人と魔のツァラネイン・その3

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     3 魔物の名前

 姉妹の意志に反して婚姻の日取りが決まり、その日が一日一日と近づいていった。
 結婚が避けられぬものなら、せめてそのまえに、《魔物さん》とかなうだけの時間をともに過ごしたいと思うのだが、婚礼のしたくに追われ、森に行く時間はなかなかとれない。
 だが、都への出立を三日後に控えたある日、ついに姉妹は家を抜け出し、森へ向かった。
 家を出るときには、《魔物さん》にひとめ会って別れを告げるだけのつもりだったが、野原を駆けていくとちゅうでふたりとも気が変わった。
 森でずっと暮らせないだろうか。《魔物さん》は自分たちを受け入れてくれないだろうか。友として。いや、花嫁として。
 いまやふたりは自覚していた。婚礼がこれほどつらいのは、相手に愛を感じていないためばかりではない。《魔物さん》と会えなくなるのがつらいのだ、と。
 自分たち姉妹と《魔物さん》と、いつまでも三人いっしょにいたい。それこそが、彼女たちの望みだった。《魔物さん》が人間でないことも、他人の目には異常と映るだろうということも、彼女たちにとっては些細なことだったのだ。
 いつになく急いで野原を横切り、森に入っていくと、呼びかけるまでもなく《魔物さん》が姿を現わした。
「どうしたのだ? 何かあったのか?」
 ブルーベリー色のやさしい瞳に見つめられると、乙女たちの瞳に涙がこみあげてきた。
「婚礼が決まってしまったの」
「三日後に結婚して、都に住まなければならないの」
 魔物は目を細め、乙女たちを見下ろした。
「しばらく来ないと思ったら、そういうことだったのか。人間の乙女は人間の男を見つけて去っていくゆえ親しくならないほうがよいと、一族の者にいくたびも諭されたが」
 いつもは春のそよ風のように心地よい声音が、いまは氷の刃のように冷たい。
 姉妹はたじろぎ、激しくかぶりを振った。
「違うわ。お別れを言いにきたんじゃない」
「都に行きたくない。あなたと離れ離れになるのはいや。このまま森にいさせてほしいの」
 魔物は驚いたようすで乙女たちを見つめた。
「本気なのか。生涯、人間の社会と離れて暮らすことになるのだぞ」
 乙女たちはいっせいにうなずいた。
「かまわないわ。もう決心したの」
「あなたさえ受け入れてくれるなら」
 受け入れてくれるのはわかっていた。怒りを含んで険しかった《魔物さん》の瞳がやさしく穏やかなものに変わったときから。
 《魔物さん》は姉妹をうながして、森のさらに奥深くにある自らの住処に連れて帰った。
 住処といっても、人間の住居とは全く違う。潅木と茨の茂みにしか見えぬ場所で《魔物さん》が手をかざして声をかけると、茨が左右に開いて、姉妹が住む家の居間より少し広いぐらいの空間が現れた。
「我らは人の子が住むような家は建てぬのだ」
 《魔物さん》がそう言いながら、姉妹をその空間に招きいれた。
 そこに招かれたのは初めてのことで、姉妹はもの珍しげに室内を見まわした。
 柱のように部屋の中央にあるのは、さほど太くない潅木の幹。床は周囲からいくぶん盛り上がった地面にやわらかな枯れ草が敷かれ、壁は茨。入り口は《魔物さん》が手をかざして声をかけると再び消え失せ、窓もないが、茨の隙間からかすかに風が流れる。
 壁の高さは姉妹の背丈の倍ほどで、天井はなく、木漏れ日が差し込んでいる。
「雨が降ったらどうするの?」
「濡れてしまわない?」
 姉妹がたずねると、魔物さんが微笑んだ。
「雨が降れば天井は閉ざす。雨が降らなくても、夜になれば寒いゆえ閉ざす。入り口と同じように」
