サラライナ物語 沙蘭国の王女たちー道中編1

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 砂漠の宝石サラライナを後にしたときから、洛人二百余名、サラライナ人数十名の一行には険悪な雰囲気が漂っていた。サラライナ人たちは、侍女と従者とを問わず、表面は礼儀正しくふるまいながらも洛人たちを憎んでいたし、洛人たちはサラライナ人に対して、属国同然の小国の民と見下す態度を隠そうとはしなかった。
 洛人たちの多くは、サラライナ人たち、とくに侍女たちがきわめて砂漠の旅に強いことさえ気に食わなかった。洛では「女性はか弱いもの」という意識が強いので、男の従者たちが暑さにも渇きにも強いことはそれほど気にならなくても、侍女たちがほとんど疲れたようすを見せないのには謂れのない不快感を覚えたのである。
「沙蘭の女というのは可愛げがないな」
「まったくだ。とても女とは思えん」
 侍女たちへの反感が募ると、洛の男たちはささやき交わした。
「助かったじゃないか。か弱くてぶっ倒れたりされたら困るところだ」
 反論するのは、朱明羽をはじめ、サラライナの女たちの頑健さに素直に感心している少数の男たちだけだ。
「ぶっ倒れるぐらいなら、まだ可愛げがあるさ」
「そうそう。あれじゃ、抱こうって気にもなれん」
 そう言った兵士仲間が、じつは昨晩、侍女たちのひとりを押し倒そうとして痛い目をみたことを、明羽は知っていた。侍女たちは皆、貴族の姫のように誇り高く、戦士のように剣を携えていて、めっぽう強かった。気の向いたときに気に入った相手を誘惑する女はいたが、乱暴や無理強いはけっして許さない。
「女どもは副使どのがお目当てなのさ。あの人は見目よいからな」
 兵士のひとりが毒づき、明羽は首をかしげた。
 侍女たちが副使の董玄焔に注目していることは、明羽も気づいている。だが、色目を使っているというふうには見えない。好意というよりは、敵にまわすと恐るべき人物だというので警戒しているのではないのか。
 玄焔が術を使ってカウリンからさまざまな事柄を聞き出したことを明羽は知らなかったが、侍女たちが玄焔を要注意人物と見なす理由はいくらでも見当がついた。玄焔は副使だし、そのうえサラライナでの細々とした交渉で、真の実力者は正使ではなく副使だということは一目瞭然だった。
 それに、狂った案内人に襲われたとき、玄焔はひとりセウネイエー姫の変装を見破っている。いや、そもそも、セウネイエー姫が尾行していたことから推して、その前から玄焔は要注意人物とされていたはずだ。そんな事情を知っているだけに、明羽には兵士仲間たちの誤解が不可解だった。
「副使どのは、もてているというより、警戒されているのではないか」
 明羽が言うと、兵士たちは笑った。
「おまえ、副使どのに惚れこんでいると思っていたが、けっこう言うじゃないか」
 そういう仲間の言葉は明羽にはますます不可解で、意味を理解するのに少し時間がかかった。
 あろうことか、仲間たちは、明羽が玄焔をこき下ろしたと思ったのだ。それがわかると、明羽は腹が立つよりもあきれた。
 仲間たちが明羽の言葉を冗談だと思ったのか、玄焔がもてることに妬いたと思ったのか、それはわからない。言った兵士や笑った兵士たち自身に玄焔を妬む気持ちがあったのかもしれない。どちらにしてもあまり気分がよいものではない。
 明羽は毒舌だが、この手の冗談は、本人に向かって言うことはあっても、本人のいないところで言うことはない。まして冗談半分にせよ、妬んでいると思われれば気分が悪い。
 それ以上に、兵士仲間たちが沙蘭の女たちに対して警戒心を持っていないことに、明羽はあきれた。
 強い者には素直に感心する兵士たちだが、役人たちと同じように、洛の女たちとかけ離れた沙蘭の侍女たちを目の前にしても、女が男に向ける視線は色恋によるものだという思い込みを捨てられずにいるのだ。
