赤の領主黒の兵士・その7

異世界ファンタジー小説の7ページ目。最終回です。
「聖玉の王」の外伝にあたりますが、物語としては独立しています。

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        7

 エイリーク卿は、留守中に起こった騒ぎを聞いても、レイヴの説明を聞くと、彼を信じると皆に宣言した。しかし、そのじつ、かすかなわだかまりが心に残った。
 けっして皆が主張するように、レイヴが魔族の間諜だと疑っていたわけではない。過去の打ち明け話を聞いていただけに、彼が二心のある人間ではないということに、確信があった。
 だが、過去の打ち明け話を聞いていただけに、レイヴの心の動きに漠然とした不安を感じたのだった。
 はじめ、レイヴが魔族の子供を助けた動機について、エイリーク卿は、漠然と、彼が心のやさしい人間だからだろうと思っていた。
 だが、エイリーク卿が魔族の子供を助けようとした動機に、心のうちにわだかまっていたオーラーブ王子への罪の意識があったのと同じように、レイヴには、魔族の一家との交流と、それにまつわる悲しい過去があったのだ。
 あのとき、王がはからずも疑ったように、レイヴは、たしかに魔族に肩入れする心情を持ち合わせている。おそらく、人よりは魔族に好感情をもっている。
 いくら子供の姿をしているとはいえ、そのオレインという名の魔族の少女は、自ら十七歳にあたると明言しており、きわめて力の強い魔女なのだ。
 なのに、レイヴは彼女を逃がした。そう、逃がしたのだ。侍女が目覚めるまでレイヴが沈黙していたのは、彼女に逃げる時間を与えるためだというのは、明らかなのだから。
 レイヴのその心情を、エイリーク卿は責めるつもりはない。レイヴは、病気のときに魔族の一家に助けられたと言っていたが、それは、魔族の一家が病気の人間の子供に手を差し伸べるまで、人間のうちに、彼に手を差し伸べた者がひとりもいなかったことを意味している。おそらく彼は、人間からはひどい扱いを受けてきたのだ。
 彼が人より魔族に好感情をもったからといって、責められはしない。
 だからこそ、エイリーク卿は、レイヴの心情に不安を感じ、それにまた、いまだに彼の心に重きをなす魔族の一家に、嫉妬を覚えたのだった。
 そして、レイヴが沈みがちで、城での生活を楽しんでいないように見えることが、その不安と嫉妬を増加させていた。
 レイヴが見せる誠意と好意は、エイリーク卿の好意に応えようとしているだけで、彼自身は、エイリーク卿が彼に抱いているような友情も、いっしょにいて楽しいという気持ちも、もってはいないのではないだろうか。
 そんな疑惑を、エイリーク卿は抱かずにはいられなかったのだが、それを表には出さず、わきに退けた。もしもその通りだとしても、レイヴに非があるわけではなく、責めるいわれは何もない。なのに、そんなわだかまりをもつのは醜いことだと、エイリーク卿は思ったのだった。
 カーラはカーラで、そんな夫の寛容さに、不安を抱かずにはいられなかった。
 彼女は気丈なたちだったが、魔族の少女が自分の城の庭園にまで入りこんでいたという事実には、城に住まう者たちみんなと同じく、恐怖を覚えずにはいられなかったし、レイヴの行為は、明らかな裏切りだと感じた。
 そんな裏切りを知りながら、なおレイヴをかばおうとする夫の態度は、あまりにも異常に思える。
 この城には、妻も子供もいるというのに、あんな男を住まわせておいて、心配ではないのだろうか? それとも、夫にとって、妻も息子も、あの男ほどの値打ちがないのだろうか? 妻子より、あのいまいましいほど美しい男がだいじなのだろうか?