 《魔物さん》が手を空に向かってかざしながら声をかけると、壁の上部から茨が伸びて丸天井をつくり出し、室内は急に暗くなった。
「明かりはあるけれど、昼間からこれでは鬱陶しいだろう?」
 そう言うと、《魔物さん》が再び丸天井を消し去った。
「おまえたちがいなくなれば、いずれ人間たちが森に捜しにくる。しばらく、ここに潜んでいたがよかろう」

《魔物さん》が予想したとおり、日が暮れ、あたりが暗くなるころ、遠くのほうで姉妹の名を呼ぶ声が聞こえた。父親と村人たちが、失踪した娘たちを捜しあぐね、まさかと思いつつも森に足を踏み入れたのである。
 暗闇のなかで、姉妹は息をひそめて《魔物さん》に寄りそった。部屋の入口は茨でぴたりと閉ざされており、見つかる恐れはないと言われたが、いまにも見つかるのではないかとどきどきした。  幼いころに森の魔物の伝説を聞かされたときのことを、姉妹は思い出していた。魔物の話を聞いたあとには、姉妹はよく父親にまとわりついた。魔物から身を守るためには、父親の腕のなかがもっとも安心に思えたのだ。
 だが、いまは皮肉なことに父親こそが敵。敵の目を逃れるためにもっとも安心できるのは、幼いころあれほど恐れた魔物のそばだった。
 どのぐらいそうしていたろうか。
 まもなく人の声は遠ざかり、聞こえるのはふくろうの鳴き声ばかりとなった。
 追っ手はまた戻ってくるのか。それとも、森に娘たちはおらぬと思って帰っていったのか。
 静寂がつづくうち、いつしか娘たちの緊張は解け、《魔物さん》の腕のなかで眠りに落ちていった。

 翌朝、姉妹が目覚めると、茨の壁に大きく入口が開き、美しい魔物たちがのぞきこんでいた。いずれも、《魔物さん》と同じく、若葉色の髪にブルーベリー色の瞳。白樺の幹の色の肌はなめらかで若々しいながら、おごそかな威厳と気品があって、《魔物さん》よりはかなり年上に見える。
 姉妹はあわててはね起き、髪をなでつけ、衣服の乱れを整えた。
「《幼き者》よ」
 魔物の女が、姉妹を無視して《魔物さん》に語りかけた。
「愚かなことをしたね。ゆうべは人間たちでうるさかったこと」
 魔物の一族に歓迎されていないことを知り、姉妹は身をすくめた。
「すみません。大目に見てください。もう来ないと思いますから」
 《魔物さん》が言うのにつづいて、姉妹も口々に慈悲を請うた。
「申しわけありません。ご迷惑をおかけしました」
「でも、どうか、ここに置いてください。父たちはもう来ないと思います。わたしたちが森にいると知っているわけではありませんから」
 魔物の女は、初めて姉妹に目を向けた。
「愚かな娘たち。ここに留まってどうしようというの」
 音楽的な声音には、怒りも憎しみもこめられてはいなかった。代わりにあったのは哀れみと蔑み。怒りや憎しみのほうがまだましだった。
「この方のそばにいたいのです」
「子鹿や小鳥がこの方のそばにいるのと同じように、ずっとともに過ごしたいのです」
 姉妹が答えると、女は苦笑した。哀れみと蔑みに彩られた冷たい微笑だった。
「愚かな娘たち。子鹿や小鳥は《幼き者》の友だが、おまえたちの望みは友ではあるまい。恋人、あるいは花嫁になりたいのであろう?」
 図星を刺され、いたたまれずに姉妹は顔を赤くした。
 と、ふいに《魔物さん》が口を開いた。
「《美しきお方》。彼女たちを失いたくないというのは、わたしの望みでもあるのです」
 《美しきお方》は微笑んだ。人間の少女たちに向けたのと同じく哀れみがこもっていたが、彼女たちに向けたのと違って暖かみのある笑みだった。
「それは互いにとって不幸な絆。忘れるのが互いのため。いつかその者たちは森に留まったことを悔い、自ら破滅するか、さもなくば、そなたも含めてわたしたちを憎むようになるのだから」