 実際のところ、洛の女たちでも男たちを色恋の視点だけで見ているわけではあるまい。
 洛の女たちは親の選んだ相手に嫁ぐうえ、男に養われなくては生きていくための糧を手に入れられないのだから、恋ではなくて家柄や地位や収入によって男を見ることも多いはず。立場が弱いゆえの打算はあるだろう。だが、洛の男たちの多くはそれすら色恋のうちと思いこんでおり、武将が敵将を探るような目で女が男を見ることがあるかもしれぬとは、とうてい考え及ばないのである。
 奇妙なことにレアウレナエー姫に対してだけは、だれもが賛嘆の目を向けた。
「なまいきな侍女どもや少年のような妹姫と何という違いだ。わが洛帝国にも、あれほどたおやかな姫はまずおるまい」
 一方で、幾人か、ことに学に秀でていると自認する都の高官たちは眉根を寄せる。
「かの姫ならば、皇帝の寵愛はさぞ重くなろう。古来、あまりにも並外れた美女は皇帝の心を惑わし国を滅ぼすと言われている。悪いことが起こらねばよいが」
 そのくせ、レアウレナエー姫が皇帝に及ぼすことになる影響を想像すると、いそいそと姫の機嫌を取ろうとする。侍女たちと洛の高官たちとの二重の垣によって、明羽などの下々の兵士たちは、めったに姫に近づくことはなかったが、姫のほうは身分によって分け隔てするつもりはないようで、サラライナ人にも洛人にも、高位の役人たちにも下々の兵士にも、等しく花の咲き匂うような笑顔を向けた。むろん、洛人、ことに都の高官たちに向ける笑顔が本心からのものであるはずはなかったが、そのことに洛人たちは気づいていない。
「レアウレナエー姫がたおやかとは思えないけどね」
 あるとき、明羽はそんな疑問を口に出した。
「あまり疲れたようすを見せないのは、姫も侍女たちも同じじゃないか。それなら、侍女たちがたくましくて、姫がたおやかということはないだろう」
「何てことを言うんだ」
 仲間の兵士たちは驚いたようだ。
「姫君は、皆に心配をかけまいとけなげに耐えていらっしゃるのだ。姫と侍女たちとでは、体格からして違うではないか」
 たしかに、侍女たちはがっしりした体格の者ばかり。例外はいちばん年若の見習いらしい侍女だけだ。どう見ても、侍女となるには若すぎるから、何か事情があるのかもしれない。
 あさましいことに、侍女たちに相手にされない洛の兵士たちのなかには、この子供といってよい年齢の少女に欲望の視線を向ける者もいた。侍女たちにはかなわなくとも、この少女なら力ずくで屈服させられそうに見えたからだ。だが、少女はいつも王女たちかカウリンのそばにおり、王女たちもこの若すぎる侍女にことのほか目をかけているようで、手を出せた者はだれもいない。
 むろん、明羽は、この侍女が、自分が斬り殺した男の娘とは想像もしていなかった。

 洛人たちがサラライナの侍女たちに悪感情を持っているなら、サラライナ人たちの洛人に対する悪感情はそれ以上だった。
 大切な王女たちを奪われるだけでも、洛人を憎悪する理由は充分だが、そのうえ洛人たちの大半は横暴で、サラライナ人たちを下女や下男のように扱おうとする。その憤りが激しいのは、侍女たちよりもむしろ男の従者たちだった。
 男たちは、最後まで王女たちの供をすることができないとわかっているだけに、それに対する鬱屈や、自分たちが帰国した後の王女たちを案ずる気持がやり場のない怒りとなる。
 それに対して侍女たちは、じつはもともと侍女ではなく、女兵士たちの中から選りすぐられた者たちであり、洛帝国に到着後も王女たちに仕えることができるはずだったから、男の従者たちより気持ちに余裕があり、洛人たちに対して寛容にさえなれた。なかには、容貌や気性など多少なりとも好感を持てる洛の兵士に秋波を送って、寝所をともにする侍女さえいた。そこまでする気のない者でも、サラライナ人には洛の言葉がわからぬと信じ込んでいる洛人たちが、もの言わぬ動物に対するような安心感からとりとめのない愚痴をこぼすようなことでもあれば、黙って聞いてやった。洛人どうしの会話にも耳を傾けた。言うまでもなく、すべては情報収集のためだった。
