大昔出した立川の個人史1冊目「虹の都フーリア」に収録していた異世界ファンタジーの最終ページです。
頒布し終わって久しいので、3ページに分けて、サイトに全文掲載することにしました。
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サシャの亡霊が封じ込められたと聞いて、村人たちは、恐怖が覚めやらぬままに故郷の村に帰ってきた。いつサシャの亡霊が逃げ出すか、災いの神が気まぐれに戻ってくるかと思うと恐ろしくはあったが、やはり住み慣れた故郷に戻りたかったのだ。というのも、彼らが移り住んだ村や町の人々は、亡霊に呪われた村の出身者と知ると、とばっちりを恐れて、つらく当たったのである。
サシャの封印がどのくらいの効力を持つのかわからぬ村人たちは、相談のすえ、サシャの魂をなだめるために女神の称号を与えて祀ることにした。かつてのエデシュ神の神殿は、サシャ女神の神殿と名を変え、その隣には、災いの神が戻って来たときのために、より壮大な神殿が築かれた。
二柱の神に仕えるために、村じゅうから美男美女が七人ずつ選び出された。七人の美しい娘たちは、神の花嫁たる巫女候補として新しいエデシュ神の神殿に住み、七人の美しい若者たちは、女神の花婿たる巫者候補としてサシャの神殿に住むことになった。彼らは、エデシュ神が戻ってきたとき、あるいはサシャの封印が解けたとき、神の愛を得て神殿に留まらせる役割を担っていた。
村人たち、とくに巫女や巫者候補の美男美女たちの恐れにもかかわらず、長いあいだ、災いの神が戻ってくることも、サシャの亡霊が地底から抜け出すこともなく、村では、かつての災難が嘘のような平和な日々がつづいていた。
そんなある日のこと、サシャの神殿に礼拝した赤い髪の娘が、すぐには帰ろうとせずに、近くの木の陰にひそんで、湖のような青緑の瞳でじっと神殿のようすを窺っていた。
娘がずっと恋している美しい若者は、巫者候補に選ばれて神殿に住んでおり、娘は、恋しい人にひとめ会いたくてたまらなくなったのである。
長い時間木の陰に潜み、ようやく娘は、ひとりでテラスにたたずむ目当ての美青年を見つけて声をかけた。ペつだん娘に恋していなかった若者は、驚いて娘を追い返した。
傷心の娘は、神殿を出ると、村への近道の荒れ地に踏み入った。
娘は知らなかったのだが、荒れ地には災いの神エデシュがひっそりと隠れ住み、サシャの封印を解く機会を窺っていた。めったに人の通らぬ荒れ地を、首をうなだれてとぼとぼ歩く娘の姿を見て、エデシュ神はそっと近づくと、娘の口から体内に入って子宮の内に宿った。
娘は、ふいに何か恐ろしい気配を感じて気を失い、ずいぶん時間がたってから目を覚ました。片恋の若者より何十倍も美しい若者の夢を見ていたような気がして、娘はしばらくぼうっと物思いに浸ると、やがて村に帰っていった。
エデシュ神は、娘の胎内で、体を持たぬ神でも、人の父母より生まれた人の子でもない、神の魂と人の体を持つ赤子にと育っていった。身に覚えのない娘は、いつも空腹を覚えるようになり胴が太くなっていっても、己が胎内に宿った生命にはなかなか気がつかない。やがて娘よりも先に母親が気づいて問い詰めたが、身に覚えのない娘は怯えるばかりで、当然のことながら相手の名を答えようとはしない。
胎児の肉体を手に入れたエデシュ神は、体が充分成長するまで村人に怪しまれないために、己が記憶と力のほとんどを封印した。自分が神であることを忘れ、体を持たずに魂のみで浮遊するすべを忘れた。
それでもエデシュ神はやはり災いの神だった。災いは最初、母体となった娘にふりかかった。
娘の腹が目立つようになると、娘は近所じゅうの好奇の目にさらされ、両親には、腹の子の父はだれかと答えようのない質問を浴びせられ、不行状を責められた。胎内の子は、娘にとって災い以外の何者でもなく、超自然の子ではないかと本能的に悟っているだけに、恐怖の的ですらあった。
さらに、誕生のときに、エデシュ神は娘の恋する美青年に災いをもたらした。陣痛の苦痛と、何が生まれるかもしれぬという恐怖のなかで、娘は夢中で恋しい人の名を呼び、聞きつけた産婆は、それが赤子の父の名だと思い込んだ。
サシャ神の花婿になるかもしれぬ若者が村の娘と契ったと信じこんだ産婆は、驚き恐れて神官たちに訴え、まったく身に覚えのない美青年は、娘を恨み罵りながら、女神の怒りを恐れる村人や神官たちの手にかかって惨殺された。
