同人誌で発表している長編小説のつづき17ページ目です。
この小説がはじめての方は「塔の街」1ページ目からお読みください。
同人誌をお読みになっていない方も、話についていけると思います。たぶん。
ラーブたちが《塔の街》に住むようになって一年の三分の一近くが経ったころ、市長がラーブとリーズを執務室に呼んで、重々しい口調で言った。
「もうすぐ先見の月を迎える」
ハウカダル島の共通暦は、一ヶ月が二十二日で、一年は十六ヶ月と十二〜十三日。先見の月は、別名「赤い空の月」とも呼ばれ、収穫の月の前月に当たる。小麦の収穫期を控えた季節だが、この時期、人々が小麦の実り具合以上に気にするのが空の色。夜になっても空が黒くならず、夕焼けのような赤い色を帯び続けると、そのあと《魔界の扉》が開いて、魔界から攻め寄せてくる魔族との戦いが始まるのだ。
「『先見の月』は、われわれにとっても重要だ。次に《魔界の扉》が開いたときには、ザファイラ帝国の軍が侵攻してくるだろうからな」
「リモー王国の軍はもう来ないとお思いですか?」
「うむ。リモー王国にはもう、そのような余力はないだろう。というより、リモー王国は、おそらくもう存在していないだろう。王族や国民に生き残っている者がいたとしても、こちらに逃げてくるのが精一杯か、でなくば、ザファイラ帝国の兵士にされているだろう」
「つまり、リモー王国は、ザファイラ帝国に占領されているだろうと思われるのですね」
「たぶんな」
「彼らがわが国に侵攻してきたとき、わが国の国民を捕らえて洗脳し、自分たちの兵士に仕立てようとしました。リモー王国の人々に同じことをしている可能性は……」
「充分にあり得る。あまり考えたくはないが。じつのところ、彼らがホルム王国で画策したことを知るまでは、彼らがあのような戦い方をするとは知らなかったのだ。われわれが魔界から逃げ出したときには、たんに大軍で押し寄せてきたからな」
そう言ってから、市長はしばらく考え込んだ。
「そうだな、考えてみれば、あれほどの大軍、もともとのザファイラ国の者だけではあるまいな。周辺諸国の者たちを洗脳して、取り込んでいたのかもしれない。……ともあれ、魔界からこちらの世界に進軍してくるときには、《魔界の扉》を潜り抜けなければならないから、大きく横に広がって押し寄せてくるというわけにはいかない。《魔界の扉》が開いている幅でしか、進軍できない」
「扉のこちら側に防壁のようなものを築いて、進軍してくることができないようにするとか……」
「その防壁が、扉が開くときの勢いで破壊されなかったとすれば、防壁を突き崩すまで、進軍が多少遅れるかもしれないが、ただそれだけの効果だな。それ以前に、扉が開くときの勢いで、防壁が崩れるのではないかな」
「扉が開くときの勢い?」
「人間の住む領域で、《魔界の扉》が開く前に空が赤く染まるのは、魔界の光が多量に漏れ出るからだ。人間に伝わっている伝説では、魔界には光がないとされているが、それは正確ではない。日光のように天から降り注ぐ光はないのだが、魔界には魔界の光がある。力のある光で、こちらの世界の先見の月初めごろ、その光の力が強くなる。どのぐらい強くなるかは年によって違い、極端に強くなったとき、《魔界の扉》が押し開けられ、光がこちらの世界に漏れるとともに、生き物も行き来できるようになるのだ」
ラーブもリーズも目を見開いた。先見の月に夜空が赤く染まると《魔界の扉》が開いて魔族が侵攻してくるというのは、誰もが知っている常識として伝えられてきたが、どうしてそうなるのかは聞いたことがなかったのだ。
「『《魔界の扉》が開く』という言い方は、じつは正確とはいえない。《魔界の扉》は、じつはつねに細い隙間は開いているのだ。ムグの仔が通れるか通れないかぐらいの隙間ならな。その隙間が、年に一度の魔界の光の変動で大きくなり、一定期間が過ぎるとまた小さくなる」
それもまた、初耳の知識だった。
「隙間が大きくなるとは言っても、ムグのような小動物がなんとか通れる程度のこともあれば、小柄な魔族がなんとかすり抜けられる程度の隙間のこともある。もっと大きく、軍隊が通れるほど大きく開くこともある。それほど大きな開き方をしたときには、人間の王国あたりでも魔界の光が見え、北の夜空が赤く染まるのだ。『《魔界の扉》が開く』と言われているのは、そういう状態の時だ。このあたりは人間の王国あたりより《魔界の扉》に近いから、魔界の光が見えやすい。細い隙間でも赤い光が漏れているのがわかるし、軍隊が通れるほど大きく開いたときには、赤だけではなく、さまざまな色彩の光が見える」
「その変化を観察するのですね」
