、わたしはどこにもつかまれず、電車が揺れるたびによろよろしながら乗っていなきゃならなかった。
 で、次に乗った電車。予想以上の超満員で、まっすぐ立っていられない。たった五分ほどでどっと疲れた。
 通勤電車の印象が強烈だったからかな。N営業所に着いてからの印象は意外に薄い。
 到着すると、まあふつうに迎えてくれた。にこやかな人、忙しさに追われている感じで無関心な人などいろいろだけど、まあふつうという感じ。とくに人間関係の悪そうな職場には見えない。遠藤さんと羽島さんが異様にフレンドリーで、熱烈歓迎モードなのには面食らったが。
 羽島さんたちに「ピンクの好きな痛いおばさん」とこき下ろされていた河野さんは、茶系のカットソーに黒のズボンという落ち着いた服装の人で、ノーメイクかと思うほどの薄化粧だが、羽島さんより若く見える。遠藤さんと比べても同年代ぐらいに見える。羽島さんはそれが面白くないのかもしれない。
 遠藤さんと羽島さんがわたしに「おとといはどうも」などと言ってフレンドリーな態度を示しているのを見て、河野さんはちょっと怪訝そうな顔をしたが、すぐに元の穏やかな表情になって、ふつうに仕事のことを教えてくれた。遠藤さんや羽島さんと仲良しだと誤解されたんじゃないかと気になったけど、河野さんが何も聞かないので説明しそびれた。


  2093年9月3日

 羽島さんや遠藤さんが強引で身勝手ないじめっ子体質の性格なのに対して、千川さんは、彼女たちと仲良しだけど、穏やかな人だという印象を受けていたけれど、違うとわかった。
 河野さんが仕事をしながら独り言を言ったときの話なんだけど。小声なのでよく聞き取れなかったけど、「シオヤコウギョウ」か、それに近い社名で、データを処理している会社の名前をつぶやいたよう
 それからしばらくして、千川さんがふいに言った。
「うちにアシヤコウギョウなんて取引先あったっけ」
 千川さんも独り言の多い人だから、独り言だと思っていたら、違ったらしい。河野さんのほうを見て、同じセリフをさっきより大きな声で繰り返した。
 言い終わらないうちにすかさず遠藤さんが「河野さん!」と叫んだ。
「千川さんが聞いてるでしょ! 聞こえてないの?」
 遠藤さんはいつもそうだ。榊さんとタイプがちょっと似ている。年齢は親子ほど違うけど。それに、遠藤さんのターゲットになっているのは、わたしじゃなくて河野さんだけど。
「アシヤコウギョウ?」
 河野さんは首をかしげた。
「調べてみる」
 もしも河野さんが千川さんに同じようなことを尋ねたとすれば、「自分で調べなさいよ」と言われたことだろう。
 でも、河野さんは、人がいいのか、自分の仕事を中断して検索し、返事をした。
「アシヤコウギョウなんてないけど? その会社がどうかしたの?」
「あなたが言ったんじゃないの! 『アシヤコウギョウ』って!」
 千川さんのテンションが急に高くなり、河野さんはキョトンとした顔になった。
「言わないけど? ああ、『シオヤコウギョウ』の聞きまちがいね」
 ありがちな聞き違いだと思った。千川さんが大声を張り上げたので思わず振り向いてしまったけど、納得したのでまた仕事の続きに戻った。河野さんも同様だった。
 でも、千川さんは納得しなかった。
「あなた、ものすごい性格してるのね!」
「はァ?」
 河野さんが驚いて聞き返した。
「あなた、たしかに『アシヤコウギョウ』って言ったわよ! いま、あなた、『アシヤコウギョウ』のことを調べてるんでしょ? 自分でそう言ったんじゃなければ、なんで調べてるのよっ!」
「千川さんが聞いたからじゃないの」
 河野さんがもっともなことを言ったが、千川さんは納得しなかった。
「あなたが言ったんじゃなければ、なんでわたしがアシヤコウギョウなんて言うのよっ!」 「なんでって……。あなたが聞き間違い……」
 とまどった口調で答えかけた河野さんの言葉は、千川さんの大声に遮られた。
「あなたねえ、わたしが聞いたって言ってるんだから、ふつうだったら、『そう言ったかも』って思うんじゃないの? なのに『言ってない』なんて! あなた、ほんとにすごい性格してるわねっ!」
 どんどんテンションが上がっていく千川さんに、遠藤さんが同調する。
「ほんとよねえ、河野さんって、いつもこうよねえ。自分の間違いを認めないのよねえ」
 この場合、どう考えても、自分の間違いを認めないのは千川さんのほうだと思うけど。相手がそんなことを言ってないと答えれば、ふつうは、自分の聞き違いかもと思うんじゃない?
 河野さんは肩をすくめて無言で仕事の続きをはじめた。
「えー、なに? 無視? 無視?」
 遠藤さんがうれしそうに食いついた。こういうところ、ほんとうに榊さんに似ている。
 遠藤さんと千川さんの「あなたはすごい性格している」コールがつづくなか、黙々と仕事をしている河野さんと一瞬目が合った。河野さんの目配せからすると、この種のいじめはよくあることらしい。
 千川さんって、うんと年上だし、落ち着いて見えていたけど、こういう人だったんだ。遠藤さんや羽島さんと仲良しグループの人というのがよくわかった。


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