 不安と恐怖と嫉妬のうちに、カーラはひとつの決意をかためた。
 あの魔族と通じた男を、なんとしてでも排除しなければならない。自分と、夫と、わが子を守るために。あの男が手引きしなければ、魔族の娘だって入って来ることはできないだろう。
 そこで、ある夜、カーラは、短剣をしのばせると、レイヴにあてがわれた部屋を訪れた。
 深夜の女性の訪問に、レイヴは驚いたが、相手が城の女主人とあっては、追い出すわけにはいかない。
「わたしの用件はわかっているわね」
 真冬の北風よりも冷たい声で、カーラが言った。
「見当はつくが……。城から出ていくわけにはいかない。そんなことをすれば、エイリーク卿が……」
 エイリーク卿が王に咎められると、レイヴは言いたかったのだが、カーラはみなまで言わせなかった。
「そうでしょうとも。ここにいれば、何不自由ない暮らしができるものね。エイリークはあなたに夢中で、なんでもあなたの言いなりだし。まるで、色小姓に夢中のある種の殿方のように」
 言いたかったこととまったく違う言葉が口からあふれ、情けなさで、カーラの目から涙があふれた。
「あんたは、自分の夫のことをそんなふうに思っているのか?」
 レイヴの声が険しく尖る。
 カーラはそれには答えず、いきなり短剣で斬りかかった。反射的に、レイヴはそれをよけ、短剣を叩き落とす。何も考えたわけではなく、戦いのあいだにいやおうなく身についた体の動きだった。
「何を誤解しているのか知らんが、エイリーク卿は、帰りの旅のあいだ、ずっとあんたのことばかり話していた。あんたをひどくだいじに思っているんだ。どうしてそれを信じない?」
「そうよ。あの人はわたしをずっとだいじに思ってくれていた。でも、今は、わたしよりあなたをだいじに思っているように見えるわ。でも、もし……」
 カーラは狂おしく床の短剣に目を向けた。
「もしも、わたしがあなたに殺されたということになったら、あの人はわたしのためにあなたを憎んでくれるかしら?」
 言うなり、カーラは短剣に飛びつこうとした。レイヴの脳裏に、過去の忌まわしい記憶がよみがえる。
 無残な亡骸。友だちだと言ってくれた人の慟哭と、その人から向けられた憎悪と殺意。
 レイヴは夢中でカーラに飛びつき、彼女の行動の自由を奪おうとした。
 カーラは床に引き倒され、はずみで、スカートがテーブルの装飾に引っかかって破れた。
 仰向けに組み伏せられた女と、その上にのしかかっている男。それがはた目にどういうふうに映るか、レイヴは気づかなかったが、カーラは気がついた。
 命を賭してもこの危険な男を排除しようという狂気じみた思いのかわりに、カーラの頭のなかに、理性的とはいえないながら、それなりに狡猾な計算がよみがえった。
 カーラはけたたましい悲鳴を上げた。レイヴはたじろいだが、彼女の悲鳴を、手を離させるための威嚇と受け取ったので、彼女を組み伏せたままでいる。
 やがてどやどやと、悲鳴を聞きつけた者たちが駆けつけてきた。まず、夜警の兵士たちが、ついで、エイリーク卿の従者の騎士たち、老いた執事、さらにエイリーク卿や侍女たちも、次々に、レイヴにあてがわれた部屋に駆け込んできた。
「この者がわたしに乱暴しようとしたのよ」
 避けてペチコートののぞいたスカートが、カーラの主張を裏づけている。
「なんてやつだ」
 騎士や兵士たちが憤慨するなか、老執事がおもむろに口を開いた。
「しかし、奥さま。こんな深夜に男の部屋をどうして訪れたのです?」
 執事は、子供のころの記憶として、人と魔族が仲よく暮らしていた時代のことを知っていたので、城の者たちのうちでは、比較的、魔族に対してもレイヴに対しても偏見が少ない。それよりも、女性の慎ましさや貞淑さについて、頑固な偏見をもっていた。
 それに、レイヴの美貌、それもなよなよと弱々しい美しさではなく、戦いに慣れた者特有の危険な緊張感をはらんだ美貌は、女性を惹きつけるにじゅうぶんだと、執事は考えた。
 それで、執事は、けっしてレイヴを信用していたわけでも、好感をもっていたわけでもないのだが、彼に対して以上に、深夜に男の部屋を訪れた奥方に対して不信感を抱いたのだった。
「まるで彼が乱暴するのを期待していたかのように見えますが」
 執事の言葉に、カーラは屈辱と怒りで顔を赤く染めた。
「どういう意味? わたしがこの魔族の間諜を誘惑しようとしたとでも言うの?」
「そこまでは申しておりません。ただ、いささか軽率かと……」
 丁寧ながらも刺をふくんだ執事の言葉を、カーラが遮った。
「わたしはこの男に出ていくように言いに来たのよ」
「それは事実だ」と、レイヴが割り込んだ。
「奥方に誘惑された覚えはない」