「そうだ。軍隊が進軍するには無理な程度の隙間でも、細身の間諜がすり抜けてくる可能性がある。去年こちら側にいた間諜に生き残りがいれば、それと合流しようとする可能性もある。だから、どの程度の隙間が開くか、毎年、監視する必要があるのだ。それは、われわれ市職員の重要な仕事の一つでもある」
「わかりました」
ラーブは大きく頷いた。
先見の月に入る前日の夕方、ラーブとリーズは、市長に連れられて、《魔界の扉》の監視所を初めて訪れた。
《魔界の扉》の監視所は、山頂平原の北縁近くに建つ建物だった。《塔の街》の階段を上っていくと、街の最上階からさらにその上に向かう階段が数ヶ所あり、それぞれ、山頂平原に建つ地上一階建ての建物に通じているのだが、《魔界の扉》の監視所は、そのうちの一つである。
この監視所では、《魔界の扉》の監視のほか、山頂平原からの侵入者や、街からの無断侵入者の監視も行なっていた。《魔界の扉》の監視だけなら、先見の月の夜、一日一回空を観察するだけで用は足りる。だが、《塔の街》の存在を知った敵が山頂平原から侵入しようとしないか、または無許可で山頂平原に出て動植物を乱獲する市民がいないか監視するためには、建物が氷雪に埋もれてしまうような冬場以外、監視員が必要となる。それは、山頂平原への出入り口となる建物すべてにいえることだという。
ラーブたちが山頂平原に出るのは、今回が初めてではない。別の出入り口から、トウヤギの乳しぼりや食用植物を採集する人々に付き添って、山頂平原に出たことは何度もあった。その時にも、敵の侵入を監視するのと、乱獲しないように監視するのは市職員の重要な仕事だと教えられた。
《魔界の扉》の監視所では、ラーブたちが訪れたとき、ふたりの監視員がいた。人間でいえば二十代ぐらいに見える男と、四十代ぐらいに見える男だ。もちろん実年齢はその七倍ぐらいだろう。
四方の壁には窓が設けられ、そのうち一つは大きく、あとの三つは小さい。その全部の窓にガラスがはめ込まれている。一見すりガラスのように見えたが、若い監視員が布で拭くと、水滴で曇っていただけで、透明なガラスだとわかった。こんなに透明で、大きくて平坦なガラスは見たことがなかったので、魔族たちの技術の高さに、マルスたちは驚いた。
大きな窓の向かい側の壁には、小さな窓の横に、平原に出るための扉が設けられていた。ラーブたちは、扉に向かって右手の窓の光景に目を奪われた。おりしも、夕陽が最後の光を残して沈むところだったのだ。
「きれい」と、リーズが感嘆の声を上げた。
これまで山頂平原に出たのは、いずれも昼間のことで、日没を見るのは初めてである。
日が沈み切ると、市長は、扉の向かい側の窓を指して言った。
「《魔界の扉》があるのはこちらの方角だ。あそこに赤い光が見えるだろう?」
市長が指さす方向には、水平線のあたりに赤い光が見えた。夕陽と違って、水平線から垂直な光の棒が立ち上っているように見える。
「今はあの程度だが、これからの季節、あの赤い光がもっと強くなる。それだけなら、魔界の光が強くなっているだけで、《魔界の扉》の隙間に変化がないが、隙間が大きくなると、あの光がもっと上に伸び、太くなる。北の空一面が赤くなるほどだと、われわれぐらいの大きさの生き物が通り抜けられるほど開いていると見てよい。さらに、さまざまな色の光が見えるようになると、本格的に軍隊が侵攻してくることが可能なほど、大きく開いたと思ったほうがよい」
「そういう現象はいきなり起こるのですか? それとも、少しずつ隙間が大きくなっていくのですか?」
「前触れもなく突然に、軍隊が通れるほど大きく開くというころはないな。前兆として、今ぐらいの季節から徐々に隙間が大きくなり、それが光の変化として現れる。ひと月ぐらいの間に変化が起こらなければ、そのまま翌年の先見の月まで変化が起こらないと見ていいだろう」
「つまり、魔界の光が強くなって、扉に圧力がかかるのは、いつも先見の月に起こっているのですね」
「そうなのだ。理由はわからないのだが。観察と統計からすると、ほぼ一年周期で起こっている」
市長は、窓際の机に置いてある木製の物差しを取り上げた。
「これで、この位置から見えるあの赤い光の長さを測って、記録しているのだよ。計測を行うのは監視員だが、変化があれば迅速に対策を立てられるよう、市庁舎の職員も担当を決めて、毎晩確認しに来る。その監視担当に、きみたちにも加わってもらいたいのだ。担当の日は勤務時間がふだんとずれて、少し不規則になるがね。もちろん、学校のある日は、よほどの非常事態にならない限り重ならないように配慮するよ」
ラーブとリーズは頷いた。「よほどの非常事態」とは、もちろん、《魔界の扉》が大きく開く状態だろう。それは、いつかは起こることだとしても、まだまだ起こらなければいいと、ラーブたちは願った。