暗い近未来人の日記−辞める人たち |
日記形式の近未来小説です。主人公は社会人一年生。
あくまでフィクションですから誤解のないように。
なお、ここに書かれた内容は、実在の政府や団体や個人とはいっさい関係ありません。
2019年8月23日UP |
2093年7月1日
今日はボーナス日だった。いつもの給料明細と違って、明細の入った封筒を課長がそれぞれに配ってくれた。
「少なくてすまんね。わたしとしては、もっとあげたいんだけどね」
みんなにそう言って渡していたんだけど、わたしのときはひときわすまなそうな表情をした。はたして休み時間に明細を見ると、額面二万円。税金や保険料を引かれて一万五千円ちょっと。がっかりした。まあ、でも、ないよりましだと思うことにしようか。
そう思いながら廊下を歩いていたとき、榊さんとばったり出会った。
「ボーナス少なかったよね」と、榊さんが話しかけてきた。
「まあ、新人だからしかたないよね。金額確かめたでしょ?」
警戒しながら「ええ」と答えると、「いくらだった?」と聞いてくる。
「同期はみんな二万円でしょ」
「みんないっしょってわけじゃないらしいよ。能力によるんだって。天野さんでも二万円もらえるんだあ。よかったじゃない」
口早にそれだけ言うと、こちらがあきれて何も言えずにいるあいだに、榊さんはさっさと去っていった。ボーナス日だというのに、なんだかすっかり不愉快な気分になった。
2093年7月4日
戸倉さんが会社を辞めると聞いた。四月にいっしょに入社して、まだ二カ月ちょっとしか経っていないのに。
仕事に自信をなくしたらしいと言う人も、人間関係が原因と言う人もいる。
それって、榊さんが原因ってことないかな?
いや、だって、いま戸倉さんと榊さんはどちらも人事課にいるし。戸倉さんは前は営業部にいて、そのときは楽しそうに見えたし。榊さんは、わいわい雑談するような場では楽しい人かも知れないけど、同じ部署で仕事をするとなるとどんなにきついか、わたしはよく知っている。
だから気になった。
戸倉さんとは前も今も部署が違っていたから、入社直後の短い研修期間が終わった後は、廊下や休憩室などで会ったときにちょっと言葉を交わす程度のつきあいしかなかったけど、榊さんが原因で退職するというなら、他人事とは思えない。
それで、戸倉さんと廊下ですれ違ったとき、声をかけた。
「戸倉さん、会社辞めるって聞いたけど」
「ああ、もう天野さんのところまで話がいったのね。上司に言ったのはほんの十分ほど前なんだけど」
戸倉さんがそう言ったので驚いた。
だって、戸倉さんが退職すると聞いたのは、けさ、会社に来てすぐだった。それから数時間経っている。
しかも、わたしが聞いたのは又聞きの情報だったから、元をたどれば、遅くとも昨日には話が出ていただろう。
「じゃあ、わたしが聞いたのは、ただの噂?」
「うーん、微妙。実際に辞めるんだし。辞めたいって言っちゃったのも事実だし。よりによって榊さんに」
「じゃあ、噂が出たせいで辞めることに?」
「まあそうなんだけど。でも、噂が出なくても、辞めるって決めたな、きっと。この会社、人間関係がどうしてもダメ」
「やっぱり榊さん?」
「それも伝わってるようね。どういうふうに聞いた?」
「え?」
ちょっと面食らった。
「どういうふうにって? 推測で言ったんだけど?」
戸倉さんが警戒するような表情をしたので、説明した。
「わたし、四月と五月、榊さんと同じ庶務課にいて、いろいろあったから。ひょっとして戸倉さんもそうじゃないかと思ったんだけど」
たちまち戸倉さんがほっとした表情になり、しかも涙をぽろぽろこぼしはじめた。
「天野さんならわかってくれるんだ。だれに言っても無駄って思ってたけど」
しゃくり上げる戸倉さんの言葉を聞いて、想像がついた。榊さんに巧妙に孤立させられ、気分的に追い詰められていたんだ。
「もうちょっとの辛抱なのに。八月の末で部署替えになるよ。しかもその間には夏休みもあるし」
