赤の領主黒の兵士・その5

異世界ファンタジー小説の5ページ目です。
「聖玉の王」の外伝にあたりますが、物語としては独立しています。

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        5

 その日から、エイリーク卿の城でのレイヴの生活がはじまった。
 レイヴは、客用の寝室を一室あてがわれ、生まれてこのかた眠ったことのないようなふかふかのベッドで眠り、今までいちども食べたことのないようなごちそうを、毎日のように口にした。
 エイリーク卿は、城も食事もその他の生活も、けっして華美なものではなく、王家の血に連なる最有力諸侯という身分にしては、むしろ質素な暮らしをしていたが、それでも、住む家もなく、ときには空腹をがまんしながらその日暮らしをしてきたレイヴにすれば、夢のようにぜいたくで安楽な生活だった。
 衣服もまた、それまで着ていたものは行軍のあいだに汚れ、ぼろぼろになっていたので、エイリーク卿のお古を何着か渡されたのだが、いずれも、レイヴが一度も身に着けたことのないような上等の品だった。
 それらの衣服を身に着けたレイヴは、こそどろのようなことをして暮してきた人間とはとても思えず、口を閉ざしてさえいれば、じゅうぶんに騎士階級の者に見えた。それどころか、騎士のなかにも品のよくない者はいくらでもいたので、そのような者たちに比べれば、レイヴのほうがはるかに貴公子らしく見えた。
 そして、そういった恵まれた生活以上に、今までの経験とは違っていて、レイヴをとまどわせたのは、エイリーク卿の態度だった。
 エイリーク卿は、何かとレイヴによく話しかけ、行動をともにしたがった。さすがに自分の治める村々を視察してまわるときには、レイヴを残していったが、領地のうちにある森や野を見てまわるときには、たいがいレイヴを誘った。
 レイヴは、あまり人といっしょに行動したがるたちではなかったうえ、黒髪を魔族のようだといわれて敬遠されてきたので、ずいぶん長いあいだ、そんなふうに自分に親しく接してくる者に出会ったことがなかった。
 他人とのふれあいをまったく知らずに生きてきたわけではない。落ち着いた暮らしをまったく知らないわけでもない。
 少年のころ、彼に手を差し伸べてくれた人たちがいた。いや、正確には、彼らは人ではなかったのだが。
 彼らとともに暮らした短いあいだ、レイヴは、人の情愛も、飢えの心配をせずともよい暮らしも知った。
 だが、レイヴは、物にも愛情にも恵まれたその暮らしに適応しきれなかった。そのうえ、つかのま知ったその夢のような世界は、あまりにも悲惨な終わりを遂げたのだ。
 近ごろではめったに思い出すことのなかったその記憶を、レイヴは、エイリーク卿の城にきてから、よく思い出すようになった。
 城での暮らしを夢のようだと思えば思うほど、かつての記憶がよみがえる。かつてと同じ落ち着かない気分と、過去のような悲惨なことが起こるのではないかという恐怖とともに。
 自分が幸福な暮らしに適応しきれないのはしかたがない。幸福な暮らしからはみ出してしまうのも、追い出されてしまうのもしかたがない。けれども、あんな失い方だけはごめんだ。
 レイヴがときどき沈みがちになることに、エイリーク卿は気がついていた。だからこそよけい、レイヴのことが気になり、心配し、頻繁に外に連れ出したのだともいえる。
 それで、エイリーク卿は、ある日、レイヴを連れ出したときに訊ねた。
「浮かないようだが、ここでの暮らしに何か不満があるのか? それとも、拘束されているという状態が不安なのか?」
「いいや。拘束もなにも、全然拘束されているという感じはしないし、こんなによくしてくれるのに、不満なんてあるわけはない。ただ……」
「ただ?」
「ここの暮らしは夢のようで、幸福で……。だから不安になる。おれは、幸福ってやつに慣れていないし、それに、ちょっと、昔のことを思い出して……」
「昔のこと?」
 黙りこくって顔をそむけたレイヴに、エイリーク卿は、聞かないほうがよかったろうかと気を遣った。
「言いたくなければ言わなくてもいいが」
「いや」
 レイヴは、視線をぼんやりと遠くにさまよわせながら、一度しか他人に語ったことのない話をした。
「おれは、昔、魔族の一家に世話になったことがあるんだ。もう八年ほど前のガキのころの話だが」
 エイリーク卿は驚いてレイヴを見た。魔族と人間が交じって暮していた時代ならいざ知らず、対立が深まってから、魔族と人間の子供とのあいだにそんな交流があったことも驚きだが、へたをすれば間諜の疑いをかけられかねないその事実を、レイヴが口にしたことにも驚いた。そして、そんな秘密をレイヴが打ち明けてくれたことを、うれしくも思った。