次に災いがふりかかったのは、赤子を取り上げた産婆だった。恋人を殺されて半ば狂気に陥った娘に短刀で刺し殺されたのである。娘は、己が腹を痛めて産んだわが子ならぬ赤子をも刺し殺そうとして、気づいた両親に阻まれ、部屋に閉じ込められた。
神官や村人たちは、狂った娘と赤子を一度は殺そうと考えたが、赤子の並はずれた美しさを見て気が変わり、ふたりの命を助けて、娘の両親に任せることにした。サシャ神の怒りを買ったかもしれぬ母子ではあるが、この赤子が成長した暁にはさぞかし美しい若者となり、女神の寵を得て、村を災いから救うのに役立つかもしれないと期待したのである。
赤子はサームと名づけられ、傷心の祖父母に育てられた。老夫婦は、不幸な出生のサームを、狂気に追いやられた娘のために憎みながらも、あまりの美しさ愛くるしさゆえに愛さずにはいられなかった。ことに、物心つき始めた幼子が、とても悲しそうな女の人の夢を見ると泣きじゃくりながら言うのを聞くと、母親が恋しいのかと不憫でいとおしくなる。よもや、その夢の女が恐ろしいサシャ神とは、老夫婦にわかるはずもなかった。
サームが三歳の誕生日を迎えてまもなく、気のふれた若い母親は、隣室から聞こえる幼子の笑い声に、発作的に恐怖と憎悪を呼び覚まされ、ランプを取り上げると寝床の上に投げ出した。
まもなくシーツが燃えはじめ、火はたちまち部屋じゅうに広がっていく。恋人を死に追いやった、わが子でも人でもないはずの子供が、炎に取り巻かれて焼け死ぬところを想像して、狂女は甲高い笑い声を立てた。
隣室の窓際で遊んでいたサームは、火に驚いたはずみで窓から転がり落ちて運良く助かったが、かわいがってくれた祖父母と狂った母親は炎に巻かれて焼け死んだ。
孤児になったサームに、村人たちは食べ物や衣類を与えた。だが、焼け跡に住む幼子を引き取ろうと言い出す者はだれもいない。両親と祖父母の死を呼んだサームに、村人たちは、本能的に不吉なものを感じ取ったのだった。
サームは、かつてわが家だったものの残骸で太陽や雨露をしのぎ、愛は与えぬが食べ物は与えてくれる村人たちに養われ、ときには村人たちのその場しのぎの用を足して日銭を稼ぎながら、美しい少年に成長していった。
ほとんどの村人たちはサームを忌み嫌っていたが、若い娘たちには、漆黒の髪にふちどられた彫刻のような彼の美貌にすっかり魅せられ、不吉な噂にもかかわらず恋するようになった者が何人もいた。ある娘は片恋のつらさに河に身を投げ、彼女に恋していた若者はサームを憎んだ。また、ある仲の良かった姉妹は、サームの気を引こうと争って仲たがいし、その両親は彼を恨んだ。想う娘の愛を奪われた若者たちはサームを妬み、娘たちの熱狂ぶりを目にした親たちはサームを嫌った。
サームは、娘たちの恋にも村人たちの憎悪にもいっこうに無頓着だった。サームは孤独だったが、己れの孤独を満たす者は村人たちのだれでもないと知っていたので、どれほど忌み嫌われても心は少しも痛まなかった。
それよりもサームを苦しめたのは、自分の魂が体の中に閉じ込められているという、奇妙な考えだった。魂が肉体の束縛を離れて自由に飛翔するさまを、サームは何度も夢に見た。また、サームは、月明かりも届かぬ闇の中に閉じこめられている夢を何度も見た。
サームは闇が嫌いだったが、それでも闇から受ける閉塞感は、肉体による束縛に比べればはるかに自由なものだった。
もう一つサームを悩ませたのは、ときおり夢に見る美しい娘だった。娘は嘆き悲しんでおり、サームに腹を立て、呪ってさえいた。サームの夢の娘の話を聞いた者はみな、それは狂気のうちに死んだ母親に違いないと断言した。
だが、サームの母は赤い髪に青緑の瞳をしていたというのに、夢の中の娘は黒い髪と茶色の瞳で、いつも暗闇の中にひっそりと座っている。あの娘は母とは別人だと、サームは思った。彼女を闇の中から連れ出し、悲しみから解放してやらなければならない。理由はわからなかったが、そんな思いが、つねにサームにつきまとっていた。
6
サームが十六歳のとき、サシャ神の神殿に仕える神官が焼け跡を訪れ、もっとも美しい年令を過ぎた巫者候補の若者の代わりとして、サームを神殿に連れて行った。神官について行かねばならぬという奇妙な直感のままに、サームは、なぜかよく見知っている場所のように思える神殿に足を踏み入れた。
