同人誌で発表している長編小説のつづき5ページ目です。
はじめての方は1ページ目からお読みください。
同人誌をお読みになっていない方も、話についていけると思います。たぶん。
温泉で体の汚れを落とし、よく温まったラーブたちは、女性たちが出てくるのを待ってから、通路を戻った。
何本かの通路の分岐点となっていた広間に戻り、別の通路に入ると、ほどなく奇妙な小部屋にたどり着いた。
そこは、人がひとりかふたり立てるぐらいのごく狭い小部屋で、木の床が設けられ、床の中央から木の柱のようなものが突き出している。柱にしては奇妙だ。天井を支えているわけではなく、ラーブの背丈ほどしかなくて、てっぺん近くに穴が穿たれ、そこに丈夫そうな太いロープが結ばれている。
ロープは上方に向かって伸びているが、その先は見えない。通路の天井がおとなの背丈ぐらいしかなかったのに対して、この小部屋のなかだけは、天井がどこにあるかわからないほど高いのだ。
ラーブは、ロープで崖を引き上げられたときのことを思い出した。この小部屋には、あの恐くも珍しくもあった体験を連想させる何かがある。
そんな予感は、オレインのひとことで高まった。
「ここに入るのはひとりずつよ。ひとりだけ入って、あの柱につかまってちょうだい」
「そうすると」と、ラーブは恐る恐るたずねた。
「あのロープで引き上げられるのかい?」
魔族のひとりが感心したようにヒューと口笛を吹いた。
「いい勘してるじゃないか」
リーズがいやそうに顔をしかめた。ロープで引き上げられるのはかなり恐かったのだ。だが、恐がっていると思われるのは癪だったので、文句は口にしなかった。
じつはラーブも恐ろしかったのだが、その一方でわくわくするような興奮も感じていた。
この山の麓に到着してからここまで驚きの連続だった。あの延々と伸びた階段も、ロープで引き上げるあの仕組みも、人間の技術ではとても造れないだろう。
魔族がこれほど高い技術を持っているとは、これまで思いもしなかった。そんな驚嘆とともに、魔族に対してますます好奇心をかき立てられていたので、次はどんな体験ができるのか興味津々だったのだ。
それで、ラーブは、オレインに促されるまま、最初にその小部屋に入り、柱のようなものにしがみついた。
「ラーブさま!」
テイトが抗議の声を上げたが、ラーブが安心させるようにうなずいてみせると、心配そうな表情のまま口をつぐんだ。
ほんとうに危険かもしれないと思えば引き下がらなかっただろうが、これまでに見てきた魔族たちの技術やラーブに対する好意的な態度、おもしろがっているようなレイヴのようすから、主君が先に行っても危険はないだろうと感じたのだ。
「じゃ、いいわね?」
オレインの問いに「いいよ」とラーブが返事すると、オレインは、小部屋の入り口に垂れ下がった紐を三度引っ張った。一度目と二度目の間隔は短く、二度目と三度目の間隔は長く。
オレインの動作に伴って、はるか上のほうで鐘の鳴る音がした。
ラーブが緊張して待っていると、まもなく、体が上から押さえつけられているような感覚とともに、床が上に引き上げられはじめた。
ふと思いついて心のなかで数を数えていると、二十六まで数えたところで体が軽くなった。
頭を上げると、岩壁に入り口が現れ、近づいてくる。実際にはこの小部屋のほうがその入り口に向かって上昇しているのだと、頭のなかではわかっていたが、まるで入り口のほうが下がってきているように見えた。
入り口の高さと小部屋の床の高さが同じになったところで、小部屋の上昇はゆっくり止まった。ラーブが小部屋から出ると、そこは、光り苔の明かりに照らされた細長い部屋で、四人の魔族が出迎えた。ふたりはロープを巻き上げる滑車を回していた男たちで、ひとりは光り苔のランプを掲げた女、もうひとりは男とも女ともつかない幼い子どもだった。
人間でいえば五歳ぐらいだろうか。
だが、魔族はゆっくりとしか年をとらないから、実際に生きてきた歳月はラーブよりも長いはずだ。
「驚いたこと。人間がやってくるなんて」
女が口を開き、子どもは女のスカートの陰にさっと隠れてラーブを見つめている。親子だろうと、ラーブは見当をつけた。
ラーブの視線は子どもに釘づけとなった。
「わたしも驚いた。こんな小さな魔族の子どもを見たのは初めてだ」
「そうなの? わたしも人間を見るのはずいぶん久しぶりだわ。まあ、オレインが連れてきたからには危険な人間じゃなさそうね」
「オレインから連絡は受けている」と、男たちのひとりがふたたび滑車を回しながら口をはさんだ。
ラーブはそちらに視線を向けた。男たちのひとりは人間の年齢でいえば三十代ぐらいで、もうひとりはテイトと同年代ぐらいだろうか。口をはさんだのは、そのうち年かさの男のほうだった。
「ホルム王国の王子、いや、いまでは国王だな? それともその従者のほうか?」
「王とはいえないと思いますが。王太子だったオーラーブといいます。皆はラーブと呼びます」
「へえ。陛下と呼ばなくていいのかい?」
「それはやめてください。ラーブと呼んでください」
