4
アリティア王国がドルーアに滅ぼされた……。
シーダがその恐ろしい知らせを受け取ったのは、王都アンリを訪れてから一年も経たぬときだった。
「グラの裏切りによってコーネリアス王は戦死。グラ軍とグルニア軍の侵攻により、王城は陥落いたしました」
アンリに滞在していたペガサスナイトの大使補佐官が傷だらけになって帰国し、報告した。
「大使殿は、王族のどなたかが城から脱出できていればお助けしたいとおっしゃって残られました。私は、一刻も早くこの報を陛下にお知らせするよう命じられ、先に帰国いたしました。こうしてご報告がかないましたうえは、引き返して大使殿をお捜ししたく存じます」
「ならぬ」と、王が即座に答えた。
「気持ちはわかるが落ち着いて考えろ。どういうルートで来るかわからぬのに、捜しようがないではないか。行き違いになるばかりか、無駄に命を落とすのが落ちだ。大使の才覚と運を信じて待つのだ」
王の言葉に、補佐官は無念そうに深くうなだれた。
それから三十日あまり過ぎたとき、マルス王子の一行がタリスに到着した。生死不明だった大使も同行していたが、ペガサスの姿はなかった。
シーダが玉座の間に駆けつけたとき、マルス一行はすでに玉座の前に膝まずいて入口に背を向けており、シーダは彼らを背後から見る形になった。
一行はだれもが傷だらけで、衣類はぼろぼろ。ここまでの苦難がしのばれた。しかもそのなかに王妃とエリス王女の姿はなかった。
王は玉座から降りて、マルスの肩に手をかけた。
「マルス殿。よくぞご無事で」
「母と姉は城に残り、生死も不明。城は陥落し、国はドルーアに占領されました。このうえは兵を募って、一刻も早く母と姉を救出し、民をドルーアから解放したく存じます」
「ならぬ。そなたは軍を率いるにはまだ若すぎる」
「しかし、母と姉が捕らわれているのです」
「わかっておる。わしとて、早くおふたりの安否を確認し、ご無事なら助け出したい。親友の仇を討ちたいという思いも、ドルーアをこのままにしておけぬという思いもある。だが、わがタリス王国には、グラやグルニアと戦えるだけの兵力はない」
「ご迷惑はおかけしません。義勇軍を募ります」
「兵は集まるまい。仮に集まっても、無駄死にさせるのみ。そなたにまだ兵を率いて戦うだけの力がないゆえにな」
「途中で出会った人にもそう言われました。けれども、わたしは戦わなくてはなりません」
「待つのだ、マルス殿。剣を学び、兵法を学び、力を蓄えてから戦うのだ」
シーダはマルスが反論すると思った。父を殺され、母と姉を捕らわれ、国を奪われたのだ。待てなくて当然だと思った。
だが、マルスは反論しなかった。
「剣を学び、兵法を学び、力を蓄える?」
つぶやくように王の言葉を繰り返し、しばらく考え込んだのち、無念そうだがきっぱりとした口調で言った。
「わかりました。力を蓄えたのちに兵を興します」
臆病者と、シーダは内心で憤った。
気の弱い少年だと思っていたが、このようなときにも逃げ腰になるのか。力を蓄えるなんて、逃げ口上ではないか。グルニアの黒騎士団に勝てると確信できるまで待っていたら、いつになるかわからないのに。
そんな怒りは、マルスが退室するために入口に向かって歩いてきたときに吹き飛んだ。
マルスの目は、かつていっしょに遊んだおとなしい少年の目とはまったく違っていた。
そこには冷たい炎が燃えていた。以前にオグマやナバールの目の中に見た炎に負けないほどの激しさで。
入口近くにたたずむシーダの目と合った時だけ、つかのま炎はやわらぎ、口元には微笑が浮かんだが、すぐにまた厳しい表情となり、目に冷たい炎を宿したまま、マルスは退室した。
シーダは声をかけることもできず、その場に固まったまま、マルスを見送った。
それからのマルスは、オグマに剣を習い、ヘクター王から兵法や帝王学を学んで、実力を蓄えていった。アリティアの騎士たちも鍛錬に励んだ。
そのあいだもマルスの瞳には冷たい炎が燃えつづけていた。シーダと話しているときには炎がやわらぎ、ほとんどわからなくなるときはあったが、完全に消え失せてしまうことはなかった。
それはシーダを魅了した。かつて頼りない弟のようだと思っていた少年は、いまでは頼もしい兄のようであり、恋しい人でもあった。