 そうして集められた情報は、毎晩王女たちの天幕に報告され、六日目の夜、レアウレナエー姫は、妹姫とカウリンを前に一つの結論を口にした。
「洛の皇帝はかなりの圧制を敷いているようですね。皇帝自身の人柄か国の仕組みによるのかはわかりませんが。庶民の出の兵士たちは、ほとんど皆が皇帝に不満を持っているようです。彼らの不満は、辺境の民の不満をおおむね代弁していると見てよいでしょう。問題は、都の民や貴族たちが皇帝の治世をどう思っているかでしょうね」
 カウリンはうなずき、悔しそうに言った。
「都の役人たちからもっと聞き出せたらよろしいのですが。彼らはわたくしたちを嫌っておりますゆえ、うまくはゆきませぬ」
「無理をすることはありません。彼らに関しては、サラライナでそなたたちが探ってくれたことで充分です」
 レアウレナエー姫の言葉で、カウリンは董玄焔にしてやられた屈辱を思い出し、顔を赤らめた。だが、あの夜、カウリンは失敗したものの、他の役人たちの寝所に赴いた女たちは、見破られることなく相当の情報を聞き出していた。
「彼女たちを連れてくるべきだったかもしれません。わたくしは色仕掛けがどうも苦手です」
 カウリンが正直に認めた。それなのに玄焔に色仕掛けをしかける役を自ら買って出たのは、洛帝国に滅ぼされた故国の王族たちの行方をどうしても聞き出したかったからである。
 玄焔は油断ならぬとセウネイエー姫に警告されたが、ほんとうに寝所を共にするわけではないとはいえ、容姿や人柄に嫌悪感をあまり抱かずにすむ相手として、玄焔を選んだのだ。他の役人たちでは、いくら薬物を使うとはいえ、盛った薬が効きはじめるまで嫌悪感を隠しておく自信がなかったのである。
 それが裏目に出てしまった。やはり、遊女であり間諜でもある女たちに任せるべきだった。
 カウリンだけでなく他の侍女たちも、誇り高いだけに、好き嫌いが表面に出やすい傾向がある。もっと色仕掛けに熟達した者たちを連れてきたほうがよかったのではないか。
 そんな思いに気づいたのか、レアウレナエー姫が口を開いた。
「おのれの身を守れぬ者たちを連れて来たとて、足手まといになるだけでしょう」
 レアウレナエー姫の言い方は辛辣だが、裏を返せば、自分の身を守れぬ者を危険にさらすべきではない、守ってやれぬなら伴なうべきではないということを意味している。それを、セウネイエー姫もカウリンもよく知っていた。
「それに、侍女たちが自分の好みで色仕掛けをしているのはかえって好都合です」
 レアウレナエー姫が微笑んだ。
「侍女たちと親しくなった者と折り合いの悪い者との間に溝ができかけています。男には嫉み深い者があんがい多いから、うまくすれば反目させることができるでしょう」
「嫉み、なのですか? 洛人たちのあいだが必ずしもうまくいっていないのは?」
「嫉みがすべてではないにしても、反目の大きな要素となっているようですね。男女のことだけでなく、それ以上に地位や能力に関しても嫉妬の気持ちが強い。正使をはじめ、華陽の都の役人たちは副使を嫉んでいます。おそらく正使は、都でそれほど力を持ってはおらぬのでしょう。出世頭と目されているのは副使のほうです。副使は有能だが高い家柄の出ではない。つまり、彼を登用した洛帝国の宮廷は、善政を行ってはおらぬが、能力よりも家柄を重視するほど愚かではないということです」
 どうやってレアウレナエー姫がこれだけの推論を組み立てたのか、いつものことながら、セウネイエー姫とカウリンは感心する。ふたりとて、同じように侍女の報告を聞き、洛人たちの会話に耳を傾けていたはずなのだが。
 ふたりとも、この推論が思い込みなどではなく、正しいことを確信していた。世継ぎの姫はかなりの確信のあることしか口には出さぬし、判断を誤ったことなど、ふたりの知っているかぎり一度もない。
