暗い近未来人の日記−就職決定・その2

 日記形式の近未来小説です。主人公は大学4年。
あくまでフィクションですから誤解のないように。
なお、ここに書かれた内容は、実在の政府や団体や個人とはいっさい関係ありません。

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2008年2月14日UP

  2093年2月7日

 今日からバイトだ。いままでにやったバイトと違って、春からずっと働く会社だもんな。緊張して出社した。事務ははじめてだし。
 で、会社に入って、最初に出会った人にあいさつして名乗ったら、総務の場所を教えてくれた。
 それで、そちらに向かいながら、すれ違った人に「おはようございます」とあいさつしてたんだけど、そのうちのひとりにいきなり呼び止められた。中年の男性だ。五十歳ぐらいだろうか。
「おいっ、朝きたら、ちゃんとあいさつせんか!」
「へっ?」と思わず問い返した。
「なんだ! その言い方は! 『へっ』とは!」
「いや、いま、あいさつしましたけど?」
 そのおっさんは顔をしかめた。
「声が小さくてよく聞こえんかったぞ。あれを見ろ、あれを」
 おっさんが指差すほうを見ると、「あいさつはきちんと、元気よく」と書いた標語が貼ってある。
 何、あれ? 学生時代にバイトをしたところでは、あんなもの見たことないけど、会社ってこういうものなの?
 おっさんの後ろにいた女の人が、ちらっとこちらに目くばせをして、「まあ、まあ、課長」と、おっさんに声をかけた。
「その子、きょうからアルバイトの新人なんですよ。ビジネスマナーはおいおいに覚えるでしょうから」
 ビジネスマナー? 就職関係の雑誌なんかでさんざん見かけた言葉だけど……。
 ちゃんとあいさつしたわたしがビジネスマナーができていなくて、あいさつした人間にあいさつも返さずにからんできたあのおっさんが、ビジネスマナーができてるっていうの?
「ふん、新人か。じゃあ、まあ、こんなもんか。最初は大目に見てやるが、いつまでも学生気分でいちゃ、困るぞ」
 そう言うと、課長と呼ばれたおっさんはその場を離れ、自分の席に着いた。
 助けてくれた女の人にお礼を言おうとしたら、その人が先に口を開いた。
「あいさつはかなり大きな声でしたほうがいいよ。この会社、そういうのにこだわる人、けっこう多いから。それに、管理職の人になにか言われたら、理不尽だと思っても、あやまっといたほうがいいよ。あなたの自由だけど、損だからさ」
 いまの一件でげそっとはしていたけど、この人が親切なのはわかった。
 それで、こんなところで働くのかと思いながらも「はい」と答えたら、その人は肩をすくめて、ちょっと舌を出した。
「じつは、わたしもそういうの苦手なんだけどね」
 で、総務部のほうに向かいながら、意識して大きな声で「おはようございます」とあいさつしたら、「ああ、おはよう」と答えた女の人がけげんそうに言った。
「なに喧嘩腰になってるの?」
 どうやら、いまの一件でけわしい顔になっていたらしい。そんなつもりなかったんだけどね。
「牧野さんになにか言われたの?」
 女の人がたずね、横にいた男の人があいづちを打った。女の人は川口さん、男の人は羽田さんというと、あとでわかった。
「あの人、きついからなあ」
 ああ、あの課長って呼ばれてた人は、牧野って名前なのか。
 そう思いながら、その課長のほうに視線を向けた。
「牧野課長っていうんですか、あの人?」
 言ってから、しまったと思った。羽田さんが眉をひそめたからだ。あいさつの声の大きさにこだわるような会社なら、「いう」じゃなくて「おっしゃる」って言わないとまずかったかも。
 そう思ったけど、羽田さんが眉をひそめたのは別の理由だったようだ。
「あの人は村山課長。いまさきあなたと話していた女の人が牧野さんだよ」
 あれっ?
「牧野さんって方は、助け船を出してくださったんです。村山課長さんにからまれていたときに」
「からまれるって……」
 川口さんと羽田さんが顔を見合わせた。
「課長に対して……。ま、新人ならしかたないけどさ」
 どうやら、課長にからまれたとき、「からまれる」って言い方してはいけないらしい。でも、羽田さんが牧野さんのことを「きつい」なんて言うのはいいんだ。
   変な会社。それとも、会社って、こういうものなのかな?
 ま、ともかく、バイト期間中のわたしの仕事は、おもに経理部の手伝いで、別の部の仕事も入ることがあるかもしれないということだった。
 で、きょうは経理部で仕事をしていた。データ入力三割、その他七割ってとこかな。
 入力した数字がまちがってて、最後の合計が合わなくなって、チェックしたりするのもたいへんだったけど、疲れたのは気疲れのほうが多いと思う。
 仕事のミスを注意されるのならともかく、コーヒーカップの洗い方がどうとか、歩き方がどうとか、制服のスカートが長すぎるとか、どうでもいいようなことで文句をつけられるんだもの。制服を用意したのって会社側なのに、わたしに文句を言われてもねえ。
 おまけに、「親にちゃんとしつけられなかったのか」とか、「そんなんじゃ、どこの職場でもやっていけないよ」とか、「近ごろの若い子は……」とか、文句の言い方がなんだか陰湿。
 そういう文句を言ったのは経理部の人たちじゃなくて、総務部の人とか、どこの部かよく知らない人とかだ。
 ここでずっと働くのかあ。会社ってこういうものなのかな?
 ま、でも、昼休みに、同じく来年からの勤務でいまはアルバイトって人たちと話す機会があって、この人たちとは仲良くやれそうでよかったんだけどね。