「そんなことしません!」
 アオラとサオラは同時に叫んだ。
「わたしたちが森に留まるのを許してくださったなら、感謝こそすれ、憎む理由はないではありませんか」
「いまはそう言っていても、いずれ気が変わるだろう。おまえたちに見せたいものがある。ついてくるがよい」
 《美しきお方》と魔物たちが姉妹を導き訪れたのは、清らかな水をたたえた小さな泉。姉妹が初めて訪れる場所である。
「おまえたちの未来を見せよう。水面を見るがよい」
 促されて水面をのぞき込むと、そこに映し出されたのは、姉妹の面差しをそのままに残すおとなの女性。
「おまえたちの十年後の姿だ」
 乙女たちは満足した。
 十年後の自分たちは、いまの初々しさはいくらか失っているけれど、気品とあでやかさはいまとは比較にならぬほど。見ようによっては十八歳の今より美しいとさえいえる。
「美しくはあるが、さて《幼き者》とつりあうかな」
 と、水面の美女に並んで映し出されたのは、いまとまったく違わぬ《魔物さん》の姿。人間でいえば二十歳を少し過ぎたぐらいの若者の姿である。
「われらの一族と人間とでは年の取り方がまったく違う。おまえたちが奥方と呼ばれるにふさわしい年齢になっても、《幼き者》はいまのままだ」
 たしかに姉さん女房だと、姉妹は認めた。だが、つりあわないというほどではない。
「まだこのぐらいの夫婦なら、世にいくらでもあるだろうが、二十年後ではどうかな」
 《美しきお方》が言うと、水面に映された女の姿だけが変わった。
 やはり姉妹の面差しを残してはいるけれど、もはや彼女たち自身よりも母に似ている。二十年のちなら、年齢も母と同じだ。女ざかりの美貌はまだまだ失せてはいないが、肌の衰えは隠すべくもない。  もはやどう見ても恋人には見えぬ。姉と弟どころか、ともすれば母と息子に見える。
「さて、六十年後では」
 そこに映しだされたのは白髪の老女。若き日には美しかったろうと想像できなくもないが、顔にはしわが老いを刻み、もはや美女とはいえぬ。
 ひきかえ、かたわらに立つ《魔物さん》は、相変わらず若い姿で、祖母に寄り添う孫のようだ。
 さすがにいまより多少は年上に見えるが、人間でいうならせいぜい三つ四つ年をとっただけ。女の変貌とは比較にならぬ。
「われらの一族の若者を恋い慕った人間の娘は、おまえたちが初めてではない。われらの一族の娘を恋い慕った人間の若者も幾人もいた。だが、そのいずれも、森に留まった者は不幸だった」
 アオラとサオラは伝説を思いだした。
「魔物は少女や少年をかどわかすって聞いたわ」
「それって、作り話じゃなかったのね」
 思わず叫んで、娘たちは目を伏せた。
「ごめんなさい。気を悪くなさいました?」
「むろん、少しは」
 言葉と裏腹に、《美しきお方》は微笑んだ。さきほどの冷たい笑みではなく、意外に暖かい微笑だった。
「もうわかっておろうが、かどわかしたのではなく、人間のほうがわれらの一族のだれかかれかに惹かれたのだ」
 それはよくわかったので、姉妹はうなずいた。
「が、異なる種族の婚姻は無残だった。その者たちの姿を見せよう」
 水面に、次から次へとさまざまな恋人たちの姿が映しだされた。
 最初に映ったのは、美しい魔物の若者に恋した娘。幸福そうだった娘は、場面が一転して娘とはいえぬ年齢になり、つづいて中年女になっていくうち、不幸の翳を見せはじめる。 当惑する若い夫に、あるときはわめき散らし、あるときは泣いて取りすがる。声は再現されないけれど想像はつく。ひとり老いていく女は、いつまでも若いままの夫の愛情が信じられないのだ。