「では、正使と副使は反目していると見ていいのでしょうか」
 セウネイエー姫の言葉に、姉姫がうなずいた。
「正使たちは、副使を家柄によって軽んじているし、同時にその能力と上層部からの信頼を嫉んでいます。副使の方も、正使たちに礼儀正しく振る舞っているけれど、そのじつ歯牙にもかけてはいないし、信頼もしていません」
「それで、副使は、わたしから聞き出したことを正使たちに告げてはいないのですね」
 カウリンが納得したようにつぶやいた。正直言って、少しほっとしていた。董玄焔に、洛帝国に滅ぼされた嵯柘(サシャ)国の王家の血縁者であることを知られたのは、どう考えてもまずかった。
 出立前、レアウレナエー姫は、玄焔がおそらくは他言しないだろうし、他の者に知られたからといって、いまさらカウリンが捕らえられることはまずあるまいと判断した。だが、カウリンは、玄焔がいつ正使たちに話すか、ずっと気になっていたのだ。正使たちに知られたからといって、即座に身の破滅につながるわけでも、王女たちに迷惑が及ぶわけでもないだろうが、面倒は避けられるにこしたことはない。
「それにしても、サムピナは少し遅いようですね」
 政治向きの話の終わりを告げるように、レアウレナエー姫が口に出した。
 最年少のサムピナは、王女たちの身の回りの世話をするため、カウリンとともに王女たちの天幕で寝起きしている。今は兄のチムチャのところに行っているはずだ。
「兄妹水入らずで話し込んでいるのでしょう。もう少しそっとしておいてやりましょうよ」
 そう言ったものの、セウネイエーは急に心配になってきた。他の侍女たちと違って、サムピナには自分の身を守るほどの力はない。それは洛人たちも気づいているはずだ。 「ようすを見てきます」
 心配で落ち着かなくなって、とうとうセウネイエーは立ち上がった。
「あ、姫さま、わたくしが……」
 カウリンがあわてて立とうとするのを、セウネイエーが制する。
「散歩ついでだもの。すぐ戻るわ」
 セウネイエーが出ていくのを見送りながら、カウリンはためらった。野獣のごとき洛人どもがうろうろしている中に、王女をひとりで行かせてよいものだろうか。だが、いくら外に護衛兵がいるとはいえ、レアウレナエー姫をひとり天幕に残すのもためらわれた。
「わたくしのことなら、かまいませんよ」
 カウリンの迷いをくみ取って、レアウレナエー姫が微笑んだ。だが、ついて行けと命じはしない。妹姫の身に危険など及ぶはずのないことはよく承知している。ただ、カウリンが気になるならついて行けばいいと思っているだけだ。
「失礼します。すぐ戻ります」
 一礼すると、カウリンはセウネイエー姫の後を追いかけた。姫に護衛などいらないことは、カウリンとてよくわかっている。だが、サシャ国で育ったカウリンには、王女が護衛もつけずに、騎士か平民の少年のようにふるまうというのは、やはり抵抗があったのだ。

 そのころ、サムピナは、砂の上に立ち尽くしていた。身じろぎもせず、視線だけは右腕を這う蠍の黒い姿を追っている。
 さきほどから、右腕のひじは脇腹につけて同じ角度に曲げたまま。動かせば、驚いた蠍に刺されるだろうと、よくわかっている。
 命を持たぬ彫像のように立ち尽くしたまま、サムピナは、蠍が去っていくのをじっと待っているのだが、その気配はない。蠍は少女の腕を登りかけ、かすかにふくらんだ胸に移ろうかどうか迷うように、はさみを揺り動かした。
 思いきって左手で叩き落とそうかと、サムピナは思案した。うまく叩き落とせても、左手を刺されることぐらいは覚悟しなければならないだろうが、それで死ぬことはあるまい。だが、胸や首を刺されれば命にかかわる。
 決心がつかないまま、サムピナは、あてもなく助けを求めて顔を上げ、そこに思いがけず希望を見出だした。