  2093年2月9日

 きょう、経理部の先輩たちに、「あしたバレンタインデーのチョコ代を集めるから、そのつもりで」と言われた。
 金額は九千三百円! 秘書課の人がすでにネットで注文していて、わたしら臨時のバイトも含めて頭割りしたんだって。
 なんだかな〜。おおかたの職場で、こういう類の風習があるってのは聞いたことがあったけどさ。まだ本採用になってないうえ、仕事をはじめてまもないバイトに請求するかな? しかも九千三百円も!
 職場の義理チョコって、こんなにお金をかけるものだったの?
 理不尽だと思っていたら、先輩たちが口々にいった。
「あ、『なんでわたしらも?』って思ってるかもしれないから、先に言っとくね。バイトも頭割りのうちに入れたのは、あんたたちのためなのよ。チョコにはお金を出した人全員の名前を書くからさ。そこに名前が入ってなければ、上のほうの人たちに、『今年の新人は協調性がない』とか思われちゃうのよー」
「上のほうの人にはちょっと気難しい人もいるしね。わたしらとしても、あんたらにまで集金するのは気がひけるんだけどね。悪く思われたらいやだし。でも、あんたらのことを考えたら、やっぱり数のうちに入れたほうがいいと思ったからね」
「もちろん、強制はできないから、払いたくないっていうなら、それでもいいよ。また計算しなおすから。でも、ほんとにあんたのためなんだよ」
 そう言われたら、断るわけにはいかないじゃないのよ! だって、もし断ったら、「天野さんがお金出さないっていうから、ひとりあたり何円アップねー」なんて社内の女子社員全員に連絡がいきわたるわけでしょ?
 だから、「あ、いえ、お支払いします」って答えたよ。
 で、それからしばらくしてトイレに立ったとき、給湯室で話し声が聞こえてきた。
「どう? バイトと派遣の人たち、お金出すって言った?」
「うん、いちおう全員ね。ま、でも、しぶしぶって感じの人が多いね」
「そう、そう。露骨にいやそうな顔したやつもいたしね」
「そりゃあ、HQが低いね」
 うっわー、やな言い方。「HQ」ってのは、「IQ=知能指数」のもじりで、「人間指数」のことでしょ。むかしは「ヒューマンスキル」とか呼んでいたらしいけど、それを数字で表すようになって、いまでは「HQ」のほうが定着しかかっている。数字ったって、知能指数みたいに学校で検査したりはしないし、国際的なもんでもないけどさ。
 「ヒューマンスキル」って言い方もいやだけど、「HQ」よりはまだましよね。「スキル」ってことは、技能の問題だとちゃんといってるわけだし。
 だいたい、企業なり上司なりの目から見て好ましいかどうかとか、そりが合うかどうかって問題に、どうして「ヒューマン」だの 「人間」だのって言葉を使いたがるかな?
 企業ウケがよくないタイプの人は人間じゃないとでも言いたいわけ?
 そういえば、求人広告でも、採用の基準として、よく「人間を見る」だの「人間重視」って言葉をみるなあ。「うちの会社と合いそうかどうかみる」って、ちゃんといえばいいのに。
 それにしても、「露骨にいやそうな顔したやつ」って言われてたの、だれのことかな?
 経理の先輩が言ってたんならわたしのことかもしれないけど、あの声は違った。わたしのほかにもいたんだろうな、変だと思った人は。
 そんなことを考えながらトイレの用をすませて出てくると、先輩たちの話はつづいていた。
「彼女、『お気遣いありがとうございます』って」
「へえ、なかなかみどころあるじゃない。ほかのコは、いやがらないまでも、内心でしぶしぶって感じなのに」
「んー、でもぉ、最初からあんまり如才ないっていうのもねえ」
「またまたぁ。厳しいんだから」
「でも、たしかに、そういうコが入ったら、ちょっとやりにくいかもね」
 どうやら、チョコ代請求されたときに「あんたらのためだから」って言われて、「お気遣いありがとうございます」って言った人がいるみたい。だれかわからないけど。
 で、そういうふうに言えば、それはそれで気に入らないのか。なんだか難しい先輩たちだなあ。


