暗い近未来人の日記−営業所・その1 |
日記形式の近未来小説です。主人公は社会人一年生。
あくまでフィクションですから誤解のないように。
なお、ここに書かれた内容は、実在の政府や団体や個人とはいっさい関係ありません。
2020年10月23日UP |
2093年8月24日
次の仕事は、N営業所だと聞いた。新人は必ず、五つある営業所のどこかに、一回は配属されるのだそうだ。場所はちょっと遠い。寮からだと、電車を三つ乗り継いで、所要時間は朝の通勤時間で約一時間四十分。そのうち電車に乗っている時間は、五分、二十分、三十分。あとは、寮から駅、駅からN営業所までの徒歩時間と、乗り換え所要時間だ。乗り換えがたいへんなうえ、二十分乗る区間は通勤ラッシュがすごいとよくいわれる路線だ。
自宅からだと一時間ちょっと。二回乗り換えというのは同じだが、通勤ラッシュの電車に乗る時間は二番目に乗る五分ほど。最初に乗る十分弱の区間は、そこそこ混んでいるけど、ラッシュというほどではない。
やっぱりこれは、実家から通うほうが楽かな
2093年8月29日
N営業所の羽島さんという営業の女性から職場に映話がかかってきた。本社に来る用があるので会わないかという。
仕事が終わるのは何時かと聞かれたから、定時は十六時だと答えた。
わたしは準社員だから、就業時間は九時から十六時まで。庶務課にいたときには、十六時直前に用事を言われたりして一時間近くサービス残業になってしまうことがよくあったが、タイムサービス課ではおおむね定時に上がれる。三十分以上遅くなったことはほとんどない。
「じゃあ、帰り支度できてから営業部に寄ってくれる? あわてなくてもいいよ。十七時ぐらいまでなら待てるから」
映話が終わると、宇野さんが「N営業所の人と会うの?」と訊ねた。
「はい、羽島さんという営業の人と」
「ああ、羽島さんね」
宇野さんは羽島さんにあまりいい感情を持っていないようだ。それとも、異動する前にコンタクトをとるというのがいい感じしないのかな。
「外で会うの?」
そうたずねられて、そういえば羽島さんの言い方が変だったと気がついた。漠然と、社内でちょっと会うと思っていたが、そういえば、「帰り支度できてから」と言っていた。
「帰り支度できてから営業部に寄ってと言ってましたが。待たせちゃ悪いと思って、タイムカード押したらすぐ行くつもりだったんですが」
「いや、それは外に行くっていう意味よ。すぐ外に出られるように荷物とか持って行かないと、いやみを言われるわよ」
そう言ってから、宇野さんは言い換えた。
「……あー、荷物持って行かないと気まずいよ。たぶんね」
それって、お茶を飲みながら話すってことかな。
「羽島さんは十七時ぐらいの上がりなんですか? 十七時ぐらいまでなら待てると言ってましたが」
「さあ? 羽島さんは契約社員で、どういう契約になっているのかよく知らないけど。まあ、でも、営業の勤務時間の規定って、あってもないようなものだから。とくに、N営業所は。というか、羽島さんは」
どうやら羽島さんは、公私の区別があいまいな人らしい。宇野さんはそれを快く思っていないようだ。
「遅くまで引き留められるとか、遠くの店に行こうとするとか、負担が大きかったら無理することないよ。他人の負担とかあまり考えない人だから。何時までに帰りたいと、はっきり言ったほうがいいよ」
宇野さんが心配してくれるので、ちょっと不安になった。羽島さんって、ちょっとしんどい人かもしれない。まだ配属されてもいない初対面の新人を、相手の終業後につきあわせようというのは、ふつうはやらないだろうと思うし。タイムカプセル課に配属されたときだって、こんなことはなかったし。
で、羽島さんの話というのは……。
長くなりそうだから、明日書く。今日は疲れて眠いよ。
2093年8月30日