「では、カーラを組み敷いていたのは?」
 エイリーク卿がはじめて口を開いた。
「おまえはカーラに乱暴しようとしていたのか?」
 違うという言葉を、レイヴは飲み込んだ。帰還の旅のあいだ、妻のことをうれしそうに語っていたエイリーク卿の姿を思い出し、ついで、いとこに罪を負わせたくないと言っていたグンナル王の言葉を思い出した。
 魔族の子供を逃がした責任を問わなければならなくなったとき、グンナル王は、叔父の息子であるエイリーク卿の責任にしたくないと言っていた。同じように、エイリーク卿は、愛妻に非があると思いたくはないだろうし、みなの前で妻を断罪したくもないだろう。
 それに、もしも仮に、エイリーク卿が、妻よりもレイヴの言い分を信じたとすれば、カーラは夫の愛情を疑うに違いない。先ほど口走っていた言葉からして、すでに夫の愛情に一抹の疑惑を抱いているようだったではないか。
 カーラは、あまり賢明とも理性的とも言いがたい性質のようだが、それでも、彼女の行動が夫への愛情に発しているのは明らか。そして、エイリーク卿もまた、妻を深く愛している。
 なのに、レイヴの言葉ひとつで、彼らのあいだに溝が生まれてしまうかもしれないのだ。
「奥方に非はない」
 エイリーク卿から顔を背け、絞りだすようにつぶやきながら、夢は終わったのだと、レイヴは思った。
 物にも人の情にも満たされた夢のような日々だったが、それは終わったのだ。
「こちらを向け」
 エイリーク卿は、レイヴのあごをつかんで、むりやり自分のほうを向かせた。レイヴに対してはむろん、ほかのだれに対しても、エイリーク卿が他人に対してそんなに乱暴に接するのは、今までいちどもない。
「わたしは、カーラに乱暴しようとしたのかと聞いているのだ」
 エイリーク卿はかなり苛立ち、腹を立てていた。
 レイヴがほんとうにカーラに乱暴しようとしたとは、エイリーク卿は思ってはいない。レイヴが何も釈明しようとしないことに、苛立っているのだった。
 卿もまた、レイヴと同じように、今のやりとりで、魔族の少女を助けたあとの王の前でのことを思い出していた。ただ、レイヴと違って、卿の脳裏によみがえったのは、レイヴが王の怒りから自分をかばってくれようとしたことだった。
 あのときと同じように、レイヴはカーラをかばっている。あのときレイヴが自分をかばってくれたのは、なにも特別なことではなかったのだ。
 レイヴとカーラが親しい友人だったのなら、かばおうとするのもわからなくはないが、ふたりはしっくりいっていなかった。それがわからないほど、エイリーク卿は鈍感ではない。
 カーラはレイヴに警戒心をもっており、レイヴもそれを察して、彼女を嫌わないまでも、距離をおいて接していた。エイリーク卿にとってはいとしい妻でも、レイヴにとっては、義理で接する相手でしかない。
 なのに、そのカーラと自分とは、レイヴにとって、たいして違いのない存在なのだ。
 それとも、弁解してもむだだと思っているのかもしれない。レイヴは王をわからずやと思っているようだったが、自分もわからずやだと思われているのかもしれない。
 自分がレイヴを友だちだと思っているようには、彼は友だちだと思ってくれていないのではないかと、ずっと不安を感じていたのだが、まさにそのとおりだったのだ。
 その認識は、エイリーク卿の心を傷つけた。
「どうなのだ? カーラに乱暴しようとしたのか?」
 エイリーク卿の再度の問いに対して、レイヴは再び同じ返事をした。
「奥方に非はない」
「では、おまえに非は? 答えによっては、おまえはわたしの友情を失うことになるぞ」
 レイヴはかすかにびくりとしたが、三度目の答えも同じだった。
「奥方に非はない」
「ほかに何か言うことはないのか?」
「ない」
 エイリーク卿はレイヴから手を離し、指先を突きつけるようにしてどなった。
「出ていけ! 夜が明けるまで待ってやるから、朝になったら出ていけ!」
「出ていってもいいのか?」
 少しとまどいながら、レイヴが訊ねた。
「王さまに咎められないか?」
「気にかけてもいないくせに、心配しているようなふりをするな。とっとと出ていけ!」
 言うなり、エイリーク卿は部屋を出ていった。友情を失うと言われても、レイヴが動じなかったことに、卿は傷ついていた。が、かといって、怒りに任せて彼を牢に入れる気にも、まして手討ちにする気にもなれなかったのだった。
 卿が部屋を出ていったあと、忠実な従者たちは、後顧の憂いを断つために、主君の意に背いてもこの男を斬るべきだろうかと、内心迷った。
 だが、そのふんぎりがつかずに立ち尽くしているあいだに、レイヴは、朝になるのを待たずに部屋を出て、城から去っていった。


        8