オロファド社の新人は原則二カ月ごとにいろいろな部署に配属されることになっているけれど、六月からの配属は例外だ。夏季休暇が全社一斉ではなく、七月中旬から八月末にかけて交代でとることになっているので、どの部署も人が少なく、正社員の人数が半数ぐらいの日もあれば、職場の長が休暇で不在となる期間も発生する。そのため、新人の異動をすると混乱が起こるというので、六月からの配属部署にかぎって、八月末までの三ヶ月間の配属となっている。
「あとちょっとがまんすれば榊さんと離れられるのに」
そう言ったら、戸倉さんは首を左右に振った。
「榊さんの根回しで、わたし、あちこちの部署でずいぶん悪く思われているもの。いろいろ聞かされてない?」
「さあ? わたしは聞いてないけど」
「そういえば、天野さんって、噂話とか陰口とかに興味がないってタイプだったね」
「そうだっけ?」
とくにそう思ったことはなかったけど、この会社の人たちに比べればそうかも。とくに榊さんのような人と比べれば。
正直いって、自分に危害や迷惑を及ぼしたわけでもない人のことをあれこれ言ったり、詮索したりしたがる人の気持ちはよくわからないし。
それに、わたし、五月までは安藤さんの事件のことと榊さん相手の苦労とで頭がいっぱいだったし、六月に入ってからはタイムカプセル課でいろいろあったから、人の悪口なんかに興味を持ってる余裕はなかったよ。
「まあ、たしかに、人を陥れようとするかのような悪口を言いふらしたがる人の気持ちはわからないな。ひどい目に合わされて愚痴るというのならわかるけど」
そう言うと、榊さんは「それよ」と叫んだ。
「榊さんはわたしを陥れようとしているみたいな気がする。こんなこと言ったら、わたしの被害妄想ってことにされると思って、今まで口に出さなかったけど、会社を辞めるんだから、もう、なんて思われてもいいわ。本音をぶちまけちゃう。あの人は信用できない」
で、戸倉さんは、塞きを切ったようにぶちまけた。
内容は、わたしがやられたのとよく似ている。
自分が面倒だと思った仕事は戸倉さんに押しつけたり、興味と好奇心のおもむくままに戸倉さんの仕事に口出しして、戸倉さんの能力が自分より劣るかのように触れまわったり。
さらにわたしのときよりきついのは、係長と榊さんが以前からの懇意なんだそうだ。
戸倉さんのいる人事課には、課長の下に係長二人と平社員六人がいるんだけど、そのうちの村瀬係長は榊さんのお母さんの友達の妹で、榊家が所有するマンションに住んでいる。
その村瀬係長は、やはり榊さんと同じく社交的で好き嫌いの激しい性格をしていて、家族ぐるみのつき合いのある榊さんを露骨にえこひいきしているのだという。
しかも、課長をはじめ、他のスタッフたちも、なにかにつけて榊さんの肩をもつ。本心から榊さんを気にいっているのか、いじめの傍観者のような心理なのかはわからないけど、ともかく、そういう雰囲気のなかで、戸倉さんは孤立してしまったらしい。
「たとえばこういうことがあったの」と、戸倉さんが言った。
「榊さんが、ダストボックスの横に分別していないゴミ袋があったから、片付けとけって言い出したの。彼女が暇で、わたしが忙しいときによ」
思わず頷いた。庶務課にいたときにも、榊さんは、自分が暇でわたしが忙しいとき、わたしの雑用仕事を増やそうとしたことが何度もあった。
どうも、それでわたしをパンク状態に追いやったところで手を出し、「天野さんは自分の仕事をこなしきれないので、わたしが手伝ってあげた」と言い触らしたいんじゃないかと思えた。実際、そう言い触らしていたし。
「それで」と、戸倉さんが話を続けた。
「わたし、思わず言い返したの。『気がついたのなら、自分でやったら』って。そうしたら、榊さんは、わたしのほうが榊さんにゴミを捨てろと指図したかのように話を作り変えて、周囲に触れまわったの」
ありそうな話だと思った。
「そうしたら、村瀬係長か言ったの。『人に押しつけることばかり考えず、自分でやりなさい』って。はじめ、榊さんに言っているのかと思った。状況からいって、榊さんに言ってしかるべき言葉だったから。でも、違った。係長はわたしのほうを向いて言ったの。『人ごとみたいな顔をしてるけど、ちゃんと聞いてるの、戸倉さん』って」