「彼らは病気のおれの手当てをしてくれて、元気になってからも、家にいたらいいと言ってくれた。でも、おれは、なんだか落ち着かなくて、彼らのもとを去ってしまって……。そして、次に見たとき、彼らは死体になって、さらし者になっていた」
「そういえば……」と、エイリーク卿は、記憶をまさぐりながら言った
。 「魔族狩りの最後あたりに、シグトゥーナの近くで魔族の隠れ里が見つかったとかいうのがあったな。あれは、たしか八年ぐらい前のことだったか」
「そうだ。そのときの話だ」
 レイヴはエイリーク卿のほうをふり返った。
「どうして彼らを狩ったのだ? この国に昔からいた魔族たちは、魔界からの侵攻を迷惑がっていた。実際、昔は、彼らは人間の軍とともに魔界軍と戦ったのだろう? 人間のほうが彼らを受け入れさえすれば、喜んで力を貸してくれたのに」
 言ってから、レイヴは、自分でも驚いた。それは、親切な魔族の一家が惨殺されたときから、漠然と感じていたことだったが、こんなふうに政治的な意見として考えたり、人に話したのは初めてだ。
「そうだ、手を組めばよかったんだ。そうすれば、こんなに毎年遠征する必要もないし、魔界との戦いだって、ずっと楽なものになったのに」
 現在、人間たちの十二の王国に敵対しているのは、魔界から侵攻してきた魔族たちだけではない。長らく人とともに暮らしてきた魔族たちも、魔族狩りを逃れて、やむなく北に逃れ、魔界の魔族たちと合流しているのだ。
「わかっている」と、エイリーク卿は答えた。
「魔族たちは敏捷で、すぐれた戦士たちで、頭がよくて、かつては人とともに住み、人間の社会を支えてくれてすらいた。彼らの力を借りることができれば、大きな戦力となっただろう。魔族狩りはまちがいだった。理性的に考えればたしかにその通りだ。だが、恐怖が理性を圧倒したのだ」
「恐怖か。彼らもそう言っていたな」
「そうか。……残念なことだが、今となってはもうどうしようもない。恐怖に支配されているのは人間だけではない。魔族たちもまた、人間を恐れ、不信を抱き、憎んでいるのだからな」
「それはわかっている。ここに」と、レイヴは自分の胸に手を当てた。
「今も傷痕が残っている。その魔族狩りのあと、生き延びた者がいて、おれを殺そうとした。その痕だ」
「よく無事だったな」
「魔族狩りの兵士たちがちょうど通りかかり、そいつを殺した。おれは彼らに助けられたんだ。皮肉なことにな」
「無事でよかった。よかったと言うと、おまえは怒るかもしれんが」
「怒りはしないが……。今でも、よかったという気分にはなれないな。そいつらにだけは助けられたくなかった。でも……」
「でも?」
「おれは彼らを憎んで斬りかかったけど、彼らはおれを憎まなかった。少なくとも彼らのひとりは。おれが魔族に殺されかけた恐怖で錯乱しているだけだと言って、傷の手当てをしてくれようとした。おれは彼らを憎めなくなった。よけいやりきれなかった」
 しばらくの沈黙ののち、エイリーク卿が口を開いた。
「あのとき、わたしの命令どおりに魔族の子供を助けたのは、そういうことがあったからなんだな」
「ああ。魔族が憎いという気持ちは、おれにはあまり湧かないからな。……それに、あの子供の風情と、あんたの言葉が、あの魔族の一家に助けられたときのことを思い出させたし……」
「わたしの言葉?」
「子供を殺すなと言っただろう? 病気のおれを見つけたとき、魔族のなかには、おれを殺したほうがいいと言ったやつもいたんだ。でも、子供を殺すなと言って、助けてくれた人がいた」
「そうか」
「あんたのほうはどうなんだ? どうしてあの子供を助けようという気になった? 弟を思い出したとか言っていたが」
 そう言って、レイヴは、オーラーブ王子の話題が出たときのエイリーク卿のつらそうな様子を思い出し、つけ加えた。
「悪かった。立ち入ったことを聞いてしまった」
「いや、いい」
 エイリーク卿はほほえんだ。
「わたしの父には最初の正妻のほかに三人の愛妾がいて、わたしの母はその中でもいちばん年上で、父に仕えるようになったのもいちばん早かった。だから、父と正妻が神託に従って離縁したとき、自分が正式に後妻に迎えられるのではないかと期待していた。だが、父が次に正妻にしたのは、いちばん若くて、いちばん身分が低くて、いちばんあとから父のそばにあがった女性だった」
「ふうん。よくある話だな」
「ああ。だが、じつはよくある話ではなかった。それを知っていたら、オーラーブにつらくあたったりしなかったのだが」
 レイヴがけげんそうに首をかしげ、エイリーク卿は言葉をつづけた。