 初雪がちらつくなか、レイヴが、かつてエイリーク卿に過去の話を語った丘の麓まで来たとき、「レイヴ」と呼びかける声が聞こえた。オレインだった。
「まだいたのか。帰れなくなるぞ」
「あなたが心配だったからよ。どうしてほんとうのことを言わなかったのよ? あんな疑いをかけられたのに?」
「どうしてそれを知っているんだ?」
「あなたのようすを魔法でときどき見ていたの。それに、あなたの身に重大なことが起こったらわかるように、魔法をかけておいたから」
「皆が魔族を恐れる気持ちがわからなくはないな」
 レイヴが眉をひそめた。
「そんな力をもっているなら、恐れるのは当然だ。城の中にまで忍び込めたしな」
「力を恐れるなんてばかげている。力より、意味もなく力を恐れる心のほうが、よっぽど恐いわよ」
 それはたしかに一面の真実だったので、レイヴは反論しなかった。
「あなたはかなりまずい状況にいるのでしょう? だったら、わたしといっしょに来てちょうだい。わたしたちは、人間と違って、異種族だからといってやみくもに排斥したりしないから」
「子供の求愛を受けるつもりはないと、何度言ったらわかる」
「求愛のためばかりに言ってるわけじゃないわ。いやなら、そのことは考えなくてもいい。人間の世界で暮らすのが嘘のように、安らかな暮らしができるわ。人間の世界にいたら、あなたは傷つくばかり。いつかあなたは、身勝手な人間のために命を落としてしまう」
「そんなやわじゃない。それに、身勝手な人間とおまえは言うが、少なくともエイリーク卿は、最後まで親切だった」
「どうしてそんなことを言えるのよ。あんな女の言うことを真に受けて、もう冬になるってときに、あなたを追い出したのに」
「身分の高い者の不興を買ったり、まして妻にちょっかいをかけたとなれば、よくても牢屋入り。へたをすれば、手討ちになったり、死刑になったりするのがふつうだ。現に、そうやってくたばったやつの話を聞いたことがある。おれがエイリークにあずけられた状況からいっても、牢屋にぐらい放りこまれてもおかしくはないんだ。でも、彼は出ていけと言った。結局のところ、逃がしてくれたんだ」
「そういうものなの?」
 オレインは首をかしげた。人間の身分制度のことは、人間社会を初めて見聞きする彼女には、よくわからなかった。
「どうして同胞たちは、そんなところに長く住む気になったり、迫害されるまで人間といっしょに暮らそうなんて考えたのかしら?」
「そう言うところからすると、おまえは魔界からきた魔族なんだな」
 レイヴがそう言ったとき、遠くのほうから馬のひづめの音が聞こえ、オレインは、道のわきの茂みのなかに飛び込んだ。
 やがて、夜明けの薄明りのなかに姿を現わしたのは、エイリーク卿だった。
「忘れ物だ」
 エイリーク卿は、毛皮で裏打ちされた外套と、布の包みを放り投げると、驚いたレイヴが何か言うひまもなく、来た道をそのまま引き返していった。忘れ物と言われたが、外套も包みも、レイヴのあずかり知らぬものである。
 包みを開けてみると、レイヴが取り上げられたままになっていた剣と、もらいそこねたと思っていた兵士の給料の倍額ほどが入った皮袋と、パンと干し肉と葡萄酒が入っていた。
「たしかにいい人みたいね」
 オレインが茂みから顔を出しながら言った。
「夢ではなかったって証拠が残ってしまったな」
 言いながら、レイヴは外套を身にまとった。冷えきっていた体に、外套は暖かく、心地よかった。
「夢って?」と、オレインが無邪気に訊ねる。
「夢みたいないい暮らしをしてたってことさ。そういえば、おまえは、魔族のところで暮らすのが、嘘みたいに安らかな暮らしだと言ったな」
「ええ」
「今まで夢を見ていた。だから、夢は当分いい。前みたいな終わらせ方をしないためにも、別の夢の中に入ってしまうわけにはいかない」
「何の話?」
「他人に話すような話じゃない。それよりさっさと帰れ。じきに雪が本格的に降りだすぞ。北のほうなら、もう積もってるんじゃないのか」
「そうかもね」
「おい、帰れるのか?」
「だいじょうぶ。魔法で野生の獣や鳥を呼んで、乗せていってもらうことができるから」
 そう言うと、オレインは今度こそ北に帰っていき、レイヴは、ひとまず国外に出て、どこか大きな町で冬を越すことにした。
 そして、春になると、レイヴは、またホルム国に戻ってきて、エイリーク卿が罪に問われずにすんだことを確かめると、再び国外に出ていったのだった。
 レイヴがホルム国に戻ってくるのは、それから四年のちのこと。それはまた別の話である。


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