 ついに老婆となった女は、もはや正気を保っておらぬ。自身を夫とつり合う若い娘と信じ込み、白髪に花を飾るさまは、あるいは中年であったときより幸福ともいえる。
 だが、アオラとサオラは、むろん、そのように老いたくはなく、見るに耐えずに目を背けた。
「こんなふうにならなかった人だっているでしょ?」
 弱々しい抗議に、《美しきお方》が答えた。
「いるとも。見るがよい」
 つづいて映されたのは、やはり魔物の若者に恋した娘。彼女はたしかに、老いも狂いもしなかった。目尻の小じわに気づき、肌の衰えを感じた日、毒草を口に含んだのだ。
「かの者はわたしの妻であった」
 そう告げたのは、集まってきていた魔物たちのひとり。《魔物さん》よりはかなり年上のようだが、それでも、人間の年齢でいうなら三十代ぐらいだろう。
「彼女が寿命で先立ったのなら、つらくとも受け入れただろう。彼女のほうが先立つことは、結婚したときからわかっていたのだから。だが、このような形での突然の死は堪えがたかった。わたしが殺したようなものゆえな」
 彼の悲しみを思って、アオラとサオラは涙を流した。
「泣くにはあたらぬ。何百年も昔の話だ。だが、おまえたちと《幼き者》にとっては、これから起こるやもしれぬこと。おまえたちが森に留まるなら、どのような形にせよ、双方が深く傷つくだろう」  と、ずっと黙っていた《魔物さん》が口を開いた。
「傷つかぬやもしれぬ。この者たちが年老いても、わたしはいまと変わらず慈しむだろう。ならば、この者たちには狂う理由も死ぬ理由もない」
「わたしとて、妻がそのまま生きておれば、年老いて死ぬまで慈しんだろうよ」
 妻に先立たれた魔物が言い返した。
「だが、人間には、それを信じきることも、自分だけが年老いるという事実そのものに耐えることもできぬのだ」
 《魔物さん》は何かいいかけてやめ、アオラとサオラを見た。
「おまえたちを不幸にしたくはない。だが、わたしを信じてくれるなら、誓って心変わりはしない」
 姉妹は目を伏せた。これほどまでに言ってくれる《魔物さん》を信じたかったが、自信はなかった。
 永遠の愛を誓った恋人や夫婦が心変わりすることは、往々にして起こるもの。村人たちのなかにも、長年連れ添った妻を捨てて若い女に走った男も、夫を捨てて別の男と駆け落ちした女もいた。それを知らぬほど子供ではない。
 まして、魔物と人間では年の取り方が違う。《魔物さん》が若いうちに、自分たちは老婆になってしまうのだ。
 それに、もし魔物が人間ほど不実でなく、《魔物さん》が心変わりしなかったとしても、年老いた自分たちにそれが信じられるだろうか。いや、たとえ信じられたとしても、つらいことに変わりはない。それに、愛する者たちが老いていくのを見守るしかない《魔物さん》は、さらにつらい思いをすることだろう。
 悲劇を避けるためには森を去るしかないと悟ると、姉妹は、魔物たちが妬ましくなってきた。ことに、魔物たちのなかでもひときわあでやかで麗しい《美しきお方》が。
「なぜ、こんなに意地悪なさるんです? あなたが《魔物さん》の恋人だからですか」
 《美しきお方》は苦笑した。
「そう、ひとつ言い忘れていたけれど、われらの一族との寿命の違いに堪えがたくなった人間は、われらを妬み、憎むのがつね。ちょうど今のおまえたちのように」
 ふたりは顔を赤くした。
「誤解のないように言うと、わたしは《幼き者》を産んだ者。人間でいえば母親。自分の一部を分けた息子が恋の対象となるはずもない」
「母親?」
 とてもそうは見えない。《美しきお方》は、どう見ても、姉妹の母親よりはるかに若く、さきほど見た十年後の姉妹の姿と比べても、ほとんど違わぬ年に見える。これもまた、人と魔物との年の取り方の違いゆえか。