  2093年2月10日

 きょう、トイレの個室に入っていたとき、派遣社員の人たちらしい会話が聞こえてきた。
「ねえ、義理チョコ代、九千三百円でしょう〜〜。高いよねえ」
「ほーんと。わたし、三月十日までの契約なのよねえ。ホワイトデーにもらえないのに、なんだか損」
「わたしもよ。三月十日までの契約。十二月からたった三ヵ月の契約なのに」
「わたしよりましよ。わたしなんて、一月十六日からの契約なのよ」
「たいした違いはないじゃないの」
 そこで彼女たちの会話はぷっつり途切れた。ここに人が入っているって気がついたのかもしれない。
 で、水を流して個室から出た。
 何か言ったほうがいいかなと思ったけど、どう言えばいいのかわからない。「わたしも同感です」って声をかけるほど親しくないし。だいいち、それじゃ、いかにも聞いていましたって感じだし。
 迷っていると、派遣社員の人たちはそそくさとトイレから出ていった。とても気まずかった。


  2093年2月14日

 会社で仕事をしていたとき、本社から少し離れたところにある営業所の人から電話がかかってきた。会ったこともなければ電話で話したこともなく、名前を聞くのもはじめての人だ。
 けげんに思いながら電話に出ると、その人は、「会ったこともないのにチョコをくれるなんて」と、ひどく感激している。どうやら義理チョコは、営業所にも配られたらしい。
 そんなに喜ばれると、「強制的に義理チョコ代を請求された」なんて本当のことは言いにくい。しょうがないから、あいまいに受け流して、「どういたしまして」とか「よろしくお願いします」とか適当に返事しておいた。
 ま、ふつう、会ったこともない人にバレンタインのチョコなんてあげないよね。いくら義理チョコでもさ。
 あんなに喜んでいたところからすると、あの人はまだこの会社に勤めて日が浅く、この会社に染まっていないんだろうな。勤めてだいぶん経っていそうな人たちは、もらって当然って顔をしているもの。
 なんだか複雑な気分だった。


  2093年2月28日

 アルバイトは今日まで……のはずなんだけど、誰にも何も言われない。昼休みに他のバイトの人たちと話したけど、みんな同じ。
 夕方、経理課長に訊ねてみると、「あれっ、10日までじゃなかったの?」と、逆に聞き返された。
 で、総務に訊くように言われて、総務課長に訊ねると、3月10日までだって。
 それならそうと言ってくれればいいのに。2月の末って言っておいて、それっきりなんだもんな。いいかげんだなあ、この会社。それとも、会社ってこういうものなのかな?


  2093年3月10日

 派遣社員の人たちが、夕方ごろからなにやら深刻そうだ。直接関係のない仕事をしている人どうしでも集まって、眉根を寄せてこそこそ内緒話をしていたりする。
「なにかあったんですか?」
 気になったのでたずねると、「べつに!」ときつい口調で答えて、そそくさと散っていく。
 短いつきあいとはいえ、このひと月ほどのあいだに雑談ぐらいはしたことのある人たちなのに、妙に敵対的だ。
 しかも、わたしのほうをちらっと横目でふり返りながら、「あの人でしょ?」「やーねえ」などと話しているのが耳に入った。
 わけがわからないと思っていたら、派遣社員の人たちが最後のあいさつをして帰ったあとになって謎が解けた。正確にいえば半分だけね。
 まず、終業時間になってあいさつがてらに同期の人たちとしゃべっていたとき、派遣社員の人たちの話題が出たのだ。
「きょう、感じ悪かったでしょ、派遣の人たち。なんか、査定が悪かったらしいよ」
「あ、わたしもちらっと聞いた。会社の悪口言ってたのがばれたんだって?」
「ま、悪口には違いないね。わたしが聞いた話だと、なんでも、バレンタインの義理チョコ代が高いってこぼしてたのが、ばれたんだって」
 それで、彼女たちがわたしのほうをにらんでいた理由の説明がつく。
 すっかり忘れてたけど、わたしは、あの人たちが義理チョコ代についてこぼしていたのを耳にはさんだ。それで、密告したと勘違いされたんだ。
 そんな誤解をされたのは気分が悪いけど、まあそれはいい。べつにそう親しかった人たちじゃないし。たったあれだけのことでわたしが密告したと決めつけるような人たちに誤解されたって、いちいち気になんかしてられない。
 それより気になるのは、そういう愚痴が上のほうの人たちに筒抜けになったという事実だ。
 たぶん、あの人たちは、ほかの場所でも同じような話をしていて、誰か会社の人に聞かれたんだろう。
 ってことは、小耳にはさんだこの手の愚痴を上司にご注進するような人が社内にいるってことだ。でなければ、まさかとは思うけど、盗聴器でもしかけられているって可能性もあるかな?
 どっちにしても、やだなあ、そういうの。


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