 月明かりのもと、少し離れたところに、洛の兵士がひとりいる。朱明羽。サムピナも名前は知っている。董玄焔と親しい兵士だ。サラライナの兵士ならもっとよかったのだが、この際、贅沢は言っていられない。
「助けて」
 蠍を刺激しないよう気をつけながら、サムピナは声を出した。だが、明羽はちらりとふり返っただけで、そのまま立ち去ろうとする。サラライナ語では意味がわからなかったのだ。やむなくサムピナは、今度は洛の言葉で呼びかけた。
「助けて」
 今度こそ明羽は、助けを求められていると気づいて、小走りに駆け寄ってきた。少女の腕の蠍を見てとると、腰にさしてあった短刀を鞘ごと取り出す。緊迫感のために、洛語を話せないはずの沙蘭の侍女が洛語で呼びかけてきたことにも、疑念が起こらない。
 明羽は、足音を立てないようにしてサムピナに近寄ると、短刀を鞘に入れたまま蠍の方に伸ばし、一気に払った。
 一瞬、蠍が短刀に飛び移ったかに見えたが、すぐに宙に跳ねとび、砂の上にぽとりと落ちた。すぐさま、明羽が靴で踏みつける。
 ほっと胸をなでおろしたサムピナは、明羽が短刀を手にした右手の甲を左手で押さえているのに気がついた。
「刺されたの?」
 夢中で蠍を踏みつけていた明羽は、無意識に押さえていた右手の甲に目をやった。
「ああ、そのようだな。でも、かすっただけだから」
「だめよ!」
 叫ぶと、サムピナは明羽の手を取った。
「蠍の毒は恐いんだから」
 サムピナは、手際よく傷口から毒を吸い出し、砂の上に吐き捨てる。何度かそれを繰り返すのをとまどったように眺めていた明羽は、そのときになってようやく、沙蘭国の侍女は洛語を話せなかったはずだと気がついた。
「とりあえず毒は吸い出したけど、薬も塗っとかなくちゃ。ついてきて」
「ありがとう。ところで、あんた……サムピナさんだっけ、洛の言葉が話せたんだな」
 サムピナは、はっと口に手を当てた。が、すぐに気を取り直した。
「少しだけなら。カウリンさまに習ったから」
 洛語を話さざるを得なかったときの言いわけとして、前もって教えられていた通り、サムピナは、意識的に少したどたどしく聞こえるように洛語を口にした。先ほどと比べて不自然すぎないかと、ひやりとする。演技を忘れて流暢にしゃべりすぎた。だが、子供だと思って安心しているためか、明羽にはそれほど疑念に思っているようすはない。 「手当てしたほうがいい。早く」
 サムピナが明羽をせかせて侍女たちの天幕に連れていこうとしかけたとき、セウネイエー姫の声が聞こえた。
「サムピナ?」
 ふり向くと、王女とカウリンが近づいてくる。
「そこで何をしている?」
 語気鋭く王女が洛語で問いかけたのは、サムピナにではなく、明羽に対してだ。
「あの、姫さま。蠍に刺されそうになって、この人が助けてくれたのです。でも、この人のほうが刺されてしまって……。薬をつけてあげたいのですけれど」
「蠍に?」
 険しかった王女の表情がやわらいだ。
「見せなさい」
 セウネイエー姫に突然手を取られて、明羽はうろたえた。目上を目上とも思わず「恐れ知らず」といつも言われる明羽だが、この年下の王女にだけは、神仙を前にしたときのような畏れを感じずにはいられない。
「毒は吸い出したのですけど」
 サムピナが口を出した。サラライナ語だから、明羽には意味がわからないが、状況からだいたいの見当はついた。
「わかった」
 サラライナ語で答えたセウネイエー姫は、明羽の方に向き直った。
「すぐに手当てしよう。ついてきなさい」
「姫さま、わたくしが……」
 あわててカウリンが口をはさむ。いくら気さくな姫とはいえ、一国の王女が手ずから異国の一兵士の手当てをするなど、カウリンの感覚からすればとんでもないことだった。
「わかった」
 セウネイエー姫は、素直にうなずくと、後をカウリンに任せ、先に立って姉姫の待つ天幕へと戻っていく。カウリンとセムピナは、そのすぐ後から、王女たちの天幕のすぐ近くにある侍女たちの天幕へと明羽を導いていった。