うーん、これはわたしのときより一段ときついな。庶務課でも多少はそういう傾向があったけど、上司まで榊さんと似たような性格で、つるんで攻撃してくるってんじゃねえ。
「でもね、そういう感情の問題だけなら我慢できたかもしれないんだけど」と、戸倉さんが言葉を続けた。
「ボーナス出たでしょ。あの金額、人事課の判断がけっこう入ってるの。今年入った新人は特にね」
いやな予感がした。
ボーナスをもらったとき、たしか、課長が、「もっとあげたいんだけど、金額を最終的に決めるのは人事課だから」って言ってたよな。
あれって、単純に「ボーナスをたくさんあげたかった」って意味に取ったけど、「人事課の差し金で同期のほかの人よりボーナスが少なくなってしまった」って含みだったのかもしれない。課長としては、わたしにそんなことを明かすわけにはいかないだろうけど、人事課の差し金は不本意だったので、そんな言い方をしたのかもしれない。
そう思ったので、戸倉さんに聞いてみた。
「わたしのボーナス、二万円だったけど、同期のみんなはもっと多かったの?」
「おおかたの人は三万円。わたしは一万円。榊さんは五万円。まあ、なかには本当に仕事ができて三万円より多かった人もいたかもしれないけど、基本的に村瀬係長の好き嫌いで金額が決まったみたい。で、その村瀬係長の好き嫌いってのは、榊さんに聞いた話にかなり左右されてるのよ」
「でしょうね。わたし、村瀬係長と面識ないもの」
「榊さんが何か吹き込んだんだと思う。あまりうまくいってなかったんじゃない? わたしほどじゃないにしても」
「榊さんとうまくやれる人なんているの?」
「いるんじゃないの? 人事課でほとんどの人は彼女と仲いいよ。まあ、内心で快く思っていない人はいるかもしれないけど。村瀬係長によくいじめられている人とか。でも、おおかたの人は、榊さんと仲良くしたほうが得と思っているか、本気でいい人だと思っているように見える。少なくとも、だれかが榊さんと口論になったときには、内容がなんだろうが、おおかたの人は榊さんの味方をするわ」
たしかにそういう雰囲気は、かつての庶務課にも少しあった。ちょっと不気味に思ったこともある。
「まあ、わたしが『仕事ができない』ってことにされちゃったのは、わたしの落ち度がまったくないってわけじゃないけど。榊さんや村瀬係長から受けるストレスで頭がいっばいになったときに、ミスしてしまったことはあったから。それは認めるわ。悔しいけど」
その状況はよくわかった。庶務課にいたとき、わたしも似たような経験をしたから。
「わかるわ。よくわかる。榊さんのわめき立てる声を聞いていると、頭の中が真っ白になっちゃうんでしょ?」
戸倉さんが頷いた。
「で、そのミスをいちばん激しく責め立てたのが、その仕事と直接関係のない榊さんだったから、思わず言い返したの。『あんたが横でぎゃんぎゃん喚くから、イライラしてミスしたんじゃないの』って。そうすると、『仕事ができない』ってレッテルの上に、『ミスをしても自分が悪いと認めない無責任な人』というレッテルを貼られてしまって……。そういうふうにもっていくのがうまいのよね」
わかる。それに近いことは、わたしにもあった。
「うかつに榊さんや村瀬係長を少しでも批判したり、理不尽な言い掛かりに反論したりすると、いっせい攻撃を食らったうえに、変にねじ曲げた話をあちこちで言いふらされてしまうのね」
それもわかる。似たようなことは、わたしも経験した。
「まあ、そういうことがいろいろあって、この会社じゃ、榊さんのようなタイプの人ばかりが高く評価されて、そういう人とそりの合わない人は評価されないばかりか、集団いじめやパワハラのターゲットにされてしまうって、わかってきてね。で、会社にいいかげん絶望しかけてたとき、榊さんがそれを見透かすようなことを言ったんだ。『戸倉さんって、うちの会社があまり好きじゃないみたいね』って」
戸倉さんが辞めるという噂の真相が見えてきた。