昨日の話になるけど、羽島さんたちと会ったときのことを書く。「羽島さんたち」と複数形なのは、連れていかれたお店で、N営業所の女性ふたりと合流したからだ。
宇野さんがわたしの負担を心配してくれたわけが分かった。羽島さんがわたしを連れて行ったのは、会社の近くの店ではなく、車で二十分ほど走った店だった。四車線の広い道路に面しているけれど、わたしにはどこかよくわからない場所だ。途中で帰りたくなっても、こんなところからひとりで帰れない。
店に入ってまもなく、羽島さんに連絡が入り、千川さんという人と、遠藤さんという人が来るという。その会話から、ふたりが同じ職場の人たちで、最初からその店でわたしを連れてくる前提で待ち合わせをしていたのだとわかった。
「ふたりとも終業時間は十六時だからね。この店がほぼ中間地点だから、待ち合わせるのにちょうどいいのよ」
羽島さんの言葉に内心でゲッと思った。本社とN営業所の中間地点といえば、かなり遠い。しかも、たぶん近くに鉄道駅はないと思う。
まもなく、千川さんと遠藤さんが到着した。ふたりは、遠藤さんの運転する車で来たという。千川さんは、実年齢はわからないが、見た感じ、うちの母親より年上に見える。つまり、五十歳前後か五十代ぐらいに見える。遠藤さんは羽島さんと同じく年齢不詳。羽島さんより若く見えたが、そのあとの会話から、ふたりは高校時代の同級生だとわかった。
で、三人は、N営業所の話をいろいろ聞かせてくれたのだが、人の悪口がうんざりするほど多い。出来高制で下請け仕事をしている人たちの悪口を言っていたかと思うと、同僚の悪口に入る。
おもに自宅で仕事をしている出来高制の人たちを別にして、所長や正社員からパートタイマーまで、所内で働いている人は三十人ほどと聞いたが、そのうちとくに槍玉にあげられていたのは五人ほど。女性では、河野さんという人と田野倉さんというひとがターゲットにされていた。
「河野さんてねえ、わたしより十歳近くも年上なのに、自分は若いと思ってるのよ」
羽島さんが言うと、遠藤さんが同調する。
「そう。若く見えるのが自慢。正確には八つ年上……だったかな?」
「はっきりした年は忘れたけど、まあ、とにかく、十歳近く年上。本人は若く見えてるつもりだけど、年相応に見えてるよ、ケッ。なのに、ピンクが大好きという痛いおばさん」
「ピンク?」と、それまで黙っていた千川さんが首をかしげた。
「河野さんって、ピンク好きだっけ?」
「ピンク大好きよー。ほら、携帯ピンクじゃん」
「ああ、そういえばそうね」
千川さんと遠藤さんが羽島さんに同調する。
「わたし、河野さんに嫌われてるみたい。前に少しきつい言い方したのを根に持たれているみたいで……」
遠藤さんが言うと、羽島さんと千川さんがいっせいに慰める。
「気にすることないって。あのおばはん、性格悪いんだからさ」
「きつい言い方っていっても、ほんとうのこと言っただけじゃないの」
河野さんについてはそんな感じ。そのほかの人についても、「性格悪い」「協調性がない」「仕事ができない」「暗い」など、いろいろ悪口を聞かされた。
いいかげん疲れた。親睦を深めるとか、N営業所のことを教えてくれるというより、自分たちとそりが合わない人の悪口をわたしに吹き込もうとしているように思える。そう思うのはうがち過ぎだろうか。
一時間ぐらい人の悪口を延々と聞かされたあと、N営業所に帰るという羽島さんに代わって、遠藤さんが送ってくれた駅から電車を乗り継いで帰った。初めて来る駅だったのでどう帰ればいいのかよくわからず、駅員さんに聞いたりして、なんとか帰った、迷ったり乗り間違えたりしたうえに電車が混んでいて、もうへとへと。駅前のファーストフード店でハンバーガーを食べて寮に帰ったら、九時近くになっていた。
N営業所に行くのがなんだか憂鬱だよ。