 自分たちの天幕に入るまぎわ、セウネイエー姫は、ふいに明羽の方をふり向いた。
「朱明羽」
 まっすぐな瞳に見つめられて、明羽は不本意ながらどぎまぎした。
「はい?」
「言い遅れたが、サラライナの侍女を助けてくれたこと、礼を言う」
 生真面目な表情にぶっきらぼうな言い方だったが、本心から言っていることは明羽にもわかった。
「いや、べつに……」
 とまどって口ごもっているあいだに、王女はさっさと自分の天幕に入ってしまい、明羽は、蠍の毒がまわりかけてぼんやりした頭で、もっと気の利いた返事を返せばよかったと後悔した。

 侍女たちの天幕で手当てを受けているうち、明羽は高熱を出して意識を失い、そのため、一行は、その場に二日余分に留まることになった。
 三日目の朝、熱が引いて気持ちよく目を覚ました明羽は、自分が見慣れぬ天幕に寝ていることにとまどった。帳で床のまわりを仕切られているが、兵士たちの天幕より贅沢なものだと見て取れる。おまけに体の下には、かなり厚くて柔らかい毛皮が敷かれ、寝心地がよい。
「気がついた?」
 ふいに帳の向こうから少女が顔をのぞかせ、明るい声を出した。王女たちの最年少の侍女。彼女が蠍に刺されそうになっているところを助けたのだと、明羽は思い出した。
「ここは……? まさか……」
 明羽が青くなったのに対して、少女は平然と答えた。
「わたしたちの天幕よ」
「なんてこった」
「何かまずいことでもあるの?」
「洛帝国でなら死刑になるところだ。一介の兵士が王族の侍女と同じ部屋で一夜を明かすなんて……」
「一夜じゃないわ」
 言いかけて、サムピナははっと気がついた。洛語を少ししか話せないという演技をまた忘れていた。だが、さいわい明羽は、とまどいのあまり、少女の洛語が流暢すぎたことには気づいていないようだ。
「一夜じゃない?」
「二晩、泊まった」
「やれやれ」
「ずっと、帳で囲ってあった。それに、おまえ、意識なかった。醜聞になるようなこと、何もない」
「そりゃあ、そうだけど」
「おまえ、気が小さい」
 サムピナの指摘に、いつも恐いもの知らずと言われ慣れている明羽は面食らった。だが、すぐにいつもの軽口を取り戻す。
「そうなんだ。おれは気が小さいんだよ。だけど、そう言ってくれたのは、あんたが初めてだ」
 明羽の口調が急に変わったことに、サムピナは驚き、それからひとしきり笑うと、明羽の傍らに腰をおろした。
「助けてくれて、ありがとう。お礼を言うのが遅くなった」
「いや」
 改まって言われると照れくさくなって、明羽は少女から顔を背け、起き上がろうとした。とたんに足がふらついてよろけ、サムピナに支えられる。
「まだ無理よ。二日間、何も食べてないんだもの」
 たしなめるようにそう言って、サムピナははっと手を口に当てた。また、演技を忘れてしまった。さすがに今度は、明羽も、少女の洛語がふしぎに流暢なことに気がついた。
 だが、その疑問を口にする前に、サムピナは身をひるがえした。
「食べ物、持ってくる」
 言い残して少女が走り去るのを、明羽は首をかしげて見送った。だが、少女のたどたどしい話し方が演技かもしれないとまでは思い至らない。これがカウリンや他の侍女なら疑ったかもしれないが、サムピナはせいぜい十一、二歳。明羽の目から見れば、どう見てもあどけない子供にすぎなかった。

 サムピナが持ってきてくれた粥を食べ、明羽が足をふらつかせながら天幕から出ていくと、まもなく一行は出立することになった。王女たちの側から、病人のためにあと一日出立を延期してはどうかという申し入れがあったのだが、正使の洪金栄が拒否したのだ。
「おそれ多くも皇帝陛下は、麗蓮姫さまのご到着を今か今かと待っておられる。一兵士のために、これ以上遅れるわけにはいかぬ」