「じゃあ、ラーブ。いま、お仲間たちを引き上げてやるからな。ふたりめがもう着くぞ」 男の言ったとおり、ラーブを運び上げた小部屋がふたたび引き上げられてきた。乗っていたのはリーズだった。
リーズが青ざめて緊張しているのを見てとると、ラーブは思わず小部屋に近づこうとした。
その背後から、魔族の年かさの男が声をかけた。
「それに乗るなよ、ラーブ。ふたり乗ると重くなりすぎるからな」
ラーブはうなずいて小部屋との境ぎりぎりに立ち、リーズに向かって手を差し伸べた。
ほとんど同時に、リーズが柱から手を離し、ラーブの手を取って小部屋から足を踏み出した。
いつも気の強いリーズだが、いまは緊張で震えている。こんなときには、彼女を守らなくてはという気持ちがこみ上げてくるのだが、ラーブはそれを口には出さなかった。そんなことを言ったらリーズがむきになるだろうと、いままでの付き合いでわかっている。
リーズが小部屋から出るとすぐ、小部屋はまた下に降ろされていった。同行した全員がそろうと、オレインが引き上げてくれた一家をかんたんに紹介した。
年かさの男がグレイネルで女は妻のリーベ、若い男はその息子のムガシャ、幼い子供はラーニだという。
「ムガシャとラーニ?」
サーニアが目を丸くしてふたりの名を繰り返した。
「わたしの祖父母と同じ名だわ。正確には、祖母はラーニアだけど」
「ええ」と、リーベがうなずいた。
「あなたのおじいさまとおばあさまの名前をいただいたの。おばあさまは、幼名はラーニだった。この子も、もしも女の子になったらラーニアと改名するでしょうよ」
話を聞いていて、ラーブは、旅の間にサーニアやオレインたちに聞いた話を思い出した。
魔族は生まれたときには性別がなく、あるていど育ってから性が分化していくのだという。そのため、生まれたときには男女どちらでも通用する幼名をつける。やがて性が分化しはじめると、幼名をそのまま本名とする場合もあるが、性別に合わせた名に改名する場合もあるという話だった。
「おふたりには、ほんとうにお世話になったわ。わたしは早くに両親を亡くしたから、おふたりが両親のようだった」
リーベの目から涙があふれ、サーニアは穴の空くほどまじまじと彼女を見つめた。
「もしかして、おかあさまの友だちだったリーベおばさん? わたしが子供のころ近所に住んでらした、あのリーベおばさん?」
「そうよ。よく覚えていないのも無理はないわ。このグレイネルと結婚するために引っ越したとき、あなたはまだ小さかったし、そのあとシグトゥーナに帰ったことは何回かあったんだけど、あなたに会う機会はなかったし。でも、ガンザやあなたのことは、ラーラやムガシャおじさんによく聞かされたわ。ムガシャおじさんは、あなたが消息不明だというので、心配してらした」
「ええ。おじいさまには早く会いたいわ。リーベおばさんにもお会いできてよかった。ご無事でいらしてよかったわ」
サーニアもまた涙ぐみ、ふたりは抱き合って再会を喜んだ。
そのようすを、ラーブは複雑な思いで見守った。
かつて、自分が師と仰ぎ、祖母のように慕っていた老女が仮の姿で、じつは魔族の若い女性だったと知ったとき、ずいぶんとまどったものだが、いつしかそれを事実として受け入れ、慣れもした。
だが、こういう場面を見ると、サーニアには自分の知らなかった魔族としての過去があるのだと改めて思い知らされる。その過去には、詳しいいきさつは聞いていないまでも、人間に迫害されたことも、親しい人たちを殺されたこともあると知っているだけに、ラーブは人間のひとりとして罪悪感を感じずにはいられない。
そんなラーブの思考を、肩に置かれた手が遮った。レイヴの手だった。
自分の気持ちをわかってくれたのだと、ラーブは感じた。
同情や慰めの言葉などほとんど発することのないレイヴだが、こういうふうに、人の心の痛みに敏感な人なのだと気づかされたことがこれまで何度かあった。
同時に、レイヴもまた自分と同じ痛みを感じているのだと、ラーブにはわかった。サーニアが大切な人たちを殺されたその場に、レイヴも居合わせたと聞いたことがあったから、サーニアの痛みはレイヴの痛みでもあるのだと察しがつく。
そんな彼らに、テイトとリーズが複雑な視線を走らせる。
この二年足らずの経験から、彼らもまた、魔族に対する認識をかなり改めたのだが、物心ついたときから植えつけられた魔族に対する憎悪と偏見は根強く残されている。
ことにテイトは、父も叔父も魔族との戦いで失ったのだ。父や叔父を殺したのは、昨年ホルム王国を乗っ取ろうとしたザファイラ帝国ではなく、オレインたちと同じリモー王国の魔族たちだった。その遺恨をそう容易くは捨てきれない。
それにテイトはサーニアに師事していたわけではないので、彼女に対しても、ラーブやリーズのような敬愛の念をもっていたわけでもない。
魔族への憎悪を深く心に刻みつけられたテイトや、彼ほどではなくても魔族に対する敵愾心を捨てきれないリーズにとって、憎悪も偏見もあっさり捨て去ったラーブの心のありようは理解しきれないものだった。
かといって、ラーブその人をだれよりも大切に思う気持ちに変わりはなく、だからこそこの魔族の地まで行動をともにしてきたのだが。