「父の最初の妻には子供がおらず、三人の愛妾とのあいだに息子がひとりずついた。わたしがいちばん年上で、父に信頼され、期待されてもいたので、当然、自分が跡を継ぐのだと思っていた。だが、父が別の女性を正妻とすれば、その正妻の息子が父の後継ぎになる。父がわたしの母ではなくラーブの母を正妻に選んだとき、父は後継者として、父についてずっと学んできたわたしではなく、まだ五歳のラーブを選んだのだ。そう思うとラーブが憎くて、近づいてくれば冷たくはねのけ、つらくあたった。十三も年下の幼い子供に、ひどい仕打ちをしたものだ」
「でも、よくあることなのだろう? 家とか財産とか、母親どうしの確執とかがからみあって、腹違いの兄弟がしっくりいかないってのは」
「ああ。だが、年の近い兄弟ならともかく、幼い子供相手にやることじゃなかった。しかも、父がラーブの母を正妻に選んだのは、彼女を愛していたからではなかったし、ラーブを後継ぎにしたかったからでもなかった。ラーブは王家に捧げられた子供だったんだ」
「ああ、そうか」と、レイヴは合点した。
「王の養子にするために、母親の身分を引き上げたのだな」
「そうだ。ラーブは、たった五歳で、アーストリーズ王女の夫となることを決められてしまったのだ。それを知ったのは、二年後に父が亡くなったときだ。喪が明けるか明けないうちに、王家から迎えがきて、ラーブを連れていった。まだ七つの幼い子供のことだから、いきなり母親と引き離されて泣き叫んでいた。母親も、あと何年か待ってくれとか、同行を許してくれと懇願していたが、その願いは許されなかった。そのときのラーブの泣き顔がずっと心の片隅に残っていて……。あの魔族の子供を見たとき、それと重なったのだ」
「解せないな。あの王さまは、まだまだ子供ぐらいつくれるだろうに。どうしてそんなにさっさと、王女の婿に跡を継がせることに決めたんだ?」
「くわしいことはわたしも知らないんだが……。なにか神託があって、あの子が次の王として神の意にかなったらしい。たぶん、父が最初の妻と離縁することになった神託とも、無関係ではないと思う」
「身分の高い人間のやることはわからんな。神託で離婚したり、五歳の子供の結婚を決めたり……。あんたも神託なんて信じているのか?」
「いや。だが、神にでもすがりたいという気持ちはわからなくはない。それほど魔界からの侵攻は脅威だし、人々は戦いに疲れはてている。父の最初の正妻だった人は、離縁したあと巫女になったのだが、少なくともその人と、亡くなった王妃殿下は、ラーブがいずれ十二王国すべてを救うことになると信じておられた」
「ちょっとかわいそうだな、そのオーラーブって王子。母親と引き離されたり、勝手に結婚を決められたり、わけのわからん期待をかけられたり」
「ああ」
「だが、あんたが支えてやれるんだろう?」
「まさか」
 エイリーク卿は苦笑した。
「さんざん冷たくしておきながら、弟が王子に出世したからといって、そんな調子よく、親しくなんかできるものか」
 レイヴは言葉に窮した。たしかにそれはその通りだった。それで、別のことを訊ねた。
「もうひとり弟がいるんだろう? そいつはどうなんだ? やっぱりオーラーブ王子としっくりいっていないのか?」
「うーん、どうなのかな。バウズはずいぶんラーブをいじめていたが……。わたしでさえ思わずたしなめたほどいじめていたが……。だが、今はどちらかというと、ラーブに近づきたがっているな。だが、それがほんとうにラーブのことを思ってかどうかはわからん。わたしはバウズがどうにも苦手で、彼を信用できないんだ」
 エイリーク卿は肩をすくめて、自嘲的に言った。
「わたしはよくよく兄弟とうまくやっていくのが苦手らしいな。弟がふたりいるのに、どちらともうまくやっていけないのだから」
「オーラーブ王子は? 子供のときのことを恨んでいるのか?」
「いいや。たぶんな。あれはやさしい子供で、さんざん冷たくしたわたしやバウズを、兄として立ててくれる。だが、どちらに対しても気を許してはいないようだな。無理もない話だが」
「だが、あんたはもうひとりの弟がひどいいじめ方をすれば、止めたりもしていたのだろう」
「それはまあ、そうだが……」
「あんたはいいやつだ。オーラーブ王子がそれに気づかずにいるのなら、王子は損をしている。味方になるべき魔族まで追い払ってしまった人間たちのように」
「すごいたとえだな」
 エイリーク卿は声をあげて笑った。
「だが、そうだな。魔族と人とのあいだのような愚かな決裂は避けたいものだ。せめて個人的な人間関係ではな」
 それからいくらもしないうちに自分がその愚を冒すことになるとは、エイリーク卿には知るよしもないことだった。


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