 洪をはじめ、貴族に生まれ育った洛帝国の文官たちにとっては、庶民出身の一兵士など塵にも等しい存在だった。それに、自分たち高位の役人にはつっけんどんな侍女たちが、庶民の明羽にやさしい態度を示したことも気に入らなかった。沙蘭の侍女には女性らしい心遣いがないというのがつね日頃の不満だったが、彼女たちが下々の一兵士に対してだけやさしい心遣いを見せるというのは、もっと気に食わない。まして、その一兵士というのが、いつも生意気で虫が好かぬと思っていた者であればなおさらだ。
 洛の文官たちのなかで、明羽の病状を思いやったのは、副使の董玄焔だけだろう。玄焔は、荷運び用の砂鳥を一羽、明羽のために空けようとしたのだが、洪に止められた。
「その鳥から荷をおろせば、他の鳥に負担がかかる。さすれば、行程が遅れよう」
「これだけ体力の消耗している者を歩かせれば、命にかかわります。輿入れに死者が出るのは不吉ですぞ」
 そうたたみかけられると、さすがの洪もぐっと言葉に詰まった。
 おのれに忠実な兵士をかばっているだけではないか。そうは思っても、慶事に死者が出るのが不吉なのは確か。とくに、虫や蛇の毒による死者は不吉中の不吉とされている。皇帝の耳に入れば、正使たる自分の業績に汚点がつく。
「ふん、では勝手にするがよい。だが、遅れることはならんぞ」
 洪金栄が立ち去ると、はらはらしながら見守っていた兵士たちが、さっそく一羽の砂鳥から荷物をおろしはじめた。
 後を兵士たちに任せて自分の砂鳥の方に行きかけ、玄焔は、サムピナがじっとこちらを見ているのに気がついた。その傍らには、サラライナ人の護衛兼従者のなかでも、もっとも年若い少年が立っている。旅のあいだずっと、サラライナ人たちを注意深く観察していた玄焔は、彼の名がチムチャで、サムピナの兄だと知っていた。
 玄焔と目が合うと、サムピナとチムチャは、そそくそと立ち去ろうとする。
「用があったんじゃないのか? サムピナにチムチャだったな?」
 玄焔に呼び止められて、サムピナとチムチャは驚いてふり返った。サムピナの名を覚えている洛人は多くても、従者の名まで記憶に留めている者がいるとは思っていなかった。
「明羽さんに、妹を助けてもらったお礼を言いにきたんです。でも、今、お忙しそうだし、後で改めてと思って……」
 チムチャがあまり流暢に洛語を話すので、サムピナが驚いてそっと背中を小突いた。だが、チムチャは彼なりに、副使の前でへたな演技をするのはかえってまずいと判断しており、意に介さない。
「へえ、おにいさんがいっしょだったのか」
 緊張するチムチャとサムピナとは対照的に、明羽が屈託のない笑顔を向けた。
「ほんとうにありがとう、明羽さん。あなたのご恩は忘れません」
「いや、そんな……」
 照れくさくなって、明羽は話題を変えた。
「ずいぶん、洛の言葉がうまいんだね」
 チムチャとサムピナは、そばで話を聞いている董玄焔の目が一瞬鋭くなったような気がして、ますます緊張する。だが、実際には、玄焔は表情ひとつ変えていない。
「父に習いました。商人になりたかったので」
 兄の意図を、サムピナは理解した。自分が洛語を解するのは個人的な事情によるもので、他の侍女や従者はそうではないという印象を、玄焔と明羽に与えようとしているのだ。
 だが、あいにく玄焔にとっては、そんなことはたいした問題ではなかった。侍女たちのほとんどと従者たちの何人かは洛語を解するだろうと、玄焔にはとっくに察しがついている。
 副使が何も言わずに自分の砂鳥のほうに立ち去ると、チムチャとサムピナは、明羽にもわかるほど、ほっと緊張を解いた。
「そんなに緊張しなくても、副使どのは気さくでいい人だよ」
 笑ってそう言った明羽は、チムチャとサムピナの表情が険しくなったのを見て、口をつぐんだ。サラライナ人にとって、洛人がいい人のはずがない。なんといっても、彼らの大切な王女たちを奪おうとしているのだ。たまたまサムピナを助けたぐらいで、サラライナ人との溝が埋まるはずがなかったのだ。


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