だが、シーダには、マルスの目に冷たい炎が宿ったことをもはや単純に喜ぶことはできない。それが大きな苦しみと引き換えに宿ったものだと薄々わかっていたがゆえに。
5
二年後、タリス王国の王城がドルーアの息のかかった海賊に襲われたとき、ヘクター王はマルスに助けを求めるようにとシーダに指示し、シーダはそれに従った。マルスになら王城を解放できると、王もシーダも信じたのだ。
でなければ、マルスを安全な場所に隠れさせ、海賊対策のために港町ガルーダに出張中のオグマに助けを求めて、彼とその部下たちが帰るのを待っただろう。
そうしなかったのは、マルスなら勝てると信じたからだ。
マルスは王の信頼と期待に応えた。マルスが兵を興すに十分な実力を蓄えたと判断したヘクター王は、軍資金を与えて送りだすだけでなく、ガルーダのオグマに使者を送って、マルスの軍に加わるように命じた。それは、王にとって最大の好意といえた。
だが、シーダがマルスに同行したいと申し出たときには、さすがのヘクター王もためらった。しぶしぶ同意したのは、王妃がシーダの味方をして、王を説得したからである。
「ありがとう、おかあさま」
「思うとおりにしなさい、シーダ。でも、命を粗末にしてはいけませんよ。生きて帰ってくるのよ」
「はい」
「それから、マルスさまを慕うのはいいけれど、あなたが恋したという冷たい炎はいつか見えなくなるものだということを覚えておくのよ」
「それは、おとうさまの目に若いころ冷たい炎があったけれど、今はないってことを言ってらっしゃいます?」
「ええ」
「おかあさまは、おとうさまと結婚したことを後悔してらっしゃいます?」
「いいえ」
「でも、おとうさまの目から冷たい炎が消えたのをがっかりしてらっしゃいますのね?」
「いいえ。喜んでいるわ」
「なぜ? おとうさまの目に冷たい炎を見つけて恋に落ちたっていってらっしゃったのに」
そう言ってから、シーダは、マルスの目に冷たい炎を見出したときの状況を思い出し、かすかに首を横に振った。
「少し……少しだけわかるような気がします」
「それなら安心だわ。自分の結婚を決めるのは、それがはっきりわかってからにしなさいね」
「結婚なんて……。そんなことまだまだ先の話です。今はただ、マルスさまをお助けしたいだけです」
「それでいいのよ、今は。ただ、もっと先になったとき、わたくしの言ったことを思い出してくれれば」
王妃はそう言ってシーダを送りだした。
長い戦いの果てに暗黒竜メデウスを斃したマルスがシーダに求婚したとき、シーダは、マルスの目から冷たい炎が消えるだろうと予感した。
だが、シーダはそれを残念とは思わず、むしろそれを望んだ。
旅立ちの日に母が言った言葉が、いまはわかる。
冷たい炎は、激しい闘志と、冷徹な判断力の両方を必要とされる生き方を選んだ証。穏やかに平穏に生きることも、熱い感情のままに行動することも許されない者の証だ。
かつてタリス統一を成し遂げたころの父王も、奴隷剣闘士だったころのオグマも、傭兵のナバールも、家族を奪われ国を追われてからのマルスも、そういう過酷な状況で生きてきた。
ナバールのように、その生き方をずっと続ける人もいるだろう。オグマも、シーダが彼の保護下を離れたあとは、ナバールのような生き方を選ぶかもしれない。
だが、父王は、いったんタリスを統一した後は平和外交を貫いて戦いを避け、孤独よりも伴侶と暖かい家庭を築くことを選んだ。
マルスもまた、シーダとともに生きることを選んでくれた。
もちろん、疲弊した国土の統治は容易ではなかろう。平和を維持するためには、戦いに勝つのとはまた違う苦労を伴うだろう。
それでも確実に平和は訪れる。マルスはもう冷たい炎を燃やさなくてもよい。冷たい炎を燃やすよりもシーダと穏やかに生きることを選べるようになったのだ。
そういう状況になったことも、マルスが暖かく平穏な日々を望んでいることも、シーダはうれしく思った。
マルスの目から冷たい炎が消えてもがっかりはしない。むしろ、喜ばしいと思う。いざというときにマルスが冷たい炎を宿せる人だとわかっただけで満足だ。冷たい炎が消えてもマルスに抱いた愛は消えないし、このさき冷たい炎を宿した人が現れても、四度目の恋はしないだろう。
それで、シーダは、マルスの求婚を受け入れたのだった。