「よく考えるがよい。……すでに心は決まっておるようだが」
 言い置いて、《美しきお方》と魔物たちは去ってゆき、あとには姉妹と《魔物さん》だけが取り残された。
「帰るのか」  《魔物》さんの問いに、姉妹は泣きながらうなずいた。二十年後の、あるいは六十年後の自分に自信が持てぬ以上、ほかにどうするすべがあるだろう?  「いますぐに?」
 こんどは、姉妹はかぶりをふった。美しい夢につづく悪夢に耐える勇気がない以上、夢から覚めなければならないのはわかっていた。だが、いま少しだけ、夢を見ていて悪いことがあるだろうか。
「夕方には帰るわ」
「それまでそばにいてくれる?」
 三人は泉のほとりに腰をおろし、じっと水面を眺めていた。
 《魔物さん》の左右に並んで水面に映るのは、今はあどけなさの残る十八歳の姿。
「いつまでもこのままでいられればいいのに」 思わず口に出せば、悲しみが増すばかり。 《魔物さん》とこのまま会えなくなるのなら、その美しい姿を見つめて、記憶に焼きつけたい。心ゆくまで語り合いたい。
 そう思っても、恋人の横顔を見つめれば涙で視界がぼやけ、口を開けば漏れるのは鳴咽ばかり。《魔物さん》も、魔物のつねなのか涙こそ流してはおらぬものの、乙女たちを抱きしめる腕にはいいようのない悲しみを秘めて力がこもった。

 どのぐらいのときが経ったろうか。
 乙女たちの嗚咽がやみ、悲しみよりも今このときの至福に身をゆだねようという心境になっていたとき、《魔物さん》がぽつりとつぶやいた。
「おまえたちは、わたしのことを忘れるだろう」
「いいえ。忘れるはずがない」
「でも、夢だったと思うかもしれないわね。思い出があまりに美しすぎて」
 乙女たちは、今は乾いた瞳で恋人の美しい顔を見つめた。
「それはいや。夢から覚めなければならないのはわかっているけど。でも、この夢がほんとうにあったことだってのは、いつまでも覚えていたい」
「証が欲しいわ。これがほんとうのことだったと、いつまでも確信していられる証が」
 《魔物さん》は、姉妹をかわるがわる見て、微笑んだ。
「人間の社会に戻り、人間の男に嫁ぐなら、そんな証なぞ重荷になるのではないか。思い出に囚われていては、夫を愛せず、不幸な結婚になるやもしれぬぞ」
「かまわない。それでも、これが真実であったと思えなくなるよりはましだもの」
「ならば、わたしの名を教えよう。わたしにとっては、いまが特別なときで、おまえたちは特別な者。われらの一族にとっては、人間にとっての結婚よりも意味のあることだ」
 おごそかな言い方に、姉妹は息を飲み、身を正した。  ふたりとも、初めて出会ったときに、彼に言われたことを覚えていた。魔物たちは、特別なとき、特別な人にしか名前を教えぬのが掟。以来、《魔物さん》にいちどとして名前を聞いたことはなく、その掟の話が持ちだされたことはない。
 だが、姉妹は覚えていた。いつか、名前を教えて欲しかった。いや、名前を教えてもよい特別な人になりたかった。いままでそれと意識したことはなかったが、心のどこかにくすぶっていたひそかな願いであった。
 《魔物さん》の口にした名前は長かった。韻律があって、いつまでも長く長くつづき、まるで呪文か詩歌のよう。たとえ掟がなかったとしても、気安く呼びあえるようなものではない。
 その名前は魔法のごとく、乙女たちの耳から入り、体内にしみわたって定着した。
 それの持つ意味は、人間の乙女たちには理解を超えたこと。自分たちの身に何が起こったのか、ほんとうにはわかっていなかったが、いままでついぞ経験したことのない快楽であり、抱き合って過ごしたひととき以上に恋人の愛を感じられた。
「これは一種の魔法だ」