神殿に住む他の六人の巫者候補は、選り抜きの美しい若者ばかりだったが、サームの美貌の前では真昼の月のごとくかすんで見える。美青年たちは、サームの美貌を妬ましく思うとと同時に、まんいち女神が坐所から出たときの花婿役はこの新入りが受け持ってくれるだろうと考え、喜んで迎えた。
その晩、サームは、いつもよりも鮮明に、闇の中で嘆き悲しむ娘の夢を見た。夢から覚めると、サームは、何か落ち着かない衝動に駆られて寝室を抜け出し、奥神殿へとつづく扉の前に立った。
神秘の力で封印された開かずの扉と聞いていたが、肉体を持たぬ神でも人の父母より生まれた人の子でもないサームが手をかけて押すと、扉は難なく内側に開いた。このなかに入って行かねばならぬという奇妙な衝動のままに、サームは通廊を地下へと下っていく。
そのころ、他の巫女候補の美青年たちは、サームが寝室を抜け出したのに気づいて捜すうちに、開かずの扉が開いているのを見て真っ青になった。彼らは、恐くて逃げ出したかったのだが、封印の扉は二つあると聞いたことを思い出し、サームがもう一つの扉をも開ける前に止めようと勇気を奮って、暗黒の通廊に足を踏み入れた。
美青年たちがサームを見つけたのは、地下の広間だった。石の扉を開けようとしていたサームを扉から引き離し、間に合ったと胸を撫で下ろしながら、引きずるように連れて帰る。サームが手をかけていた扉がほんのわずか内側にずれ、封印がすでに解けていることに、気づいた者はいなかった。
一方、サシャもまた、封印が解けたことになかなか気づかなかった。頭上にエデシュ神の声と他の者のざわめきを聞いたような気がしたのだが、あまりにも長い虜囚の歳月のうちにサシャの希望はすっかり打ち砕かれており、糠喜びを恐れて、孤独な魂はその場に縮こまった。
閉じ込められてまもない頃には、サシャも、エデシュ神が助けにきてくれると信じて待っていた。闇の中で己れの境遇を悲観するよりも、かつて同じ孤独を味わったエデシュ神の絶望を思いやった。
だが、いつまで待ってもエデシュ神は助けに来る気配がなく、サシャの希望は潰えていった。
災いの神は、自分に仕える巫女にまで災いをもたらすのだ。そんな考えがサシャの心に浮かんだのはいつのことだったろう。いつしか、エデシュ神のことを考えると、サシャのことをすっかり忘れ去り、豊満な肢体の砂漠の女神と楽しそうに語らう姿ばかりが思い浮かぶようになっっていった。
エデシュ神が自由と同胞を得た代わりに、自分は、だれひとり語らう者もいない孤独のうちに暗闇に閉じ込められている。そう思うと、絶望と孤独に蝕まれたサシャの魂のうちで、エデシュ神に対する怒りと恨みが育まれていった。
何度となくサシャは、いつか死の精霊が言った言葉を思い出した。
「災いの神にはどうやって復讐するのだ?」
今ではサシャは、神官や村人たちへの復讐と同じくらい切実に、エデシュ神への復讐を欲していた。
長年の静寂を破って聞こえた声を、どうせ気のせいと思って無視しようとしたサシャだが、気になってたまらず、ついに封印の扉に近づいた。封印が解かれたことを知って、サシャのうちに、長いあいだに忘れ去っていた歓喜が蘇る。サシャの魂は、地上をめざして暗黒の通廊を上っていった。
表神殿との境の扉の前で、サシャは、話し声を聞きつけて立ち止まった。サームを寝室に閉じ込めて相談する巫者候補の若者たちの声だった。
「サームはなぜこんな恐ろしいことをしたんだろう?」
「サシャさまの封印は何ともなかったよな」
「女神さまが坐所からお出になれば、だれかが花婿に選ばれなければならないよ」
「並はずれた美しさからいって、サームが女神さまのお眼鏡にかなうだろう」
「そうあってくれればいいんだが……。だれも女神さまのお気に召さなければ、ぼくたちはみな殺されてしまう」
「不吉なことを言うんじゃない。第二の扉は閉ざされたままじゃないか。女神さまはお出にはならないよ」
興味をそそられて聞き耳を立てるうちに、サシャは、おぼろげながら事情が呑み込めてきた。
(わたしが女神? あの連中はわたしの花婿候補ってわけ? 神官や村のやつらの考えることって、なんてワンパターンなのかしら)
あきれながら表神殿にすべり出ると、六人の美しい若者が、サシャの姿を見て恐怖と驚愕の叫びを上げた。少女のあどけなさを残したサシャの面立ちは、身の毛もよだつ恐ろしい女神という、彼らの想像するサシャ像とはかけ離れたものだったが、奥神殿から出てきたからにはサシャ女神以外の人であるはずはない。