「肯定ととられるような返事をしちゃったのね」
「まあね。でも、会社が嫌いって言ったわけじゃないよ。『これだけあなたにストレスをかけられながら仕事をしなくちゃいけない環境を好きになれるわけないでしょ』と言ったの」
「それを自分に都合よく解釈したのね」
「そう。『戸倉さんはうちの会社が嫌いなんですってー』とか、『辞めたいみたいですぅ』とか、あちこちで言い触らされたの。わたしのいるところでも平然とそういうことを言うから、『そんなことは言ってないでしょ』と言ったら、『言った! 言った! あんたが言ってないつもりでも、みんな知ってるんだからね!』とわめき立てるの。みんなが知ってるってのは、つまり、榊さんがそう言い触らしたのをみんなが聞いたってだけなんだけどね」
状況が目に見えるようだ。榊さんならやりそうなことだと思った。庶務課にいたとき、少し似たことが何度かあったから。
わたしも、自分が言った言葉を榊さんにねじ曲げられ、まことしやかに言いふらされたことがよくあった。
「まあ、それでわたしが退職するって話が広まり、わたしのほうも、もうこの会社で働く気がしなくなって、否定もしていないってわけ。榊さんにはめられたってのは悔しいんだけどね」
戸倉さんがため息をついた。
「せっかくなじんでいるあなたにこんなことを言うのもなんだけど、この会社って変。榊さんタイプの人たちに牛耳られてるって感じがする」
当たっているかも。
庶務課にいたときのことを思い出すと、たぶん、戸倉さんが感じているとおりだ。会社全体としては。
ただ、タイムカプセル課のように、あまりそれに毒されていない部署もあるけれど、人事課が毒されてたんじゃ、ボーナスの額などで影響を受けてしまう。 それに、最近知った『押す人』。人の心を自分の思うように操る超能力者。榊さんはその『押す人』かもしれない。
そんなことを考えて、深刻な顔をしてしまったらしい。
「ごめん。変なことを言って」と、戸倉さんが言った。
「あなたは居心地のいい部署にいるんだし。べつに出世とか目指してるんじゃなければ、そういう部署に配属されて、うまくやっていけるんじゃないかと思うし。ただ、わたしはもう無理。退職するって噂とマイナス評価を会社じゅうに広められたんじゃ、とてもやっていけない」
以上が戸倉さんの話。
次の仕事、早く見つかるといいんだけど。
2093年7月8日
課長は、会議から戻ってくるとき、いつも疲れた顔をしている。それには慣れていたけど、今日は驚いた。ただごとじゃないというほど憔悴しきった表情だったのだ。
「何がありましたか、課長?」
驚いて訊ねた田口さんに、課長は「ああ」と力なく答え、応接室を指した。
「ちょっと来てくれ、田口くん」
ふたりが応接室に入っていくのを見送って、わたしと宇野さんは思わず顔を見合わせた。
五人しかいない課だから、課の人間だけで応接室を使って打ち合わせをするのを見るのは初めてだ。わざわざ応接室を使うってことは、わたしと宇野さんには聞かせたくなくて、田口さんとだけ話したいことがあるってことだよね。
課長のどよーんとした様子からして、よほど厄介なことが起きたんだろうか。
そう思っていると、外回りに出ていた水口さんが帰ってきた。
「課長と田口さんは?」
宇野さんが応接室を指して目配せする。
「ふたりだけで?」
声を潜めた水口さんの問いに宇野さんがうなずくと、水口さんは眉をひそめた。
「まさか、あの噂……」
「噂?」 「定年近くの人とか、定年すぎて働いている人を切り捨てていくらしいという噂、耳にしたんだ」
「え、だって田口さん、まだ六十代なのに」
「うん、まだ六十四歳だよ」
公的年金をもらえるのは七十二歳からだが、オロファド社の定年は、取締役以外は六十二歳。年金をもらえるまで十年もあったら、たいていの人は苦しい。なので、定年後も嘱託やパートとして何年か働く人が多い。田口さんも、何かの折に、七十歳ぐらいまで働くつもりだと言っていたことがある。それなのに……。
心配しながら仕事をしていると、十分ほどしてドアが開く音がした。三人いっせいにふり向いたので、田口さんも課長も、わたしたちの心配を察したようだ。