 《魔物さん》は重々しく告げた。
「おまえたちがわたしを忘れず、思いをこめてわたしの名を千回呼んでくれるなら、魔法は成就されるだろう。おまえたちがわたしを忘れて生きることを選ぶなら、何も起こらぬ。ゆえに、魔法の成就は、おまえたちにとってはわたしが実在した証。わたしにとっては、おまえたちがわたしを忘れなかった証となる」
 姉妹はうなずいた。雰囲気に飲まれ、いかなる魔法なのか聞くことも忘れ、ただただ感動に浸っていた。
 そうして、ふたり同時に、たいへんなことに気がついた。
「いま聞いた名前を呼ぶの? 長すぎて、とても覚えられなかったわ」
「ツァラ……なんとかかんとか……ネイン? だめ。最初と最後しか覚えてない」

 《魔物さん》は微笑んだ。
「覚えろとはいわぬ。たとえ覚えても、人間の口では発音できぬ音も混じっている。おまえたちに必要なのは、心をこめてわたしを呼ぶこと。わたしの名を正確に呼ぶ必要はない。わたしの名前は、すでにおまえたちの体内に刻印されたゆえ」
「じゃあ、なんて呼べばいいの」
「好きなように。《ツァラなんとかかんとかネイン》でも、今までどおり《魔物さん》でも」
 姉妹は思案した。《ツァラなんとかかんとかネイン》では変だし、せっかく名前を教えてもらったのに、《魔物さん》ではつまらない。
「じゃあ、ツァラネインでは? ツァラネインって呼んでもいい?」
 《魔物さん》はうなずいた。
「かまわぬ。気に入った」
「ツァラネイン、ツァラネイン。……これも、千回のうちに入るの?」
「いいや。千回のうちに入るのは、わたしをなつかしんで、心をこめて呼んだときだけ。試しに呼んだのや、おざなりに呼んだのは、数に入らぬ。……ゆえに、魔法は成就せぬやもしれぬ。わたしを千回呼ぶ前に人間の夫のほうを愛するようになったなら、それもまたやむを得ぬだろう」
 姉妹は激しくかぶりをふった。
「いいえ。千回でも万回でも呼ぶわ。たとえ夫が思ったよりいい人だったとしても。あなたの次ぐらいに好きになれたとしても」
 後ろ髪を引かれる思いで、姉妹はツァラネインに別れを告げ、森を去った。

 姉妹が村に戻ると、両親は喜び、叱り、どこへ行っていたのかと詰問した。
「おまえたち、だれか好きな人がいて、その人のところへ行ってたんじゃないだろうね。まさか、奥さんのいる男とか、親に言えないような相手がいるんじゃ……」
 たずねる母親に、姉妹は微笑んだ。母親の心配はおおむね当たっているともいえたが、姉妹には邪推のように聞こえた。ツァラネインと過ごした時間はあまりにも美しい夢のようで、母親の言葉に含まれるいやらしげな響きとはかけ離れていると感じられたのだ。
「自分たちのことをゆっくり考えてみたかっただけ。もう気がすんだわ」
 一日のあいだに娘たちが変わったことに気づき、母親はとまどった。が、娘たちが穏やかに結婚を受け入れているのを見て、いいほうに受け取ることにした。気のすむまでよく考えて納得したのだろう。わがままな娘時代に別れを告げて、おとなになったのだろう、と。
 それは、考えようによっては、半分はまちがいではなかった。もし、おとなになるというのが、夢を捨て、自分の人生にあきらめを見出すことならば。アオラとサオラは、たしかに娘時代の美しい夢に別れを告げたのだ。
 だが、半分はまちがいだった。夢は完全には失われておらず、森の美しき魔物の真の名前として姉妹の体内に刻印され、魔法の成就を待っていた。
 ゆえに、二日後、婚礼のために都に旅だっていくふたりの花嫁は、あまり幸福そうではなかったけれど、不幸そうにも見えなかった。


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