怯える若者たちを眺めまわし、サシャは、女神の花婿候構に選ばれるだけあって、確かに美しい男たちだと感心した。だが、このうちのだれひとりとして、憎いエデシュ神の美しさには比ぶべくもない。
「わたしの美しい花婿候補たち」
震えながら後ずさろうとする美青年たちを見まわし、サシャが口を開いた。
「女神の花婿とは、すなわちいけにえ。村のやつらは、自分たちが助かりたいばかりに、おまえたちをわたしに捧げたのよ」
「お助け下さい、女神さま」 美青年たちのひとりが、かすれた声で訴えた。
「慈悲なら、村のやつらに乞えばよかったのよ。おまえたちをいけにえに選んだのは、村のやつらなんだから」
「女神さま、もしわたしたちのだれもお気に召さずとも、サームと申す者なら、あなたのお気に入るでしょう。サームはわたしたちのだれよりも美しい者。サームがあなたをお慰めしましょうほどに、お怒りを静めて下さいませ」
「おまえたちは、この場にはおらぬ仲間をいけにえにするつもりなの?」
嫌悪感と怒りに駆られてサシャが声高に叫んだとき、寝室の扉がすさまじい音を立てて開き、美しい少年が転がり出た。寝室に閉じ込められていたサームが、サシャの声を聞きつけて、体当たりで錠をぶち破ったのだ。
「サーム」
驚いた美青年たちが叫び声を上げる、それとは違う名が、思わずサシャの口をついて出た。
「エデシュ」
サームは、エデシュ神を幼くしたような美しい顔をサシャに向け、エデシュ神と同じ黒い目で、恐れるようすもなくまっすぐにサシャを見つめた。あまりにもエデシュ神に似た容貌以上にサシャを驚かせたのは、サームの体の中に隠された魂だった。人間の少年の体を持ちながら、その魂はまさしくエデシュ神であることを、サシャは見抜き、何が起こったのかわからずに混乱したままサームを見つめた。
「美しい女神さま」
人間の少年になりきった口調で、サームが呼びかけた。
「ぼくはあなたを知っている。ぼくは、生まれる前に、あなたに会ったことがあったはず」
少年がエデシュ神の記憶を持ち合わせていないことを知って、サシャは怒りを掻き立てられた。
サシャが命の危険にさらされていたときイフェ神と楽しく過ごしていたエデシュ神。そのためにサシャが命を失い、亡霊となって闇に閉じ込められていたあいだ、エデシュ神は、生きた人間の人生を過ごしていたのだ。
激しい怒りに駆られて、サシャは少年に歩み寄ると、細い首に手をかけた。長い歳月の間に積もり積もった恨みと悲しみが一挙に噴き出し、サームを打ちのめした。苦悶に顔を歪めた少年の心臓の鼓動が停まるまさにその一瞬、少年の心がサシャに流れこみ、二つの魂が融合した。
サシャはすべてを理解した。人ならぬエデシュ神にとって、人間の少年の肉体は牢獄以外の何物でもなかったことも、サシャを閉じ込めた封印を解くために、エデシュ神が自らを人の肉体に封じていたことも‥‥‥。
驚いてサシャが手を離すと、サームの体はどさりと床に放り出された。息絶えて床に横たわる少年の姿を見て、巫者候補の美青年たちは悲鳴を上げて神殿から逃げていく。サームの体から抜け出したエデシュ神の姿は、彼らに見えようはずはなかった。
長年の疑惑と恨みから解放され、呆然と懐かしいエデシュ神を見つめるサシャに、人の体の束縛から解放された神は、何事もなかったかのように語りかけた。
「もうここにいる必要はない。早く立ち去ろう」
サシャの魂は、その後も死の国に安らぐことを拒み、世界じゅうを旅して歩いた。憎悪から解放されたサシャの魂は、もはや人の目に触れることばない。とき時おり、サシャは、エデシュ神の新しい坐所を訪れた。
今ではエデシュ神は、雨の神や天の神の坐所よりもさらに高く、いかなる生き物も住まぬ永遠の夜空を住み家としている。同じように冷たく暗くとも、そこは神殿の地下とは正反対の場所だった。星も見えれば月も見え、緑なす地上の世界を見ることもできる。何よりも、封じ込める壁も扉もないこの場所が、エデシュ神は気に入っていた。
エデシュ神とサシャの二つの神殿には、相変わらず、神々が帰ってきたときのために、巫女候補の美しい娘と巫者候補の美しい若者が七人ずつ住んでいる。魂の姿を見ることができぬ人間には、解放され、歓喜して夜空を駆ける美しきエデシュ神とサシャの姿を知るすべはなかったのである。