「来年の三月末で退職することになったから、そのあとしばらくは羽を伸ばそうと思っているよ」
穏やかな笑顔で田口さんが言った。
「わたしとしては、もっと続けてもらいたいんだがね」
課長のほうが暗い顔で言う。
「頭が痛いよ、まったく」
「田口さんの退職もだが、それ以前に,うちの課がやばいかもしれんし」
わたしたちには初耳だが、水口さんは何か耳にしていたらしい。
「そっちの噂もですか」
「どういう噂を聞いたんだ?」
「収益の上がらない課は切り捨てていくという……」
「そうなんだ。うちがその筆頭なんだ。ほとんど利益が出ていないからな」
「そんな……。お預かりしている『カプセル』はどうなるんです?」
宇野さんが抗議の声を上げた。
「引き取り手を探すことになるだろうな」
課長が顔をしかめて言った。
「反対したんだよ。田口さんの雇い止めにも、うちの課の廃止にも。まあ、課の廃止のほうは決定したわけじゃないけど。頭痛いよ。九月から来る新人といい……」
そこで課長は、思い出したようにわたしのほうを見た。
「榊マリカって、同期だよな。どういう人か、よく知ってるか?」
「えっ、榊さんがこの課に来るんですか」
課長がうなずいた。
「よく知ってるのか?」
「四月と五月、庶務課でいっしょでした」
「その口調からすると、あまり仲がいいわけじゃなかったようだな」
そう言ったのが課長だったので、少し意外に思った。課長はこういう目下の人間の感情に鈍感な人だと思ってたんだ。失礼な誤解だったのかもしれない。
同時に、榊さんについてありのまま話すのが少しためらわれた。榊さんは嫌な人だけど、目上の人にその話をすると、悪口みたいなってしまいそうでためらわれる。自分が榊さんのようにはふるまいたくない。
そんなわたしのためらいを察したようで、田口さんが言った。
「悪口みたいなことを言うのはいやだと思っているのかもしれないが、悪口や告げ口として聞くつもりはないから、気にしなくていい。ただ、どういう人か、多少なりとも知っておきたいだけだ。できるだけ客観的な情報で」
「要領がよくて、社交的で、目上の人には好かれていました。部長も課長も何人かの先輩たちも、榊さんの言い分を何でも信用するという感じで……。最近、『押す人』という言葉があるのを知ったとき、榊さんは『押す人』かなと思ったぐらいです」
「『押す人』?」と、課長は眉根を寄せた。
「昔の都市伝説だろ?」
田口さんや宇野さんにはわかりやすい説明かと思ったが、課長には唐突に思えたのだろう。
「たとえ話です。つまり、そう思うぐらい、目上の人に気に入られるのがうまい人という意味です。前の庶務課でも、今いる人事課でも……」
言いかけたのを、課長が「ん?」と遮った。
「人事課でのことも知っているのか?」
「あ、直接には知りませんけど。人事課にいる同期の人とこのあいだ話をしたばかりで、そのときに聞いた話です。その人が孤立してしまうぐらい、榊さんは上司に好かれているという話です。とくに、係長のひとりと入社前から家族ぐるみの付き合いがあって……」
「ん?」と、課長がふたたび遮った。
「係長のひとり? 井上係長? 村瀬係長?」
「あ、村瀬係長です。そういう名前でした。榊さんとよく似た性格の女性の係長とか」
「ん? 村瀬係長とよく似た性格なのか、その人は」
課長がため息をついた。
「どういう人かよくわかったよ。村瀬係長が、タイムカプセル課を廃止したがってる急先鋒なんだ。田口さんや、そのほか何人かの年配の人を辞めさせるよう画策したのも彼女だ」
田口さんと宇野さんと水口さんもため息をついた。居心地のいい職場だったのに。九月から雰囲気悪くなりそう。というか、タイムカプセル課のピンチじゃないの。九月からわたしは別の部署に行くことになるとはいえ、仮配属で転々とする期間がすぎたら、戻ってきたいと思っていたのに。ここに正式配属になるといいなと、思っていたのに。
タイムカプセル課だけじゃなくて、この会社自体が先行き暗い感じがするよ。